ふと思いついて、『知的幸福の技術』(幻冬舎文庫)に掲載したQ&Aを、自己紹介を兼ねて転載することにしました。もともとは文庫の親本である『雨の降る日曜は幸福について考えよう』(2004年9月刊)のために書いたものですが、14年たった現在でもほとんど変わっていません。ただし古くなった話を削除し、一部加筆修正しました(2018年6月)。
テレビ出演の依頼はすべてお断りしていますが、その理由は、「自分の知らないひとが私のことを知っている」のが気味悪いからです。誰もが有名になりたがっているわけではなく、このような感覚を共有するひとはじつはかなり多いのではないかと思います。ただ彼らは、社会の表舞台には出てこないので目立たないだけです。
プライバシーというのは、「いったん失えば二度と取り戻すことはできない」という際立った特徴を持つ貴重かつ稀少な資産です。インターネットの登場によって、個人情報の公開から生じるリスクは飛躍的に高まりました。誰だって四六時中、不特定多数のひとから監視される生活には耐えられないでしょう。
匿名性は個人の生活に大きな利益をもたらしますから、それを失うにあたっては、リスクを上回る十分なリターンがなければ帳尻が合いません。芸能人やスポーツ選手など、プライバシーの放棄が前提となる職業に従事するひとが高額の報酬に値するのは、成功の代償として失うものが大きいからです。私の場合、それほど有名になれるはずもなく、経済的利益も微々たるものなので、プライバシーという大きな財産を手放す気にはなれそうもありません。
「一読者として、人生論を語る著者がどのような人生を送っているのかはとても気になる」とのご意見もいただきました。私にも同じような好奇心はあるので、これは正当な要求だと思います。
ただ少しだけ言い訳させてもらえば、私は「人生かく生きるべし」というポジティヴ(積極的)な人生論を語っているわけではありません。見ず知らずの人間に説教されるのは鬱陶しいだけだろうし、そのうえほとんど役に立たないからです。
私がここで書いたのは、「日本人の人生はどのような制度的・経済的要因によって規定されているか?」というネガティヴ(消極的)な人生論です。その土台(下部構造)の上にどのような夢(上部構造)を描くかは、あなた次第です。
自分の身勝手を優先する以上、ささやかな制約を課してもいます。
ひとつは、自分自身の体験のみから語ること。書かれている内容を実人生と比較できないなら、荒唐無稽な体験をでっちあげて稀有壮大な人生論を語ることもできますが、これでは読者に対してフェアではないでしょう。教育問題をテーマにした話を何本か書きましたが、これらは1990年代の東京郊外を舞台にした自分自身の子育て体験に基づいています(したがって相応の限界があります)。
もうひとつは、制度や組織を批判することはあっても、それを担う個人を批判しないこと。匿名の人間が、実名で社会生活を送るひとに言いがかりをつけるのはやはり公平性を欠くでしょう。
もっとも私の場合、活字メディアの取材には応じることにしているので、完全な「匿名」というわけではありません。自分の主義主張を広く発表する機会を得た者には、それなりのアカウンタビリティ(説明責任)が生じるということは理解しているつもりです。
なおその後、大学入学(1977年)から1995年のオウム真理教事件に至る「長い80年代」の個人的体験を『80’s(エイティーズ)』に書きました。
私たちは生まれてくる時代や国、親兄弟を選ぶことはできませんし、交通事故で明日、死んでしまうかもしれません。人生の土台(インフラストラクチャー)の大半は、運命と呼ぶしかない変更不可能な要素で構成されています。自由に生きられる領域はわずかしか残されておらず、そのうえ簡単に失われてしまいます。
「人生を金勘定で語るな」とのお叱りを受けることがありますが、これは誤解です。私は経済的な条件が人生に大きな影響を与えることと、それが個人の意思と努力によって改善可能なことを述べているだけで、幸福が金で買えると考えているわけではありません。暖炉にくべるほどの札束を持っていても不幸な人はたくさんいます。経済的に恵まれずに不幸な人はもっとたくさんいる、というだけの話です。
愛情や美徳など、幸福な人生にとって大切なものはたくさありますが、人生の道徳的側面を強調すれば出来の悪い宗教家の説法のようなものになってしまうでしょう。人生論に高邁な理想を求めるなら、書店に行けばその手の本がいくらでも並んでいます。
私が人生設計について真剣に考えるようになったのは40歳になったばかりの頃で、一人の友人の破綻と自死がきっかけです。当時の私には、安定した経済的土台がありませんでした。自分も同じような隘路にはまり込むのではないかという恐怖を乗り越えるためにも、生き方を再構築しなければならない切羽詰った理由がありました。
人生をあっけなく終えてしまった友人を見送った頃、「経済的独立Financial Independence」という言葉を知りました。それまで自由とは哲学的なもの(こころのもちよう)だと思っていましたから、「国家や会社に経済的に依存していては真の自由はない」という徹底したリアリズムは衝撃的でした。
当時は「定年まで会社に滅私奉公し、退職金と年金で夫婦で悠々自適の老後を送る」のが正しいサラリーマンの生き方だとされていましたが、いくつかの大銀行と証券会社、名門企業がこの世から消滅し、日本はいいようのない不安に包まれるようになります。
「自由」とは抽象的な理念ではなく、人生の選択肢のことではないでしょうか。日本国憲法によれば、誰もが「生命、自由及び幸福追求に対する権利」を持っています。しかし、会社をクビになれば生きていく術がなかったり、老後の生活を国に依存し、年金制度が破綻すればその日から路頭に迷ってしまうような言葉だけの「自由」に、いったい何の意味があるのでしょう。
時代が大きく変わるなかで私は、自由に生きることのできる経済的な土台を手に入れたいと望んだのです。
もちろん私は、この質問の正しい答を知っています。それは、「経済合理的に行動すること」です。なぜなら私たちが暮らす自由な市場経済とは、経済合理的な人間の下に富が集まる仕組みなのですから。
事業であれ投資であれ、すべての経済行為にはリスクとリターンが伴います。リスクをコントロールしながら可能な限り大きなリターンを目指すことで、富を手にすることができます。
これは経済学的には疑う余地のない真理ですが、このように述べると、「金持ちになる具体的な方法が書いてないから役に立たない」とお怒りになる方が出てきます。しかしこれは、無理な注文というものです。
もし金持ちになる方法が1000円ほどの本に書いてあるのなら、世界中のひとが金持ちになっているでしょう。あるいはそれは過去の手法で、もはや役に立たないかもしれません。
自分一人の意思と努力、才覚によってしか実現できないからこそ、世の中に「お金持ち」は稀少なのです。
このようにサラリーマンは、日本の社会制度のなかで構造的にダークサイドを歩かざるを得ませんが、だからといって「サラリーマンを辞めて自営業者になろう」と勧めるわけではありません。会社や組織の一員として働くことでしか得られない経済的利益や自己実現があるからこそ、世の中のサラリーマンの多くは、合理的な判断から高い税金や保険料を払いつづけているのでしょう。
現在の日本では、豪邸を構え、ベンツに乗り、銀座のクラブで豪遊するのはサラリーマンではほぼ不可能です。好きなことをやりながら自由に旅して暮らしたいと思えば、安定したサラリーマン生活は諦めざるを得ないでしょう。しかし、他人よりほんの少しゆとりのある生活をしたいというのであれば、あえてリスクの高い選択をする必要はないと思います。
──と書きましたが、それから十数年たって日本人の働き方に対する評価はすこし変わりました。「人生100年」の超長寿時代が到来し、テクノロジーの急速な発達とともに世の中(先進国を中心とするグローバル世界)の価値観が大きく変わったことで、これからは組織と自営を自由に行き来するフリーエージェント(スペシャリスト)として「生涯現役」「生涯共働き」を目指すのがニューリッチのライフスタイルになっていくだろうと考えるようになったからです。彼ら/彼女たちはBOBOs(ブルジョア+ボヘミアン)と呼ばれ、「リベラルでカジュアルでクールなお金持ち」という感じの言葉ですが、詳しいことは『幸福の資本論』で書きました。
これはたんに論理的な帰結を指摘しただけで価値判断を伴うものではありませんが、「正義に悖(もと)る」とのご批判をいくつか受けました。「日本の社会が歪んでいるとしても、サラリーマンはその恩恵を被れないのだから、一部の人間だけがいい思いをするのは許せない」との意見もありました。
民主国家においては、選挙で選ばれた代表者の討論と多数決によって制度の歪みが正されることになっています。ところが困ったことに、その歪みが多数者に利益をもたらす場合、多数決で問題を解決することは原理的に不可能です。年金問題がその典型ですが、制度の歪みは若者やこれから生まれてくる世代を犠牲にして破綻寸前まで拡大し、その損失が多数者に及ぶことが明らかになってはじめて解決を迫られることになります。
多数者の既得権が絡む政治問題は、政治によって解決することができません。ではどうすればよいのでしょうか。
不公平な社会制度を改革するもっとも有効な方法は、正義や善意ではなく、制度の歪みをグロテスクに拡大する経済合理的で利己的な個人の行動に任せることです。ハッカーによってインターネットのセキュリティが向上していくのと同じで、超過利潤が得られるからこそ「穴」を見つけようとする者が現われ、法によってその「穴」をふさぐことでより公平で効率的な社会制度がつくられていくのでしょう。
とはいえこれは反論というより、「正義」を声高に語るひとに対しておずおずと異議を唱えてみただけかもしれません。
バブル崩壊後のもっとも大きな変化は、約束された未来がなくなってしまったことです。しかし、人生の成功法則が失われたことを悲観する必要はありません。既成の秩序が崩壊したということは、新たな可能性が開けたということでもあるからです。不安のない世界には「希望」もありません。
2002年のサッカー・ワールドカップを観て得心したのは、すぐれたサッカー選手はボールの動きに応じて頻繁にポジションを変えていることです。どんなに素晴らしい技術を持っていても、ボールが来なければスルーパスを通すことも、ゴールを奪うこともできません。
サッカーは自由と選択のゲームです。選手はフィールド内を自由に移動し、刻一刻と変わる状況のなかで常に最適なポジションを取ろうとします。試合の間じゅう一ヶ所に突っ立っていたのでは、最初から勝負になりません。
決定的なパスを通すには、常に複数の選択肢を持つよう動かなくてはなりません。パスコースがひとつしかないのでは、ディフェンダーに簡単にボールを奪われてしまうでしょう。
旧来の価値観が解体し、急速に変わりつつある世界のなかで、自分と家族の人生にとって最適なポジションを確保すること。複数の選択肢から自分の人生を選ぶ自由を手放さないこと。私がいいたいのは、要するにこれだけです。
「経済的独立」という目標(ゴール)に至る道は人それぞれでしょう。それは困難であっても、決して不可能ではありません。なんといっても日本は、平成大不況を経てなお世界でもっともゆたかな国のひとつなのですから。
人生の経済的な側面に自覚的であれば、努力と才能、そして幸運の女神によって、必ずやゴールという最高の報酬が与えられるにちがいありません。