香港人のプライベートバンカーからその奇妙な名刺を見せられたのは、3年ほど前のことだった。名前のほかに、携帯電話の番号とホットメール(マイク ロソフトが運営する無料メール)のアドレスしかない怪しげな名刺は、日本出張の必需品だという。それ以外にも、顧客情報の入ったパソコンの携行は許されず、資料はあらかじめ現地の知人宛に郵送しておくなど、さまざまな規則があるのだと教えられた。
その当時、UBS、クレディスイス、香港上海銀行など大手金融機関のプライベートバンク部門は、香港に日本人(および日本語を話す外国人)担当者からなる「ジャパンデスク」を擁し、日本の富裕層を積極的に開拓していた。いずれも歴史と信用を誇るグローバル金融機関ばかりだが、それがまるで犯罪者のように身分を偽って入国審査をすり抜けるのだ。彼はジョークとして語ったが、私にはそれが真っ当なビジネスだとはとても思えなかった。
4月2日、主要20カ国・地域(G20)金融サミットの首脳宣言に合わせ、経済協力開発機構(OECD)がタックスヘイヴン(租税回避地)の最新版 ブラックリストを公表した。このリストでは、OECDが定めた税務情報の交換等の基準(OECD基準)に従わない「非協力国」としてコスタリカ、ウルグアイ、フィリピン、ラブアン(マレーシア)の4カ国・地域が挙げられたほか、「OECD基準を満たしていない」金融センターとしてスイスの名前がはじめて登 場した。
これに先立つ2月18日、スイス系プライベートバンク最大手のUBSが米国政府との司法取引に合意し、米国人顧客への脱税幇助を認め、総額7億 8000万ドル(約780億円)の制裁金を支払うとともに、約300件の顧客情報を開示した。だがIRS(米国税務当局)はこれに満足せず、その翌日、 UBSに対し5万2000件のすべての米国人口座情報を提供するよう新たな裁判を起こした。
こうした一連の政治的な動きは、タックスヘイヴンとそこを拠点に活動するプライベートバンクを明らかに標的としている。米国政府は、タックスヘイヴ ンによって毎年最大700億ドル(約7兆円)の損失が国庫に生じていると推計している。EU諸国、とりわけドイツとフランスは、スイスやルクセンブルク、 リヒテンシュタイン、モナコなどの国々が“脱税ビジネス”によって不当な利益を享受していると批判を強めていた。
タックスヘイヴンは、北朝鮮やかつてのイラクのような「犯罪国家」なのか。それ以前に、そもそも「税金のない国」とはいったいどのようなところなのだろうか。
タックスヘイヴンの本質
タックスヘイヴンの定義はさまざまだが、おおよそ以下のような制度を採用している国・地域とされている。
- 課税対象は国内所得のみで、国外所得は非課税。
- 資産課税(贈与税・相続税)がない。
- 利子・配当所得や譲渡所得(株式・債券などの売却益)に課税されない。
- 非居住者でも銀行や証券会社などの金融機関を自由に利用できる。
- 非居住者でも法人(営利法人や信託・財団など)を自由に設立できる。
- 他国と租税条約を締結していない。
- 金融取引における個人・法人の情報が制度的に保護されている。
タックスヘイヴン型の税制の最大の特徴は、国内の事業や就労から得た所得にのみ課税し、国外所得を課税対象から除外することだ。これによって非居住 者の個人・法人は、実質的に所得税・法人税が無税になる(これに対してスイスのような軽課税国は厳密にはタックスヘイヴンとはいえない)。
それ以外の項目は、先進諸国でも採用されているものが多い。
カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどは相続税をすでに廃止している。アメリカは外国からの投資を奨励するため、個人・法人にかかわらず非 居住者の利子所得と株式・債券など金融資産の譲渡所得を非課税にしている(配当所得は10パーセントの源泉徴収課税に軽減)。非居住者が銀行口座を開くこ とは原則としてできないが、証券口座なら比較的簡単に開設できるし、デラウエア州やハワイ州など非居住者でも法人を登記できる州がいくつもある。
それでは、税制上の優遇措置を講ずるこれら先進諸国とタックスヘイヴンではなにが違うのだろうか。それは端的にいえば、国家の規模である。一般に タックスヘイヴンの国内経済は貧弱で、外国人の保有資産の比率が圧倒的に高い。それらの資産は国内に投資されるのではなく、タックスヘイヴンを経由して海 外へと再投資されていく。
日本国内の証券会社を利用して株式を売買すれば、譲渡益に対して所定の税金を証券会社が代行して納付する(特定口座の場合)。ところがタックスヘイ ヴンの金融機関を使って日本株に投資すれば、資金は日本市場に還流するものの、利益の全額を非課税のまま手にすることができる。
このように資本移動が自由な開放的な市場では、タックスヘイヴンの存在は高課税国の税制を否応なく蚕食していく。これが、「有害税制」と呼ばれる所以だ。
だがはたして、これは「悪」として指弾・排斥すべきものなのだろうか。
「正義」はどちらの側に
私たちの生きている近代(モダン)社会では、地球の表面を任意の国境で分割し、その領域内の国土と国民を国家という政治権力が独占的に管理してい る。これが主権で、本来は神から授かった至上の権力のことだ。国際社会において主権国家を超える権力は存在せず、いかなる国家も他国の主権を侵害すること は許されない。
ところでここで、完全に民主的な手続きで税金を撤廃し、移民を自由化した理想国家を考えてみよう。これは内政問題だから、国際社会が口を挟む理由は ない。だが世界じゅうの富裕層が全財産とともに競ってこの無税国に移住しようとすれば、資産の流出で困窮した国々は口をきわめて「有害」政策を非難するに ちがいない。 私たちはここで、奇妙な逆説に困惑することになる。
人身の自由と私的所有権は、近代の法体系を支える両輪である。国家は市民の自由な移動を保障し、私有財産を保護する義務を負う。財産をどこに移そうが、どの国に移住しようが、個人の自由だ。
だがそうなると、無税国への政治的圧力や移住・財産移転の制限は、主権ばかりか市民権(基本的人権)をも侵害していることになる。原理的に考えれば、「犯罪国家」とは我々のことなのだ。
これがたんなるお伽噺なのは、現時点ではさまざまな要因で個人の自由な移動が困難だからだ。グローバル化によって貨幣や資本は軽々と国境を超えるよ うになったが、物理的なひととしての我々はそのスピードに付いていくことができない。この時間差によって、個人よりも先に資産だけが無税国に移転してしま う。この状態を「不正義」と呼ぶならば、移動の制約がなくなった時点で、「正義」は無税国の手によって回復されることになるだろう。
事実、物理的なひとではない別種のひと――法人には移動にともなう制約はなく、本社を無税国に移転することで合法的に法人税のくびきから逃れること ができる。この節税法は「正義」に叶っているので、国家はそれを阻止することができない。こうして世界的に法人税率が引き下げられ、徴税方法が消費税のよ うな間接税にシフトしていくことになる。
すべての国家が対等の主権を持つのが国際社会のルールだとすれば、特定の国の制度だけを“有害”と批判することはできない。税金を払うか払わないか はあくまでも個人の問題であり、資産を預かる金融機関やその登記地とはなんの関係もないことだ。さらにいうならば、国民に税金を払いたくないと思われるの は当の国家の自己責任ともいえる。
このような論理で、タックスヘイヴンはこれまで自らの正当性を主張してきた。だがその金融機関が実質的に他国の主権を侵害しているとしたら、話は別だ。