認知症と安楽死問題

発売中の月刊『文藝春秋』11月号に、「医療の常識を疑え」という特集の1本として、「月10万円で完全介護 海外老人ホームで死ぬ選択」というルポを書いている。フィリピンに移住した日本人高齢者を取材した記事だが、日本の介護事情との比較のために都内の特別養護老人ホーム(特養)と有料老人ホームにも話を聞きにいった(残念なことに、紙幅の関係で本文には使えなかった)。

特養は安価に入居できる老人ホームで、よく言われるように、全国に40万人の待機者がいる(そのホームも、50床に対して200人の待機待ちだった)。施設は個室と相部屋の混合だが、都内の一等地にあることもあり、きわめて人気が高い。

私が驚いたのは、入所者の全員が認知症を患っていることだった。程度はひとによって違うものの、自分が老人ホームにいることすら理解しないひともいた。

認知症の妻をかいがいしく介護する芸能人が美談として大きく取り上げられたが、「認知症は家庭では介護できない」というのが、介護現場の常識だという。疲れ果てた家族が、施設への入所を申請する。私は、入所を望んで「待機」しているのは高齢者なのだと思っていたが、実際には、「待機」しているのは本人ではなく家族なのだ。

ホームはさまざまな基準で、待機者を受け入れるかどうかを判断する。ここでも当然、私は要介護度の高いひとが優先されるのだろうと思っていた。だが、入所の基準は実はそれほど単純ではない。

そのホームでは、「手のかかる」認知症患者は最大2人(できれば1人)が限界だという。だから、夜間に徘徊したり、暴力をふるったりする患者がすでにいれば、同様の症状の待機者は選から漏れてしまう。家族がもっとも切実に入所を望むのはこうした患者だから、この判断は理不尽にも思えるが、ホームのスタッフたちは限界に近い勤務条件で働いており、他の入所者のことも考えれば、仕方のないことなのだろう。

こうして、「手のかかる」認知症患者は彼ら専用の施設に送られることになる。そこは、精神病院だ。

一部の精神病院は、重度の認知症患者を少人数のスタッフで管理できるよう拘束し、劣悪な環境に放置することで収益を上げている。家族はそのことを知っているが、強制退院を恐れているので、見て見ぬふりをしている。知人の精神科医は、こうした精神病院を「人間倉庫」と呼んだ。

日本はこれから、人類史上未曾有の高齢化社会に否応なく突入していく。65歳以上の人口は約3000万人、すでに国民の4人に1人は「老人」になった。いずれこの国に、膨大な数の認知症患者が溢れることになる。

その時私たちは、安楽死の問題から目を逸らすことができなくなるだろう。