ヘビを気持ち悪いと恐れるのは生得的な感情です。猛毒を持つヘビに安易に近づいた個体が生命を落とし、警戒した個体が生き延びて子孫を残したことで、ヘビへの強い嫌悪感が「選択」されました。これが進化論の標準的な説明で、ヒトだけでなくチンパンジーの子どもも同じようにヘビを恐れることがわかっています。長大な進化の時間軸のなかで一部のヘビが毒を持つようになり、それに対して他の生き物が、長くてにょろにょろ動くものを嫌悪するようになることで対抗しました。私たちはこうした「共進化」の末裔なのです。
ところでここで、「イヌやネコをかわいがってヘビを嫌うのはヘビに対する差別だ」と主張するヘビ愛好家が現われたとしましょう。すべての生き物は生まれながらにして平等なのだから、長くてにょろにょろ動くというだけで、毒を持たない“善良な”ヘビまで嫌うのは「生き物権」の侵害だというのです。
「生き物権」を普遍的な自然権とするならば、ヒトを害さないヘビを不当に貶めてはならないとの主張はどこも間違ってはいません。ヘビの権利を擁護する活動家は、法によってヘビへの差別を禁じると同時に、教育によって差別感情を矯正するよう求めるでしょう。社会の多数派がこの「リベラル」な政治的立場を受け入れれば、小学校ですべての生徒に「ヘビを差別しない明るい社会」を目指す授業が行なわれるようになります。
しつけや教育によってヘビへの気持ち悪さがなくなるのなら、これでなんの問題もありません。しかし困ったことに、ヘビへの嫌悪感は遺伝子に埋め込まれたプログラムなので、どれほど教育されても気持ち悪い感じは消えません。ところがヘビの権利を擁護する社会ではその嫌悪感は口にしてはならないと抑圧され、さもなくば「差別主義者」のレッテルを貼られて社会的に葬り去られてしまうのです。
「ヘビ差別」をなくそうとする教育的努力は、必然的に個人の内面に介入します。子どもたちは「ヘビを差別することは道徳的に許されない」と教えられますが、ヘビを見ると気持ち悪さを抑えることができません。この矛盾を解消しようとすれば、自分を「不道徳」な存在として断罪するか、「ヘビを差別する自分は正しい」と開き直るか、どちらかしかありません。
誰も自分のことを嫌いになることはできませんから、自己批判はとても苦しい作業です。そこで自分を「不道徳」と断罪したひとは、やがてその感情を他者に投影し、あらゆる「差別」を血眼になって探し、相手を批判することで自身の「正義」を証明しようとするでしょう。「差別する自分は正しい」と開き直ったひとはそれを「偽善」と罵り、自己正当化に使えるありとあらゆる理屈(たとえば陰謀論)にしがみつくかもしれません。
この問題の本質はどこにあるのでしょう? それは現代社会の価値観と、進化の過程でつくられた(無意識の)感情が常に整合的であるとはかぎらないことです。解決困難な社会問題の多くはこの両者の衝突から生じますが、ひとびとの内面に道徳的に介入すること(善意による説教)はなんの解決にもならず、かえって事態を悪化させるだけです。
さて、この寓話はなんのことをいっているのでしょうか。それはみなさん一人ひとりが考えてみてください。
『週刊プレイボーイ』2016年10月31日発売号
禁・無断転載