新刊『「読まなくてもいい本」の読書案内』の第一稿から、紙幅の都合で未使用の原稿を順次公開していきます。これは第3章「ゲーム理論」9「統計学とビッグデータ」の「大相撲で八百長を見破る」のあとに入る予定だった原稿です。
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統計学は真実に辿りつく超強力な理論で、ビジネスを中心にぼくたちの人生に大きな影響力を持つようになった。だから最後に、「絶対計算」も絶対とはいえないという話をしておこう。
スティーヴン・レヴィットの『ヤバい経済学』が世界じゅうでベストセラーになったのは、「犯罪者はみんなどこへ消えた?」で、1990年代になってアメリカの犯罪件数が劇的に下がりはじめた謎を解明したからだ。
それまでの15年間に凶悪犯罪は80%も増えており、専門家たちは今後も犯罪は増えつづけると予想していた。だがニューヨークでは、暴力犯罪が90年代に70%以上も減少したのだ。
そこで専門家は、犯罪の減少を取締りの強化や懲役の増加、麻薬市場の変化、人口の高齢化、銃規制、好景気、警官の増員、死刑の増加などさまざまな理由で説明しようと試みた。これらを検討したレヴィットは、次の3つは統計的に犯罪を減らす効果を持ったと指摘した。
(1) 懲役の増加。危険な犯罪者を投獄しておけばその分だけ犯罪は減る。90年代の犯罪減少の3分の1は、投獄された犯罪者の増加で説明できる。ただし、死刑の増加は犯罪の減少とはほとんど関係がない。アメリカでは死刑はめったに執行されず、犯罪の抑止力にはならないのだ。
(2) 警官の増員。アメリカの地方選挙では、投票日前の数カ月間、現職市長は警官を増員して法と秩序の維持を訴える。選挙を行なった市と行なっていない市を比較すれば、警官が増えると犯罪率が大きく下がることがわかる。
(3) 麻薬市場のバブル崩壊。90年代になってコカインやクラックの末端価格が暴落した。1988年にニューヨークで起きた殺人の25%はクラック絡みだったが、麻薬取引が儲からなくなると、売人たちは生命を賭けて縄張り争いをするのがバカバカしいと思うようになり、凶悪犯罪が減った。
だがこの3つの要因を足し合わせても、90年代になって犯罪件数が急激に下がった理由を説明できない。そこでレヴィットは、統計分析を使って、誰も気づかなかったその謎を手品師のように解いてみせた。そのこたえは「中絶の合法化」だ。
1960年代後半からアメリカでは一部の州が中絶を認めるようになった。とりわけ大きな影響を与えたのは1973年の最高裁判決で、中絶を合法としたこの裁判のあと、1年間でアメリカ全土の75万人の女性が中絶を受け、その件数は80年に160万件に達して横ばいになった。
レヴィットは、中絶の合法化で出産を止めたのはどういう女性なのかと問う。彼女たちの多くは未婚で、貧しくて、10代の「望まない妊娠」をした女性たちだ。そして多くのデータが、貧困や母子家庭、母親の教育水準が低いことが、子どもが犯罪者になるかどうかを予測する強力な因子であることを示している。中絶合法化によって、本来犯罪者になるはずだった子どもたちがこの世に生まれてこなかったために、(彼らが10代後半になるはずの)90年代から急激に犯罪件数が減ったのだ。
この仮説を裏づけるために、レヴィットは中絶を合法化した年が州によって異なることを利用した。中絶率と犯罪発生率の相関を調べると、1970年代に中絶率が高かった州は1990年代の犯罪率がより大幅に減少しているのだ。さらにオーストラリアとカナダを調査してみても、中絶合法化と犯罪には同様の関係があった。
アメリカの保守派は、「銃を持つ権利を認めれば犯罪は減る(相手が銃を持っているかもしれないとしたら、犯罪者は安心して獲物を襲えない)」と主張している。それに対してリベラル派は銃規制を求め、刑務所から軽犯罪者を釈放するよう要求している(刑務所内で他の犯罪者と交流することで常習犯罪者になる)。だがレヴィットは、どちらの主張も統計学的に間違っているとして、誰にとっても不愉快な解決策(未婚で貧乏なティーンエイジャーは中絶した方がいい)を提示したのだ。――アメリカには中絶を殺人と同じだと考えるひとたち(キリスト教原理主義者)がたくさんいるというのに。
だがその後、レヴィットにさんざんバカにされた犯罪学者のあいだから、90年代の犯罪減少についてまったく別の説明が現われた――それも、レヴィットが得意な統計学を使って。それは「中絶」よりさらに奇想天外なもの、「胎児の血中の鉛レベル」だった。