新刊『「読まなくてもいい本」の読書案内』の第一稿から、紙幅の都合で未使用の原稿を順次公開していきます。これは第3章「ゲーム理論」で使う予定だった「複雑系経済学」の紹介です。
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経済学が抱える最大の問題が「合理的経済人」の前提にあることは間違いない。行動経済学がこの前提が成立しないことを証明した以上、経済学も、ゲーム理論も、理論の正当性に深刻な疑問を突きつけられている。
この矛盾は、じつは経済学の内部でも気づかれていた。
大学で勉強する経済学は、ミクロとマクロに分かれている。ミクロ経済学は家計(消費者)の需要と企業(生産者)の供給から市場の構造を一般化しようする「帰納型」で、マクロ経済学は国民所得や失業率、インフレ率などのデータから一国経済を分析しようとする「演繹型」だと説明される。でもいまでは、この区別はほとんど意味がなくなっている。
1970年代に経済学者ロバート・ルーカスは、同じ経済現象をミクロ経済学とマクロ経済学が別々に説明するのはおかしいと主張した。その当時、マクロ経済学とはケインズ経済学のことで、一国経済のさまざまなデータを集計し、そこから景気を回復させたり失業率を低下させる効果的な政策(たいていは公共事業のような財政政策)を導き出していた。
でもルーカスは、政府が借金をして(国債を発行して)公共事業を行ない、景気をよくしようとしても、うまくいかないのではないかと考えた。合理的な国民は、いま受け取ったお金は将来の増税によって取り返されると考えるから、それに備えて収入の一部を貯金するだろう。そうなればいくら公共事業をしても消費は増えず、景気もよくならないのだ(このことを最初に指摘したのは19世紀はじめのデヴィッド・リカードで、「リカードの中立命題」と呼ばれる)。
なぜこんなことが起きるかというと、市場が高度なフィードバックシステムだからだ。
これまでのマクロ経済学は市場を物理的世界と想定して、さまざまな数学的モデルを組み立ててきた。でも水の分子は考えたりしないが、市場参加者は相手の動きを先読みして自分の選択を変えることができる。そういう「賢いプレイヤー」の存在を無視して数式だけをいじってもなんの意味もないのだ。
ルーカスの批判は、近代経済学の内側からのラディカルな異議申立てだった。市場ゲームのフィードバック構造を考慮するなら、マクロ経済学の理論はミクロ経済学に連結されていなければならない。これが「(マクロ経済学の)ミクロ的基礎づけ」で、ルーカスの登場以降、この条件を満たしていないマクロ経済学の理論は相手にされなくなった。
ルーカスは、市場のあらゆる情報を知り、数学的に最適な選択を行なう全知全能の「合理的経済人」を仮定しなかった。そのかわり、ひとびとは不確実な世界のなかで、さまざまな期待を抱いていると考えた。ひとが利己的であるならば(おそらくそうだろう)、この期待は、自分がもっとも得をするよう合理的なものとして形成されるはずだ。――これが現代の経済学の中心命題である「合理的期待形成」だ。
1980年代なると合理的な「期待」や「予想」がマクロ経済を席巻し、どのような財政・金融政策も、国民がその負の効果をあらかじめ期待(予想)してしまうから効果がない、と主張されるようになった。これが、「政府はなにもせずに市場に任せたほうがいい」というレーガンやサッチャーの経済政策の理論的バックボーンだ(ミルトン・フリードマンらのマネタリストは、中央銀行が通貨の供給量を一定に保つ以外に政府がやることはないとした)。
ところがその後、ケインジアン(ケインズ主義者)から、合理的期待形成の前提を受け入れつつも、マクロ経済政策が有効になる理論的可能性が示された。これがニュー・ケインジアン・モデルで、価格の粘着性と不完全競争を前提にすれば、財政政策や金融政策で短期の景気変動に影響を与えることができるはずだ。アベノミクスの第一の矢である金融政策も、このニュー・ケインジアン・モデルに則っている。