近刊『「読まなくてもいい本」の読書案内』の「はじめに」を、出版社の許可を得て掲載します。
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知が物理的な衝撃だということをはじめて知ったのは19歳の夏だった。
フランスの哲学者ミシェル・フーコーの2度目の来日が1978年4月で、東京大学での講演を中心に雑誌『現代思想』6月号でフーコー特集が組まれた。ぼくは発売日に大学の生協でそれを手に入れて、西荻窪のアパートに帰る電車の中で読み出した。
阿佐ヶ谷あたりだと思うけど、いきなりうしろから誰かにどつかれて、思わず振り返った。でも、そこには誰もいなかった。その衝撃は、頭の中からやってきたのだ。
フーコーはそこで「牧人=司祭体制」の話をしていた。牧人というのは羊飼いのことだ。
羊飼いは羊を管理しているけど、彼の仕事は餌や水を与え、できるだけ多くの子羊を産ませることだ。牧人は羊に対して絶対的な権力を行使するが、その目的は弾圧や搾取ではなく健康と繁殖の管理、すなわち羊の幸福なのだ。
この新しい権力は、牧人であると同時に司祭でもある。
カトリックの告解は、司祭に罪の告白をし、神の許しを乞うことだ。でもこれは、信徒が自らの魂を神の前にさらすことではない。信徒にはもともと魂(内面)などなく、司祭の導きと告解の儀式によって、キリスト教の教えにぴったりの魂がつくられていくのだ――。
ぼくはそれまで、「権力」というのは自分の外(警察とか軍隊とか政治とか)にあって、自由を抑圧しているのだと素朴に信じていた。でもフーコーは、そんなのはすべてデタラメだという。
「権力はきみのなかにある。きみ自身がきみをしばりつけている権力なんだ」
これはまさに権力観のコペルニクス的転換で、あまりの驚きでうしろから殴られたように感じたのだ。
そのとき以来ぼくは、「自分は善で、(自分の外にある)悪=権力とたたかっている」というひとをいっさい信用しないことにした。でもあれから40年ちかく経つのに、いまだに陳腐な善悪二元論を振りかざすひとは減らない――というか、「韓国人を殺せ」と叫ぶ集団を見ればわかるように、ますます目立つようになっている。
このことからぼくは、もうひとつの教訓を学んだ。科学や技術は進歩するけれど、ひとは進歩しないのだ、ぜんぜん。
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この本では、“知のパラダイム転換”への入口として、大小さまざまな驚きを集めてみた。
ここで紹介した複雑系、進化論、ゲーム理論、脳科学、功利主義の考え方は、ときどき話題になったりするけれど、世間的にはあまり評判がいいとはいえない。それは素朴な感情を逆なでするからだろうが、ちゃんと考えれば当たり前のことばかりでもある(そう思ったでしょ)。
文部科学省が国立大学に人文社会科学系の学部・大学院の統廃合を迫ったことで、“教養”をめぐる議論が巻き起こった。国際競争に勝つために高度な教育はごく一部のトップ校(G大学)だけにして、それ以外の大学(L大学)は職業訓練に徹すればいい、といい提言も話題を呼んだ。
これに対して人文系の学者は、(当然のことながら)「人間力を鍛えるためには教養が必要だ」と反論している。たしかにこの“複雑で残酷な世界”を生きていくためには知力だけでなく人間力も大事だろうが、彼らは根本的なところで間違っている(あるいは、知っているのに黙っている)。それは、人文系の大学で教えている学問(哲学や心理学、社会学、法律学、経済学のことだ)がもはや時代遅れになっていることだ。
こういうことをいうと大学の先生たちは激怒するだろうけど、これから大学に進んだり、専門を決めようと考えている学部生にはほんとうのことをちゃんと伝えておく必要がある。
古いパラダイムでできている知識をどれほど学んでも、なんの意味もない。
1980年代には、NEC(日本電気)が開発したPC-9800が日本ではパソコンの主流で、98(キュウハチ)のOSを専門にするプログラマがたくさんいたけれど、マイクロソフトのWindowsの登場ですべて駆逐され、その知識は無価値になってしまった。哲学や(文系の)心理学は、いまやこれと同じような運命にある。「社会科学の女王」を自称する経済学だって、「合理的経済人」の非現実的な前提にしがみついたり、複雑系を無視してマクロ経済学の無意味な方程式をいじったりしている学者はいずれ淘汰されていくだろう。
大学教員の仕事は“教養”という権威を金銭に換えることで、ほとんどの文系の大学は彼らの生活のために存在している。その現実が明らかになるにつれて、風当たりが強くなるのは当たり前なのだ。
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バブルが崩壊して以来、日本の社会はデフレ不況の長い低迷期に入り、閉塞感に覆われている(といわれている)。本書では扱えなかったけれど、その理由は日銀がお金を刷らないからじゃなくて、日本の社会に「差別」が深くビルトインされているからだ。
年功序列・終身雇用の日本的な労働慣行は、正規・非正規という「身分」差別、新卒一括採用や定年制という「年齢」差別、子どもが生まれてサービス残業できなくなると昇進させない「女性」差別、本社採用と海外の現地採用で待遇がちがう「国籍」差別によってできている。これほどまでに重層的な差別が社会の根幹を蝕んでいたら、個人がどんなにがんばっても「自由な人生」が実現できるはずはない。
なぜこんな差別がいまだに残っているかというと、それによって得をするひとたちがたくさんいるからだ。それは「日本人」「中高年」「男性」「一流大卒」「正社員(終身雇用)」という5つの属性を持つアタマの固いおじさんやおじいさんのことで、政治や行政・司法から学校や会社、マスコミに至るまで、日本社会は彼らの既得権でがんじがらめになっている。
日本の社会で「リベラル(自由主義者)」と呼ばれているひとたちは、大学の教員にしても、マスメディアの正社員にしても、自分たちの組織が弱者を差別していることには知らない顔をして、「国家権力」なるもの(安倍政権とか)とたたかう振りをしてカッコつけているだけだ。フーコーが教えてくれたように、ひとはエラくなるほど自らの内なる権力から目を背け、外に敵をつくって偽善を隠蔽しようとする。
なかには、「理屈ではそうかもしれないけど、日本の社会ではすぐにはうまくいかない」と弁解するひともいる。これは現実主義(リアリズム)といわれているけど、こういうひとは、黒人が差別されている時代のアメリカなら、「人種の平等なんてすぐに実現できるわけはないんだから、とりあえず白人専用の公衆トイレを廃止しよう」なんて“穏当な”リベラルの意見をしたり顔でいうのだろう。
でも若いきみたちなら、自分たちが「差別」しながら「格差をなくせ」と主張する偽善者の論理に振り回されることなく、“知のパラダイム転換”を軽々と受け入れて、効率的で衡平で合理的な「よりよい世界(ベターワールド)」をつくっていくことができるはずだ――と思ったからこそ、この本を書いたんだけど。
2015年10月 橘 玲
『「読まなくてもいい本」の読書案内』(筑摩書房) 禁・無断転載