第36回 スイス銀「スパイもどき」の教訓(橘玲の世界は損得勘定)

 

世界金融危機の前の話だが、香港のあるスイス系プライベートバンクに知人を訪ねた。彼は香港人だが、日本人の顧客も担当していて、年に何回か日本に出張する。そのときの“出張用グッズ”を彼が見せてくれた。

特製の名刺には英語とカタカナで名前が印字され、あとは携帯電話の番号とWebメールのアドレスが載っているだけだった。携帯は日本で購入したもので、ふだん仕事に使っているものとは番号が違う。出張用のノートパソコンもあって、そこには顧客のデータはもちろん、銀行との関係がわかるものはいっさい入っていない。説明用の資料はあらかじめ国際宅配便で日本の知人に送っておいて、入国後に受け取るのだという。

なぜこんなことをするかというと、入国時に身柄を拘束されて顧客情報が税務当局の手に渡るのを防ぐためだ。「まるでスパイみたいだね」といったら、「自分たちは顧客にとって最善のサービスを提供しているが、国家がそれを邪魔しているのだ」と説明された。

その後、プライベートバンク最大手UBSの幹部が米国で拘束されたことで、スイスの銀行が世界じゅうで同じ「スパイもどき」をやっていることが明らかになった。これは米国とスイスの国際問題になり、UBSは7億8000万ドルの罰金を支払うともに、約5000件の顧客情報を米国の税務当局に提出した。

だが、話はこれだけでは終わらなかった。2010年に米国議会は税法を改正し、米国外の金融機関に対し、米国人口座の詳細を税務当局に開示するよう求め、それを拒否した場合には利子や配当、譲渡益に対し30%の源泉徴収を行なうことを通告した。これがFATCA(外国口座税務コンプライアンス法)だ。

EU(欧州連合)でも、加盟国が相互に口座情報を交換する動きが進んでいる。ヨーロッパのタックスヘイヴンにある金融機関は、これまでEU居住者の利子から35%を源泉徴収し居住国に支払うことで匿名性の維持を認められていたが、この特例も順次廃止され、一部は2015年から銀行情報の交換が始まる。またOECD(経済協力開発機構)も、15年末までに加盟国間の情報交換制度の詳細をまとめる予定だという。

“鉄壁の守秘性”を売りものに巨額の資金を集めてきたスイスもこの潮流に逆らえず、秘密主義の転換を余儀なくされた。

スイス政府は今年8月、金融機関が米国人顧客の隠し口座の情報を提供し一定の罰金を払うかわりに、脱税幇助での起訴を免れるという合意を米司法省と結んだ。プライベートバンクの守秘性を信じた顧客はひどい目にあうだろうが、顧客との約束より自分たちが生き残ることを優先したのだ。

スイスの名門プライベートバンクが犯罪者みたいことをやっていると知ったとき、「こんなのはぜったいおかしい」と思った。だがおそろしいことに、当事者にはこんな当たり前のことすら見えなくなってしまう。社会を揺るがす深刻な問題は、たいていの場合、子どもでもわかるようなことが起こすのだ。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.36:『日経ヴェリタス』2013年10月6日号掲載
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