書店に行くと、「世界のなかで日本はスゴい」という本が並んでいます。これは中国や韓国から、「戦争中に日本はこんなにヒドいことをした」と反省を迫られていることの反動でしょうし、かつてはほんとうにスゴかった日本経済がすっかり凋落してしまったことで、自信を失ったことの裏返しでもあるのでしょう。
しかしこれらの本は、不思議なことに、人類の歴史のなかで日本だけがなしとげたほんとうにスゴいことに触れていません。
1575年の長篠の合戦で、織田信長の鉄砲隊が武田勝頼の騎馬隊を殲滅したことは日本史の教科書にも出てきます。このとき信長は1万の鉄砲隊を率い、そのうちよりぬきの3000人を3分隊に分けて川岸に配置し、川の手前で勢いの鈍る武田軍の騎馬隊に1000発の銃弾を連続して浴びせたのです。
ところが私たちのよく知る時代劇では、江戸時代の侍は腰に刀を差していて、銃器の類はいっさい持っていません。これが明治維新まで続いたことで、日本がかつて鉄砲大国だったことはすっかり忘れられてしまいました。
1543年、種子島に漂着したポルトガル人の火縄銃と弾薬を領主が購入し、日本に鉄砲が伝来します。それから1年もたたないうちに種子島の刀鍛冶は鉄砲の自作に成功し、10年もすると日本じゅうの鍛冶が種子島銃を大量に製造するようになりました。当時は戦国時代の真っ只中で、新式の武器はつくればいくらでも売れたからですが、その背景には日本が鉄の産地だったことと、日本刀や鎧の製作できわめて高い冶金技術を持っていたことがあります。
すくなくとも陸戦においては、16世紀の日本はヨーロッパを圧倒する最強の軍事国家でした。長篠の合戦から12年後、フランスでアンリ4世が銃火器を使って“歴史的”な勝利を収めますが、その時の鉄砲隊の人数はわずか300人だったのです。
ところが秀吉の死で朝鮮出兵が終わると、徳川幕府は鎖国と同時に鉄砲の製造を事実上禁止してしまいます。天下を平定した後では過剰な武器は不要だったからですが、鉄砲が忌避されたほんとうの理由は、武士を頂点とする身分制を崩壊させかねなかったからでしょう。
当時の武士は、合戦で名乗りをあげ、1対1で真剣勝負をすることに自らと家門の名誉を賭けていました。しかし鉄砲があれば、町民や農民でも後ろから武士を撃ち殺すことができます。鉄砲を捨てることは、“武士道”を守るための絶対条件だったのです。
戦国時代の日本は、ヨーロッパの強国を一蹴できるだけの強大な軍事力を有していました。それを伝統社会に戻したことが、冷戦時代に欧米の研究者の注目を集めました。日本人が鉄砲を放棄できたなら、アメリカやソ連も核兵器を放棄できるかもしれないからです。
歴史は一直線に進むわけではなく、文明の利器を捨て去った民族はたくさんあります。しかし日本ほど大規模にそれを行ない、ガラパゴス化した例は類を見ません。
ペリーの軍艦が寄航を求めたとき、江戸幕府にはそれを追い返すちからはありませんでした。幕府軍は、砲台を描いた巨大な布を海岸に掲げて軍艦を威嚇していたのです。
参考文献:ノエル ペリン『鉄砲を捨てた日本人―日本史に学ぶ軍縮』
『週刊プレイボーイ』2013年6月24日発売号
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