経済学においては、ひとの行動はインセンティブによって決まると考えます。インセンティブは「誘引」や「利潤動機」などと訳されますが、かんたんにいえば「得したい」とか「損したくない」という感情のことです。
インセンティブは、「ほめられたい」とか、「カノジョ(カレシ)から注目されたい」とか、日常生活のさまざまな場面で重要な役割を果たしますが、そのなかでも経済的なインセンティブは数値化が容易で、議論を数式で表わすことが可能になります。壮大なマクロ経済学の体系も、もとをただせば、「同じアイスクリームなら150円より148円の方がよく売れる」とか、「同じ仕事なら時給900円より910円の方がたくさん応募があるはずだ」というような、誰もが知っている経験則からつくられているのです。
ところで、世の中には経済学が大嫌いなひとがたくさんいて、「みんな損得だけで行動している」という前提(合理的経済人)が根底から間違っている、と批判します。
商売では、損を覚悟で安く売る、という“非合理的”な行動がしばしば見られます。しかし経済学では、こうした親切は「相手と長期的な関係を築くための合理的戦略」として“損得の体系”に組み込まれてしまいます。そのことが、道徳や正義といったたいせつな価値をないがしろにするように思えるのです。
もちろん私たちは、日々の決断(選択)のすべてを損得で行なっているわけではありません。しかしその一方で、「得したい(損したくない)」という気持ちが決め手となった決断もたくさんあるでしょう。だったら私たちは、どの程度、経済的に合理的なのでしょうか。
官民格差の是正を目的に、国家公務員の退職金が段階的に約15%引き下げられることが決まったことで、各地の自治体が地方公務員の退職金を減らす条例を制定しはじめました。ところが、条例の施行日が自治体ごとに異なっていることから、一部の都道府県では3月の年度末まで在籍すると退職金が150万円程度減額されることになり、公立学校の教員や警察官の駆け込み退職が急増して社会問題になりました。
2月1日に条例を施行した埼玉県では、100人以上の教員が教え子の卒業を待たずに早期退職することが明らかになり、文科相が「自己都合で早期に辞めるのは決して許されない」と述べ、「(担任の教師が)子どもよりお金を選ぶとは。信じたくない」という小学生の母親の言葉が新聞に掲載されたりしました。また愛知県警では、3月に定年退職予定の289人のうち署長を含む142人が2月末で早期退職の意向を示していて、業務への影響が心配されています。
地方公務員の退職金減額問題は巧まざる“社会実験”です。
教師は“聖職”とされ、警察官は「公共への奉仕」の象徴です。彼らはこれまで、誇りをもって公務員として働いてきたはずです。
そんな彼らが、「隣の県の公務員は満額の退職金を受け取れるのに、自分たちだけが損をする」というインセンティブにどのように反応したのかを見れば、結論は明らかでしょう。
「ひとは経済的な損得に基づいて合理的に行動する」という経済学は、たんなる空理空論ではなく、この社会で起きていることを上手に説明できるのです。
『週刊プレイボーイ』2013年2月18日発売号
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