大阪の市立高校で、バスケットボール部の男子生徒が顧問教諭からの体罰を理由に自殺した事件の余波も収まらないうちに、こんどはロンドン五輪代表を含む柔道女子の選手が代表監督の暴力行為を日本オリンピック委員会(JOC)に告発し、代表監督が辞任するという前代未聞の事件が起きました。
一連の体罰問題を受けてマスメディアは「暴力行為は許されない」と大合唱していますが、石原慎太郎日本維新の会共同代表を筆頭に、政治家や文化人のなかにも体罰肯定を公言するひとはいくらでもいます。彼らは「体罰は暴力ではない」といっているのですから、いくら暴力を否定しても話はすれ違うばかりです。
街頭インタビューなどでも、「体罰は許されない」との正論が多数派の一方で、「本人がきびしい指導を望むなら認めてもいい」という意見も多く、日本の社会に体罰容認の文化が深く根づいていることを示しています。
体罰容認派の主張は、「信頼や愛情に裏打ちされた体罰は子どもを成長させる」というものです。女子柔道の代表監督も記者会見で、「選手に乗り越えてほしいという思いから手を上げた」と述べています。私はこれを、日本の社会に典型的な「体育会系マネジメント」だと考えています。
「体育会系マネジメント」の基本は、あらかじめ閉鎖的な社会(ムラ)をつくっておいて、そこに生徒や選手を精神的に「監禁」することです。
運動部は学校単位なのでバスケを続けたければ体罰に耐えるしかありませんし、代表監督に逆らえば五輪代表はあきらめるほかありません。こうして逃げ場をなくしたうえで、愛情と暴力を交互に与えることで相手を服従させ、支配していくのは洗脳の典型的な手法で、カルト宗教だけでなく、日本では学校や会社でごく当たり前に行なわれています。
「体育会系マネジメント」は、集団を統率するうえできわめて強力な管理手法ですから、その信奉者が現われるのは当然です。運動部やオリンピックチームで体育会系マネジメントが好成績を収めているのなら、「暴力はよくない」と全否定してもなんの効果もありません。
石原氏とともに日本維新の会の共同代表を務める橋下大阪市長は、体罰自殺問題で市立高校体育科の入試中止と部活動の停止を指示しましたが、体罰が日本の文化から生まれてくるものならば、特定の学校や教師に懲罰を加えたところでなにも解決しません。
体罰問題の本質は、学校別運動部という閉鎖社会にあります。これを抜本的に解決するには、すべての学校の運動部を廃止して、Jリーグの下部組織のようにスポーツは地域のクラブが担うようにするしかありません。
生徒の側に選択の自由が与えられているのなら、「きびしくも愛情あふれる指導」を売りものにするクラブがあってもいいでしょう。体罰がたんなる指導者の自己満足だと思えば、子どもたちは別のクラブに移っていくだけです。
そのうえで優秀なスポーツ指導者が、「体育会系マネジメント」でなくても勝てるチームはつくれるし、金メダルを取れる選手を育てられることを事実として示さないかぎり、この国の「体罰神話」はなくならないでしょう。
『週刊プレイボーイ』2013年1月12日発売号
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