石原慎太郎氏が東京都知事を辞職し、新党を結成して次期衆院選に臨むことになりました。
石原氏は80歳、共に新党を結成する予定の「たちあがれ日本」代表の平沼赳夫氏は73歳です。別に「年寄りだからダメだ」というつもりはありませんが、バラク・オバマが51歳、イギリスのキャメロン首相が46歳であることを考えると、「年寄りの冷や水」という言葉がどうしても頭をよぎります。
多くのひとが指摘しているように、石原氏が国政復帰を決断したのは、長男の伸晃氏が自民党総裁選に惨敗したからでしょう。息子の出来が悪いと親がしゃしゃり出てくるのはどの世界も同じです。
「老後」というと、私たちは孫の世話が生きがいの悠々自適を思い浮かべます。これは無意識のうちに、サラリーマンの人生を前提としているからでしょう。
日本のサラリーマンは「終身雇用」といわれていますが、60歳や65歳で定年を迎えるのですから、これは日本語として間違っています。サラリーマンは超長期雇用かもしれませんが、ある年齢に達すると強制退職が待っています。そしていったん「解雇」されると、社会から切り離されて、個人の世界に引きこもるしかなくなってしまうのです。
ところが、サラリーマン以外の自営業者には「定年」がありません。政治家は自営業の典型ですから、選挙で当選するかぎり、いつまでも商売をつづけることができます。
このような「終身稼業」で、ひとはどのような選択をするのでしょうか?
会社に定年があるのは、強制解雇しないと、悠々自適の老後を選んだりしないことを知っているからです。私たちのアイデンティティは、社会的な関係性から生まれます。傍から見れば「権力にしがみつく」醜い姿かもしれませんが、地位を失うことは自分自身を否定されるのと同じなのです。
しかしそれでも、疑問はまだ残ります。高齢者を尊重すべきだとしても、後進に道を譲る謙虚さも大事です。自分が新党の党首にならず、若い政治家を盛り立ててもいいようなものですが、政治の世界では、元気な老人は主役の座からぜったいに降りようとはしません。
これは、ひとがみな、「自分を中心に世界が回っている」という妄想にとらわれているからです。どれほど知的なひとでも、「いま、ここに自分がいる」という圧倒的な臨場感を否定することはできません。
日本の政治が転換期にあるとしても、そのなかで石原新党の果たす役割は些細なもので、過去の有象無象の新党と同じく、10年も経てば誰も覚えてはいないでしょう。しかし、こうした“客観的”な自己評価をひとは絶対に受け入れません。
私たちが完全に合理的だとすると、自分の存在など世界のなかで(あるいは人類の歴史のなかで)とるに足りない砂粒のようなものですから、生きている「意味」など見出せるわけはありません。スタートレックに出てくるミスター・スポックのような超合理的な人間がいたとしたら、狂人になるか自殺するほかないのです。
健全な精神には健全な妄想が必要です。ところが困ったことに、この妄想は、年齢や能力の衰えとは無関係に肥大しつづけるのです。
『週刊プレイボーイ』2012年11月12日発売号
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