先日、慎泰俊『ソーシャルファイナンス革命』を紹介したが、私はこうしたファイナンスのイノベーションについて、若干の疑問を持っている。それについても忘れないうちに書いておきたい。
ムハメド・ユヌスがマイクロファイナンスを始める前は、新興国の貧しいひとたちは金融業者から年利数百パーセントというきわめて高い金利で融資を受けるしかなかった。だが慎氏も指摘するように、これは金融業者が暴利をむさぼっていたわけではない。新興国に特有のさまざまな事情(高いインフレ率、政治的・社会的なリスク、モラルハザードなど)によって、“暴利”でなければビジネスが成立しなかったのだ。
ところがユヌスは、融資の返済を「連帯責任」にすれば回収率が劇的に高まることを利用して、貧しいひとたちに少額の無担保融資を「低利」で提供した。これはスゴいイノベーションで、貧困への取り組みを一変させたからこそノーベル平和賞を受賞したのだ。
ところでユヌスのグラミン銀行でも、貸出金利は年利20%超と、先進国の基準ではじゅうぶんに「高利」だ。メキシコ最大のマイクロファイナンス機関コンパルタモスは2008年に株式市場に上場したが、財務諸表から推測される金利は年利70%以上で、インフレ率を除いた実質金利でも65%を超えるという(これはさすがに利益優先の暴利として、ユヌスから「マイクロファイナンスは新しい高利貸しをつくるためのものではない」と批判された)。
年利20%で資金を借りて、約束どおりに返済するためには、それ以上の利回りで「投資」をしなければならない。マイクロファイナンスの利用者は、どのようにして融資を返済しているのだろうか?
これも慎氏が書いているが、たとえば中国の穀倉地帯では、収穫期に稲刈りを代行する「賃刈屋」という商売がある。小規模農家にとっては、1年に1度しか使わない稲刈り機を購入するよりも、手数料を払って賃刈屋に頼んだほうが割に合うのだ。
賃刈屋は、3年もすれば農機の費用を回収できるといわれている。そこから先は利益なので、借金してビジネスを始めてもじゅうぶんに採算が取れるのだ。
新興国には、ちょっとした才覚でお金を稼ぐことができるニッチな投資機会がたくさん残っている。それは市場がじゅうぶんに成熟していないからで、だからこそ年利20%でマイクロファイナンスから融資を受けた村の女性たちが、牛や馬を買って育てたり、工芸品を手づくりしたり、露天で物売りや飲食店を始めたりして、費用(借り入れコスト)を上回る収益をあげることができるのだ。
私の疑問は、アメリカやヨーロッパ、日本のような成熟した市場経済では、こうした小商い(@平川克美)の機会はそれほど多く残されていないのではないか、というものだ。
ソーシャルファイナンスでは、ICTやSNSを活用したクラウドファンディング、P2Pファイナンスによって、より効率的かつ低利に少額の資金を提供できるとされる。日本では上限金利が15~20%だから、ソーシャルファイナンスによって、たとえば年利10%の無担保融資が可能になるとしよう。
ところで、年利10%でお金を借りたひとは、それでなにをするのだろう?
いまや日本では、企業に対する銀行の貸出金利の平均が1%を下回っている。これは、金利1%で銀行から融資を受けても、それを上回る投資機会がないと企業が考えているからだ。企業による「大商い」ですら難しい成熟した市場では、仮にマイクロファイナンスから融資を受けたとしても、個人はそのコストを回収する「小商い」をすることができないのではないだろうか。
「ソーシャルファイナンス入門」でも、融資の使い道についてははっきりとは語られていない。海外の大学でMBAを取得する、スマホのアプリを開発する、などの例が挙げられているが、多重債務者の大半がギャンブルと女(女性の場合は買い物)で借金まみれになっている現状を考えれば、その落差はあまりにも大きい。
金融テクノロジーの発達によって、ファンディング(調達)やレンディング(融資)の仕組みが大きく進化し、旧態依然とした金融機関は市場からの退場を余儀なくされる。これはもちろん素晴らしいことだが、問題は、だぶついたマネーをいったいどこに投資できるのか、ということにある。
この国で、お金を必要としているのは誰なのだろうか? 消費者金融で借りた資金で起業して成功した、などという話は誰も聞いたことがない。消費者金融が「低利」のソーシャルファイナンスに変わったとしても、それだけではなにも変わらないだろう。
PS 『貧乏はお金持ち』で書いたように、日本では国や自治体の“パブリックファイナンス”を利用すると、自営業者や小規模企業家(マイクロ法人)ですら無担保(ほぼ)無利子で1000万円程度のファイナンスが可能になる。このような制度があるかぎり効率的な金融市場は成立せず、パブリックファイナンスから排除された顧客がソーシャルファイアンスに殺到する「逆選択」が避けられないだろう。