TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)についての論戦がヒートアップしています。協定の内容や各分野での利害得失などさまざまな論点があるでしょうが、それを脇に置いておけば、あらゆる国がすべての関税を一斉に撤廃するのがもっとも理想的であることは明らかです。
なぜ「明らか」なのかは、アダム・スミス以来の近代経済学が200年余の歳月をかけて築いた膨大な知の遺産が証明しているわけですが、ここではもっと簡単に説明してみましょう。
関税をかけることが常に有利であれば、(たとえば)静岡県は、県内のみかん業者を保護するために和歌山県産のみかんに高率の関税を課すべきです。でも真剣にこんな主張をするひとがいたとしたら、あなたはきっと、いちど病院で診てもらったほうがいいと思うでしょう。
日本でも江戸時代までは関所で商品の流通を管理していましたが、いまでは県境での〝関税〟を撤廃して国内市場を完全自由化しています。それなのになぜ、国境では自由貿易を制限するべきなのでしょうか。国内ではみんなを幸福する「自由貿易」が、世界規模に拡張されると一転してみんなを不幸にする、などということがあり得るのでしょうか。
“反自由貿易主義者”は、このシンプルな問いに答えることができません(もしそれができたなら、経済学の根底を全否定する世紀の大発見になるでしょう)。
理屈で勝てないときは、ひとは感情に訴えます。“鎖国”派も、人間のもっとも原初的な感情を利用しようとします。それが、「なわばり」です。
ひとは(というよりも、ほとんどの生き物は)「なわばりを死守する」というプログラムを遺伝子に組み込まれています。この感情はあまりにも強力なので、「“奴ら”が“俺たち”のなわばりを荒らしている」というプロパガンダは、常に素晴らしい効果を発揮します。これは理屈ではないので、国際経済学の比較優位の理論などを持ち出してもなんの意味もありません。
さらに困ったことに、人間の脳には、自分が感情的に魅かれるものを「正しい」と合理化する機能が備わっています。残念なことに、どれほど理をつくしても、理解したくないひとは説得できないのです(そうでなければ、ソクラテスが毒杯を仰ぐことはなかったでしょう)。
“鎖国”か“開国”かは、日本においては幕末の頃からずっと争われてきました。明治時代の論争では、愛国的な“鎖国”派の主張は、「日本人は劣等人種なのだから、安易に開国すれば欧米人の奴隷になるだけだ」というものでした。現代の“鎖国”派は、「日本の農業は“劣等産業”なのだから、TPPに参加すれば農業は壊滅する」と力説しています(「競争力がない」というのは、「劣等産業」を“政治的に正しく”言い換えたものです)。
ひとの遺伝子は、1000年や2000年では変わりません。だから私たちは、いまでも150年前の明治維新の頃と同じことをしているし、これからもずっと同じ論争をやり続けるのでしょう。
そもそも、ひとは「進歩」しないのです。
参考文献:小熊英二『単一民族神話の起源』
『週刊プレイボーイ』2011年11月7日発売号
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