世界金融危機とプライベートバンク 『週刊ダイヤモンド』2010年1月30日号

「うちに口座を開くのは、税務署に口座を開くのと同じですよ」と、そのプライベートバンカーは言った。彼は、日本に進出した外資系金融機関のPB(プライベートバンク)部門に所属していた。もう10年以上前の話だ。

彼によれば、大手町にあるオフィスには毎日のように国税局の担当者がやってきて、大口の海外送金をチェックしていくのだという。その資料をもとに、資金の出所や送金目的を問い合わせる「お尋ね」が送られる。やがて同僚たちのあいだで、「○×さん、税務調査が入って大変みたいだよ」と、話のネタになる……。もちろん税の申告は自己責任だから、彼らはなにもしてくれない。

日本国の法令の下にある金融機関は、定められた範囲で、税務調査に対して顧客情報を提供する義務を負う。富裕層だけを集めたPBは、税務当局にとっては得意客リストと同じだ。それを考えれば、出所を隠したい資金をPBから海外送金しようなんて誰も思わないだろう。こんな当たり前のことに気づかないのは、自業自得だ。

このPBはその後、不祥事を起こして日本から撤退してしまった。それでもこれまでこの話を公にしてこなかったのは、内外の金融機関が“富裕層ビジネス”に力を入れるなかで、その金看板に泥を塗るのは気が進まなかったからだ。

ところがこの1年で、金融の世界は様変わりしてしまった。PBと税務署の蜜月を明かしても、困る人はもうどこにもいないはずだ。

神話は崩壊し、顧客は奈落の底へ

富裕層の多くが、日本国の法の及ばない海外に口座を持ちたいと考える。その需要に応えるため、大手PBはスイスや香港、シンガポールに「ジャパンデスク」と呼ばれる日本人(および日本語を話す)担当者のチームをつくり、定期的に日本を訪問して顧客開拓をしていた。

こうしたクロスボーダー(国境を越えた)取引が可能になるのは、世界が主権国家の集合体だからだ。主権は文字どおり“神の権力”で、他国の主権を侵すことは許されない。これはすなわち、無税の国(タックスヘイヴン)に資産を移せば、その実態を誰にも知られることがないということだ。

大手PBはこの利点を活かし、国境の向こうから担当者を送り込んで顧客を勧誘していたが、その事実を公然と非難されることはこれまでなかった。「顧客のプライバシーと資産を守る」という“神話”によって、PBは自らの正義を主張できたからだ。

ところがスイスの大手PBであるUBSと米国政府との税務訴訟で、この神話は跡形もなく崩れ落ちてしまった。UBSは米司法省に対し、米国人顧客の脱税を幇助したことを認め7億8000万ドル(約700億円)の罰金を支払うとともに、約5000件の顧客情報を開示したのだ。

この情報をもとに、米税務当局は約150件の訴訟を起こし、さらには1万ドル以上の残高のある全顧客に対して自主的な報告を求めた。利益を申告せずに訴追された場合、元金を大幅に上回る追徴課税・罰金だけでなく、最長10年の懲役を科される恐れもある。

伝統と格式あるPBは自らの身を守るために顧客を見捨て、奈落の底へと突き落としたのだ。