ドイツ系ユダヤ人の政治思想家ハンナ・アーレントは、ナチス親衛隊幹部で、強制収容所による「ユダヤ人問題の最終解決」を指揮したアドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴し、「悪の陳腐さ」という有名な言葉を残した。だが同じような陳腐さは世界のどこにでも―たとえばカンボジアにも―あった。
トゥール・スレン収容所は、ドゥイチ(本名カン・ケク・イウ)と呼ばれる若い所長によって管理・運営されていた。ドゥイチはポル・ポトら最高幹部から直接、指示を受ける立場におり、絶対的な権威として収容所に君臨し、3年4カ月の間に1万4000人の容疑者を取り調べ、そのほぼ全員を粛清したとされる。それと同時にドゥイチは、きわめて几帳面に、容疑者の自白調書を記録に残した。ベトナム軍によるプノンペン陥落の際もこれらの膨大な文書は破棄されることなく、それによって後世の研究者たちは収容所の全貌に迫ることができたのだ。
ドゥイチはカンボジアの最高学府リセ・シソワットをきわめて優秀な成績で卒業し、高校の数学教師を経て革命運動に身を投じた。「死の監獄」の収容所長に就任したのは、32歳のときだ。
ドゥイチの消息はプノンペン陥落から途絶えていたが、20年後の99年1月、アメリカ人ジャーナリストによって所在を突き止められた。このスクープに世界が驚いたのは、悪魔の化身のように恐れられていたドゥイチが96年に洗礼を受けて敬虔なクリスチャンになっており、タイ国境のキャンプで国連や米国の民間救援組織とともに難民救済活動に献身していたことだった。
フランスの民俗学者フランソワ・ビゾは1965年からシェムリアップでアンコール遺跡の調査を行なっていたが、71年にクメール・ルージュに拘束された。そのときビゾを取り調べたのが、若き日のドゥイチ(当時28歳)だった。ビゾはこの体験を誰にも語らなかったが、ドゥイチ拘束の報を受けて30年の沈黙を破り、処刑の恐怖に怯えた虜囚の日々をはじめて公にした(『カンボジア運命の門』)。
ビゾの願いは、等身大のドゥイチを知ってもらうことだった。彼はドゥイチの公明正大な報告と尽力により、奇跡的に死刑を免れ、生還することができたのだ(同時期にクメール・ルージュに捕えられた外国人は、全員がスパイとして処刑された)。
ドゥイチは、ビゾと2人のカンボジア人の助手を別々に訊問し、その証言を厳密に付き合わせた結果、どこにも矛盾点がないという理由でビゾの釈放を上層部に求めた。だがクメール・ルージュのナンバー2だったヌオン・チュア(後の人民最高会議議長)が強硬に死刑を主張したため、ドゥイチは身の危険をも顧みず、ポル・ポトに直接かけあって釈放の指示を取りつけた。こうして革命の純粋さを信じる若者と、フランス人民俗学者のあいだに奇妙な友情が芽生えていく。
トゥール・スレンの所長に就任してからも、ドゥイチは可能な限り公正さを保とうと努力した。彼は、スパイであると自白しない者を処刑することができなかった。そして自らの正しさを証明するために、膨大な供述調書を残したのだ。
そうした調書のひとつには、元電気工の次のような「自白」が記されている。
私はCIAのメンバーではありません。罪状を突きつけられて、CIAだと言ったのです。でも、私は革命に従わなかったのだから、殺してくださるよう〈組織〉にお願いします。〈組織〉がかつて私を信じて下さっていたのだから、私は死に値します。(中略)自分が有罪であることは、はっきり認めます……もうすぐ死ぬのだから。輝ける革命万歳! 革命組織万歳!(デーヴィッド・チャンドラー『ポル・ポト 死の監獄S21』)
自ら「殺してくださるよう」お願いし、自分は殺されるから有罪だと「自白」するのがカフカ的不条理とするならば、アメリカ人ジャーナリストのインタビューに答えたドゥイチの次の言葉はさらに重い。
私の罪は、あのころ神ではなく共産主義に仕えたことだった。殺戮の過去を大変後悔している。裁判で死刑にされてもかまわない。私の魂はイエスのものだから。(山田寛『ポル・ポト「革命」史』)
ドゥイチは人道に対する罪と戦争犯罪でカンボジア特別法廷に告発され、2010年7月、禁固35年の刑が言い渡された(「違法拘束」期間を差し引いた刑期は19年とされた)。