『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』に掲載したマクドナルドの話に、前段を加えたものです。
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年をとることの利点のひとつは、自分がどれほど愚かだったかわかるようになることだ。ぼくもほとんどの若者と同じように、度し難い愚か者だった。
高校2年のとき、たまたま学校の近くの喫茶店にいたら、そこが不良の溜まり場で、いきなり警察官がやってきて彼らといっしょに補導されてしまった。ぼくは自宅謹慎になり、あまりに暇なので、家にあったロシア文学全集を読みはじめた。10日間でドストエフスキーの長編をすべて読んでしまうと、ぼくはその悪夢的世界に完全に洗脳されて、この作家の小説を原文で体験するしかないと思い定めた。
当時もいまもロシア文学を教えている大学はわずかしかなく、書店の大学案内を見て、ぼくはそのなかのひとつを選んだ。それ以外はどこも受験しないというと、担任の教師はそんな生徒がいることが信じられないらしく、なんども進路指導に呼ばれた。そのたびにぼくは、「進むべき道は決まっているのだから、法学部や経済学部を受けるのは時間とお金のムダだ」とこたえた。
そうまで意地をはって入学したものの、東京の一人暮らしに魅了されて、ぼくはそうそうに、語学の勉強はもちろん、大学に通うことも放棄してしまった。その当時は珍しくない話だけれど、けっきょく、大学4年間で授業は数えるほどしか出席していない。
傲慢さは、つねに愚かさの裏返しだ。
大学4年の夏を過ぎ、みんながスーツ姿に着替えて就職活動をするようになっても、ぼくはあいかわらずアルバイトと麻雀の日々を過ごしていた。もちろんつぎつぎと一流企業に内定を決めていく級友たちのことが気にならなかったわけではない。でもぼくは、自分の怠惰を正当化するために、彼らのことを無理矢理見下していた。
ドストエフスキーの『地下生活者の手記』やゴーゴリの『外套』から強い影響を受けていたぼくは、世の中の真実は社会の最底辺にしかないという奇怪な信念を抱いていた。有名企業のサラリーマンになれば安定した生活が手に入るかもしれないけれど、そのかわり彼らは、この世界のもっとも大切なものを知ることなく、小市民的な退屈な日常をえんえんと生きつづけるしかないのだと、本気で思っていたのだ。
その頃ぼくは、荻窪のボロい木造アパートに住んでいた。近くを環八(環状八号線)が走っていて、そこにドライブスルーを併設したマクドナルドの大きな店舗があった。
大学4年の秋から、ぼくはそこで掃除夫兼夜警のアルバイトをすることになった。夜の11時から翌朝6時まで、二人一組で厨房や客席、駐車場などを清掃しながら、暴走族の溜まり場にならないように管理するのが仕事だ。近所で時給が高く、どうせ昼夜逆転の生活なのだから、一石二鳥だと思ったのだ。
いまもむかしも、マクドナルドといえば“青春のアルバイト”の典型だ。更衣室には従業員の交換ノートが置かれ、高校生や大学生の女の子たちが丸文字でお互いの近況を報告しあっていた。壁には合コンの予定やテニス大会の案内がびっしりと貼ってあった。その華やかな世界は、ぼくたちにはまったく縁がなかった。ドブネズミのような夜間清掃人は、太陽の国の住人からは仲間だと思われていなかったのだ。
マクドナルドの仕事は激務で、店長は夜中の1時過ぎまでその日の帳簿をつけていた。その同じ店長が、朝の6時に鍵を受け取りに来るのだから、いったいいつ寝ているのだろうと不思議だった。
ある日、深夜3時頃に真っ赤なフェアレディZが駐車場に滑り込んできた。掃除の相棒がそれを見て、「あっ、カネコさんだ。カッコいいなあ」と感嘆の声をあげた(日産のフェアレディZは、その当時、圧倒的な人気を誇ったスポーツカーだ)。 カネコさんはスーパーバイザーで、担当地域の店舗を管理し、店長を教育する立場だった。
革ジャンにジーンズという軽装のカネコさんは、片手をあげて「ようっ」と挨拶すると、店内をざっと見渡した。革のブーツはぴかぴかに磨きあげられていて、文字盤がいくつもついた黄金色の時計をしていた。
帳簿を点検するカネコさんのテーブルに紙コップのコーラを持っていった相棒は、「あのひと、スゴいんだよ」と興奮気味に語った。「最年少のスーパーバイザーで、ものすごく仕事ができて、大金を稼いでいるんだよ」
店長より上位のスーパーバイザーは、アルバイトにとっては神さまのような存在だ。カネコさんは30歳前後で、青山か六本木の豪華なマンションに住み、年収は1000万円だと噂されていた。風呂なし共同トイレのぼくから見れば、想像を絶する身分であることは間違いない。
そのカネコさんと、いちどだけ話したことがある。12月の終わりで、正月のシフトを確認するために店に呼ばれたのだ。年末年始は学生バイトが減るためやりくりが大変で、そのかわり時給も高くなった。ぼくはなんの予定もなかったので、おカネを稼ぐ格好の機会だった。
たまたま店に来ていたカネコさんが、ぼくの履歴書を見て、「君、就職は?」と訊いた。就活の時期はとっくに終わっていたから、「なんの当てもないけど、卒業だけはするつもりです」とこたえた。漠然と、ウェイターでもやって暮らしていけばいいやと思っていたのだ。まったくの社会不適応者で、いまならネットカフェ難民一直線だ。
カネコさんは首をかしげてしばらく考えていたが、「君、うちに来る気はない?」といった。「特別に推薦してあげるよ」
ぼくはびっくりした。マクドナルドは当時も外食産業の花形で、社員はエリート中のエリートだった。それ以前に、今年の採用はすでに終わっているはずだった。
「そんなのなんとでもなるんだよ」カネコさんは、真っ白な歯を見せて笑った。「君みたいな世間知らずが、あんがい伸びるんだよ」
その話はけっきょくお断りしたのだけど(店長やカネコさんの仕事ぶりがあまりにハードでビビったのだ)、カネコさんは嫌な顔ひとつせず、「とにかくスーツを買いなよ」とアドバイスしてくれた。
「新聞の求人欄を見て面白そうな仕事があったら、面接に行って“一生懸命働きます”っていうんだよ。どうせ、君がなにもできないことくらいみんなわかってるんだからさ」
年明けからぼくはそのとおりのことをして、新橋にある小さな出版社に職を見つけた。