あなたがある町でパン屋をやっているとしましょう。ところが隣の町に新しいパン屋ができて、安くて美味しいパンを売るようになりました。当然、大人気で、あなたの町のひとたちも隣町にパンを買いに行くようになりました。
このとき、町ごとの経済を考えると、あなたの町の富が隣の町に流出しているように見えます。これが「貿易赤字」で、隣町は同じ額の「貿易黒字」を計上しています。
これは「町の経済」を理解するためのたんなる便法ですが、店にお客さんがこなくなったあなたは、ここにはなにかの「陰謀」があるにちがいないと考えます。そして町のひとたちに向かって、隣町の不正に報復すべきだと訴えました――。これがトランプ関税です。
国家は町とはちがって、通貨を発行したり、自国の産業を保護・育成するための措置を講じたりしています。それでも「自由貿易がみんなをゆたかにする」という経済学の常識が広く受け入れられたことで、わたしたちは人類史上空前の繁栄を謳歌できるようになりました。
ところがトランプは、貿易黒字は「得」、貿易赤字は「損」だと信じています。アメリカが中国や日本に対して貿易赤字になっているのは、不正によって損させられているのだというわけです。こうして世界経済は、パン屋の寓話と同じになってしまいました。
じつはこの誤解は、1980年代に入って深刻化した日米貿易摩擦でアメリカ政府が主張してから、半世紀ちかくにわたってずっと続いています。国際経済学の初歩の初歩ですから、トランプ政権の官僚たちも当然、このことは知っているでしょう。それにもかかわらず、これがブードゥー(呪術)経済学であることを大統領に理解させることができず、暴走を許してしまったことは、まさに経済学の敗北です。
高関税は経済活動を委縮させますから、アメリカでも日本でも、世界中で株価が暴落しました。これに対してトランプは、「株価の下落は望まないが、薬を飲まなければならない時もある」と強弁しています。――その後、米国債の価格が急落(金利は高騰)したことで、景気の悪化をおそれて関税の上乗せ分を90日間停止することを決めました。
皮肉なのは、国民のゆたかさの指標である「1人当たり名目GDP(2023年)」では、アメリカは8万2715ドルと7位で、それに対して日本は半分以下の3万3899ドルで34位に沈んでいることです。トランプの妄想とは逆に、貿易赤字のアメリカはゆたかで、貿易黒字の日本は貧乏なのです。
さらなる皮肉は、高関税によってアメリカ人が貧乏になれば、輸入品を買うことができなくなって、貿易赤字が縮小することです。(ほぼ)すべての経済学者が、トランプが唱える「関税による経済回復」を愚行だと批判するのも当然でしょう。
ところで、これまで左派(レフト)やリベラルは、「経済格差」の元凶としてグローバル資本主義を諸悪の根源として批判してきました。今回のドタバタ劇に意味があるとすれば、トランプが関税によってグローバル経済を破壊しようとしたことで、多くの「知識人」が主張してきたように、より公正で平等な世界になるかが事実によって検証できることくらいでしょう。
小宮隆太郎『貿易黒字・赤字の経済 日米摩擦の愚かさ』東洋経済新報社
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