EUは「未確認政治物体(UPO)」

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2016年8月公開の記事です(一部改変)

Alexandros Michailidis/Shutterstock

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イギリスのEU離脱を機に、日本では「EU=善なるもの」「イギリス=大馬鹿者」という善悪二元論がマスメディアに溢れた。その後、彼らが望んだような大破局(世界金融危機の再来)が起こらず、世界的に株価が逆に上昇したことで尻すぼみになり、最近では「イギリスのEU離脱はたいしたことない」との宗旨変えも増えてきたようだ。

株価が大きく下落すれば、それは「大惨事の予兆」だ。株価が回復すれば、「惨事は過ぎ去った」ということになる。それでなんとなく予測が当たっているように見えるのは、(プロの投資家を含め)金融市場の参加者が後付けの理屈に振り回されるからだ。こうして「エコノミスト」や「アナリスト」の予想どおりに(短期的には)相場が動く。これが「予言の自己実現」効果だ。

だがヨーロッパでいったい何が起きているのかを知ろうとすれば、もっと本質的な問題に目を向けなければならない。それはたとえばEUという壮大な政治・社会実験の構造的な欠陥で、そこから、日本では「大馬鹿者」と一蹴されているEU離脱派の論理にも耳を傾けるじゅうぶんな理由があることがわかるだろう。

参考 ブレグジット(イギリスのEUからの離脱)の論理をあらためて考える

「誰がEUを統治しているのか」問題

イギリスの国民投票でEU離脱派は「コントロールを取り戻せ」をスローガンに掲げたが、これが大きな効果を発揮したのは、EUが民主的な正統性を欠いているからだ。

EUの統治構造はきわめてわかりにくいが、その基本設計は(皮肉なことに)離脱を決めたイギリスの政治制度を踏襲している。

フランスのストラスブールとベルギーのブリュッセルの2カ所に議事堂を持つ欧州議会は、イギリスの下院(日本の衆議院)に相当する立法府だ。各国首脳からなる欧州理事会は位置づけとしてはイギリスの上院(日本では戦前の貴族院)に相当し、事実上EUの最高意思決定機関になっている。ブリュッセルにあるEU委員会が行政府で、そのトップである欧州委員会委員長(当時はルクセンブルク前首相のジャン=クロード・ユンケル)が「EU首相」ということになる。

だがそもそも欧州議会議員選挙にヨーロッパのひとたちはほとんど興味を持っておらず、回を重ねるにつれて投票率が下がり、イギリス独立党や(フランスの)国民戦線(NF)など「EU解体」を唱える勢力が第一党になったりする。そのうえ欧州委員会委員長(EU首相)は欧州議会によって選出されるわけではなく、各国首脳が集まる欧州理事会のメンバーの1人ではあるものの、特別な権限を持ってはいるわけでもない。欧州理事会の常任議長(当時はポーランドのドナルド・トゥスク首相)は「EU大統領」と称されるが、その実態はEUのたんなるスポークスマンだ。

EUは(イギリスを入れれば)人口でもGDPでもアメリカを上回る巨大な権力機構だが、その統治構造が理解不能というのはものすごく不安だ。そこで「EUはいったい誰が仕切っているのか」という“独裁者探し”が始まった。とはいえEUの中核国はイギリス、フランス、ドイツの3カ国で、イギリスのキャメロン元首相は今回の離脱騒ぎで明らかなようにもともとEUに関わる気はなく(「イギリスはいかにEUに関わらないか」をアピールすることがキャメロンの残留戦略だった)、フランスは低成長と高失業率で「ヨーロッパの大国」の地位から脱落しつつあり、そのうえ続発するテロと移民問題で手いっぱいだ。そうなると消去法で、近所の親切なおばさんにしか見えないアンゲラ・メルケルが「EUの独裁者」ということになった。

この理屈はとりわけフランスの知識人が大好きで、ナチスを引き合いに出してメルケル批判に精を出している(エマニュエル・トッド『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる 日本人への警告』 (堀 茂樹訳/文春新書)が、ドイツがEUで独裁的権力を握っているのなら、ギリシア危機や難民問題の処理でなぜあれほど苦労したのかがわからない。ほんものの独裁者なら、反論を封殺してなにもかも自分の好きなように決めればいいだけだろう。

だったらEUは誰が統治しているのか? その答はもうおわかりのように、「統治者はいない」というものだ。

統治者の場所が空白となっている統治機構などというものは、これまで誰も見たことがない。この現実を知った「知識人」は、なんとかして統治者=独裁者を見つけようとするか、そのような統治機構が存在できるはずはない(あるいは倫理的に「存在していいはずはない」)と考えた。前者が「メルケル独裁論」、後者が「EU解体論」で、EU批判というのはつきつめればこの2つになる。

「メルケル独裁論」はヨーロッパの現実と大きくくいちがっており、「負け犬の遠吠え」みたいなものでしかない。だが「EU解体論」の方はずっと強力だ。「統治者のいない統治機構は存在できない」というのが正しければ、EUの運命はすでに決まっているのだ。

この難問をどのように考えればいいのだろうか。

「ヨーロピアン・ドリーム」が破綻してもEUは生き残った

EU研究の第一人者で、欧州委員会に専門調査員として関わった経験もある遠藤乾氏は、2013年に刊行された『統合の終焉 EUの実像と論理』(岩波書店)の冒頭で次のように書いている。

大文字の「統合(Integration)」は終わった。けれども、どっこいEU(欧州連合)は生きている。

ここでいう「大文字の統合」とは、EUを民主的な正統性のある統治機構にする試みのことだ。そこでは「ヨーロッパ市民」の選挙によって欧州議会議員が選出され、欧州議会がEU首相を選出して、EU政府を統治することが構想されていた。その場合、欧州理事会はイギリスの貴族院のように民主政を補完する役割を担い、欧州理事会議長(EU大統領)はドイツ大統領のような名誉職になるだろう。こうして民主的正統性を得たEUは「ヨーロッパ帝国」となり、アメリカや中国・ロシアと伍す大国として現代世界に君臨することになる……。

だがこの「ヨーロピアン・ドリーム」はすでに2005年に、EUの中核国で創設メンバーでもあるフランスとオランダが国民投票で欧州憲法の批准を拒否したことで消え去った。これはEUにとって、今回のイギリスの離脱に匹敵する(あるいは上回る)衝撃で、その後に予定されていた欧州憲法批准の国民投票はすべて凍結・延期された。「熟慮期間」が必要との理由だが、現在でも「熟慮」しているということは、EUを「帝国化」する構想が完全に破綻したことを示している。これが「統合の終焉」で、EUの構造的な欠陥はすでにこのときに露になっていたのだ。

遠藤氏が強調するのは、EUというプロジェクトは冷戦の産物だということだ。第二次世界大戦後のヨーロッパはソ連の核の恐怖の下に置かれ、共産主義諸国(コメコン)との経済競争にさらされていたのだから、歴史的な遺恨をめぐって争うより、平和のためにひとつにまとまるしかないというのはごく自然な発想だった。

ところがソ連が解体し冷戦が終焉すると、この反共プロジェクトは根本的な書き換えが必要になった。ひとつは統一ドイツの誕生で、もうひとつは東欧の旧共産圏に広大な空白が生じたことだった。

このときフランスのミッテラン大統領は、イギリスのサッチャー首相の反対を無視して、通貨主権(マルク)を放棄するのと引き換えに東西ドイツの統一を認めた。そのドイツは東側に権力の空白ができることを嫌って、東欧諸国を積極的にEUに取り込むことを求めた。こうして1999年に共通通貨ユーロが導入され、2004年にはポーランド、チェコ、スロバキア、ハンガリー、スロベニアなど東欧圏を中心に10カ国がEUに加わった。

これによってEUは劇的に変貌し、その矛盾を解消するために、「ヨーロッパ帝国」への第一歩を踏み出す欧州憲法が求められた。だがその壮大な夢がフランスとオランダの国民によって一蹴されたことで、EUは「大文字の統合」ができないまま「小文字の統合」を続けるしかないという困難な道を歩むことを余儀なくされたのだ。

しかしなぜ、この2005年の時点でEUは解体してしまわなかったのだろうか。それは、「(大陸)ヨーロッパがすでにEUなしではやっていけなくなったからだ」と遠藤氏はいう。通貨ユーロはもちろん、各国の司法・行政制度も「EU標準」に則って統合され、(EU政府のある)ブリュッセルに従属しているわけではないものの、かといってブリュッセルなしでは政府を運営することが難しくなっている。アメリカやロシア、中国などの大国との外交交渉でも、環境問題や国際会計基準などの多国間協議でも、ヨーロッパの国々が大きな存在感を示すことができるのはEUという枠組みを持っているからだ。

こうしてヨーロッパのひとびとは、EUというヒドラのような組織を気持ち悪いと嫌いながらも、それを捨て去ることもできない宙吊りの状態に置かれることになった。これが、「どっこいEUは生きている」という意味になる。

民主的な正当性の「入力」と「出力」

現在のEUは「(大文字の)統合」もできなければ解体するわけにもいない奇妙な統治権力だ。こうした実態を、元欧州委員会委員長ジャック・ドロールは「未確認政治物体(UPO)」と呼んだ。UFOが「未確認飛行物体」なら、EUはこれまで誰も見たことにないUPO(Un-identified Political Object)なのだ。

だがEUが未確認政治物体だとしても、現実に権力として機能する以上、そこにはなんらかの正統性が必要だ。この難問はEUを擁護する政治学者などによって喧々囂々の議論がなされ、そこから「出力志向」と「補完性」という概念が生まれた。『統合の終焉』にもとづいてこれを要約すると、次のようになる。

ドイツの政治学者フリッツ・シャルフは、民主的な正統性には「人民による統治」と「人民のための統治」があるとする。前者が「入力志向」、後者が「出力志向」だが、入力と出力が常に整合的である保証はない。要するに、「人民による統治」が常に「人民のための統治」になるとは限らない。

通常、民主的な正統性は「人民による統治」のことをいうが、これは国民国家にしかあてはまらない。EUが成立したのは、グローバル化によって国民国家の限界が明らかになったからでもある。だとしたら問題はEUではなく、グローバル化に適応できない国民国家の側にある。このように考えれば、「人民による統治=入力志向」を金科玉条にしてもなにひとつ解決せず、EUという政治体は「人民のための統治=出力志向」で理解すべきだという話になるだろう。

いうまでもなくこれは帰結主義(終わりよければそれでよし)で、功利主義の一種でもある。だがこの立場を突き詰めれば、結果さえよければ独裁でもなんでも構わないということになりかねない(中国人民のゆたかさを飛躍的に引き上げたのだから、中国共産党の独裁には出力志向の民主的正統性がある)。

そこでEU擁護派は、「出力志向」の立場を維持しつつ、EUにはさまざまな合意調達のメカニズムがあり、それが民主的正統性をかたちづくっていると主張する。

EU議会には、水道管理規制であれ、女性推進政策であれ、専門的な討議によってコンセンサスを形成しようとする小委員会が約1000あり、3万人を超えるEU官僚、3000を超える利益団体・市民団体、さらには加盟国政府の官僚がブリュッセルに集まって激しい議論をたたかわせている。その結果、1990年の段階で、官民両セクターからそれぞれ総計2万5000人ずつの代表が延べ6万4000日を使って5000にのぼる会合を開いていたという。こうした政策ネットワークをEUの「入力」系とすれば、それぞれのアクターが相互監視することで独裁的な暴走を不可能にし、民主的制御を可能にしているのだ。

だが、EUの民主的正統性を擁護するこの理屈はかなりの危うさをはらんでいる。そもそもEUに対する「懐疑」が膨らんだのは、ユーロ危機や難民問題で「出力」に失敗したからなのだ。

弱い補完性から強い補完性へ

次は補完性だが、この概念は16~17世紀ヨーロッパにまで遡る。ネーデルランド諸州がスペインに対して反乱を起こした80年戦争(オランダ独立戦争)の時代には、ヨーロッパは帝国から領邦、都市国家まで多様な政治体が重層的に入り組んでいた。フランス革命は「主権は唯一不可分である」と宣言したが、それ以前のヨーロッパは、「主権とはさまざまなレベルの結合体が全体として持つもの」と理解するほかなかった。

補完性は、こうした重層的な統治構造に正統性を持たせる概念だ。これには2つの含意があり、一般には、「より大きな単位は、より小さな単位(究極的には個人を含む)が自ら達成できるときには、介入してはならない」という「消極的な補完性」の意味だとされるが、それは「大きい単位は、小さな単位が自らの目的を達成できないときには、介入しなければならない」という「積極的補完性」に容易に転化する。

個人でできることは個人でやり、それが無理なら家族、町内会(アソシエーション)、地方政府が補完し、外交や防衛といった「小さな単位」でできないものだけを国家が行なうというのは、民主的な統治モデル(夜警国家)としても理解しやすい。

EUの民主的正統性も、この消極的補完性(介入の限定)から説明できる。各国の主権を尊重したうえで、主権国家の内部で調整できない残余部分をEUというより大きな政治体が補完するのだ。

だが現実にはこの関係は逆転し、EU政府から加盟国に膨大な「指令」が出されている。だがこれは、グローバル化のなかで主権国家(国民国家)が機能不全を起こし、「自らの目的を達成できないこと」が増えたからだ――。

積極的補完性の原理では、EUが内政に介入せざるを得なくなったのは、それぞれの加盟国(国民が民主的に選んだ政府)がだらしないからだということになるが、こうした弁明が受け入れられるとはとうてい思えない。

「未確認政治物体」としてのEUの民主的正統性は、いまも依然として行方不明なのだ。

今後、EUはどうなるのか?

今後、EUはどうなっていくのだろうか。確たることがいえないのはもちろんだが、イギリスに比べて大陸の国々の「離脱」のハードルがきわめて高いことは間違いない。

EU加盟国には1人当たりGDPに大きな経済格差があり、東欧など後発の加盟国は農業保護などで受益者の立場にあるから、そもそもEUを離脱する理由がない。スペインやイタリアのような大国にしても、金融機関の不良債権問題や財政赤字で大きな不安を抱えており、自国だけで問題を解決できるとは国民も思っていない。ポデモス(スペイン)や五つ星運動(イタリア)などの左翼ポピュリズム(空想的リベラル)も、反ユーロであっても反EUでないのは、大きな傘に下で生き残るしかないと考えているからだろう。

それに対して、比較的経済が好調なオランダや北欧の国々はEUからの離脱が容易に見える。オランダは離脱にあたって自国通貨(ギルダー)を再発行しなければならないという高いハードルがあるが、デンマークとスウェーデンはユーロに加盟していないのだから、条件としてはイギリスとさほど変わらない。

いずれの国も右翼政党が勢力を伸ばしているが、彼らの主張は移民排斥で、要は福祉国家の維持だ。移民を無制限に受け入れ巨大な貧困層を形成することになれば、自分たちが長年築いてきた福祉制度が崩壊してしまう。これが杞憂とはいえないことは、フランスなど先行する移民国家の現状が示すとおりだ。

だがその一方で、EUから離脱すれば彼らはヨーロッパのただの小国に戻ってしまう。EU域内では加盟国が人の移動を管理しつつあり、スウェーデンは鉄道や道路の国境検問を復活させた。国民が納得する程度まで移民を「排斥」できれば、「世界でもっともリベラルなひとびと」がEU離脱という劇薬を求めることはないのではないか。

EUを支える2つに大国のうち、ドイツは国家統一の経緯からEUへの国民の支持がもともと高い。東欧圏を束ね、ロシアとのあいだに緩衝地帯をつくるためにもEUの枠組は有用だ。国民の反発は自分たちの税金を他国の財政赤字の穴埋めに使われることだが、国境を越えた財政移転の禁止はマルクを放棄する際の「神聖不可侵な契約」で、これが守られているかぎりはEUを解体しようとは思わないだろう。

そうなるともっとも不安定なのは、EUの「盟主」フランスということになる。彼らにとってEUは、自由と人権の理想を世界に広める「フランス革命というプロジェクト」の完成だった。その野望がついえたと知ったとき、このきわめて理念的なひとびとはもはやEUになんの魅力も感じないかもしれない。

いずれにせよ、来年5月に行なわれるフランス大統領選挙が「EUは生き残るのか」の重大な試金石になることは間違いないだろう。

註:イギリスのEU離脱のあとは「EU解体」が日本でも大真面目に議論されていたが、その後の経過はこの記事で予想したとおりになった。

2017年のフランス大統領選では既存の政党が崩壊し、ほぼ無名だったエマニュエル・マクロンが選出されるという予想外の事態が起きた。フランス国民は、ユーロから離脱してフランに戻ると通貨の下落で不動産価格が暴落するという可能性を嫌い、国民戦線(現在の国民連合)のマリーヌ・ルペンは決選投票でほぼダブルスコアで敗れた。

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