「106万円の壁」の年収基準を撤廃すると、パートの主婦が将来、手厚い保障が受けられるとされている。私はこの説明がずっと疑問だった。なぜなら、厚生年金に加入すると、同時に会社の健康保険(組合健保や協会けんぽ)にも加入することになるからだ。そこでこの機会に、ちゃんと計算してみたい。
世帯主が会社員など厚生年金加入者の場合、扶養されている配偶者は3号被保険者になり、年金保険料を払わなくても、65歳以降、国民年金を受給できる。同じく世帯主が会社の健康保険に入っていると、扶養家族にも健康保険証が発行される。
扶養されている配偶者は女性が大多数だから、ここでは主婦Aさんを考えてみよう。Aさんは大手スーパーの地元の店でパート仕事をしていて、社会保険を払わなくてもいいように、年収106万円で就業調整している。これが「106万円の壁」だ。
この年収基準がなくなって、Aさんが厚生年金に加入することになったとしよう。保険料率は収入の18.3%で、これが労使で折半される。年収約112万円までは、保険料は一律で月額1万6104円なので、Aさんの給与から差し引かれるのはこの半額の月8052円(年9万6624円)になる。
話をシンプルにするために、Aさんは20歳で結婚して3号被保険者になり、40歳から59歳までの20年間、厚生年金に加入したとしよう。厚労省の公的年金シミュレーターによると、65歳からAさんが受け取る年金は年94万円だ。
それに対して、国民年金を満額納めた場合の受給額は年81万6000円(月額6万8000円)だから、厚生年金に加入したことで、たしかにAさんが受け取る年金は年12万4000円、月額1万円ほど“手厚く”なった。Aさんが40歳で納めた保険料(9万6624円)が25年後(65歳)に12万4000円に増えたのだから、運用利回りは年率1%だ。
しかし最初に述べたように、Aさんは会社の健康保険にも加入しなくてはならない。協会けんぽの保険料率は自治体によって若干異なるが、東京都では医療保険と40歳以降の介護保険の合計が11.58%で、年収106万円(4等級)のAさんが支払う保険料は月額1万190円、自己負担分は月5095円(年6万1140円)になる。
3号被保険者のままだと健康保険料を払わなくてもよかったのだから、Aさんはこれも手取りを減らすコストだと考えるだろう。そうなると、社会保険に加入したAさんは、合計で年15万7764円の保険料を支払い、それが25年後に12万4000円になって戻ってくることになる。これでは3万4000円ちかいマイナスになってしまう。
このように、会社負担分を無視して自己負担だけを考えても、社会保険に加入したAさんは“手厚い”保障が受けられるどころか、損してしまうのだ。
もちろん、年収の壁を気にせず働けばAさんの手取りは増えていく。その意味で就業調整が合理的とはいえないが、現在の制度では、多くの主婦は正しい判断で社会保険への加入を避けている。この事実は、ちゃんと認めるべきだろう。
橘玲の世界は損得勘定 Vol.119『日経ヴェリタス』2024年10月19日号掲載
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