『ブレンダと呼ばれた少年』解説

ジョン・コラピントの『ブレンダと呼ばれた少年』が再刊されることになって解説を書いたのですが、版元の事情で刊行されなくなったため、もったいないのでブログにアップします。古書はネットで購入可能です。

この本を再刊したいという版元さんがあったら、この解説を使っていただいてかまいません。

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“完璧な作品”というのは、本書のことをいうのだろう。ここでの“完璧”とは、主人公はもちろん、その両親、一卵性双生児の弟、男性器を失った赤ん坊に“性転換”手術をさせた高名な性心理学者など、すべての関係者にインタビューし、心理療法の面接記録なども活用して、著者の想像を加えることなく事実を積み重ね、作品をつくり上げていることだ。

これは、ノンフィクションとして(とりわけ本書のような“悲劇”では)稀有なことだ。重要な人物(加害者や被害者)が証言を拒否することもあれば、そもそも当事者が死亡していることもある。多くのノンフィクション作家は、このような得難い事例に遭遇することなくキャリアを終えていくのだから、これが著者にとって最初の(そして現在まで唯一の)ノンフィクション作品というのは、信じがたい幸運というほかない。

だがこれは、著者のジョン・コラピントを貶めているわけではない。この幸運を逃さず、徹底した取材を行ない、男として生まれ、少女として育てられ、男に戻るというブレンダ/デイヴィッドの数奇な運命を見事に描き切ったことに、その傑出した才能がいかんなく示されている。

だがこの作品がいまも欧米で繰り返し参照され、今回、日本でも復刊されることになったのには、たんに「傑作ノンフィクション」という以上の意味がある。LGBTIQ+と総称される性的マイノリティのうち、本書はインターセックス(性分化疾患〈DSD〉)とトランスジェンダーについての議論に大きな示唆を与えているからだ。

ブレンダ/デイヴィッドへの“性転換”手術の背景には、1960年代のアメリカの特殊な時代背景がある。

ひとつの民族を絶滅させようとしたナチスの優生学への反省もあり、第二次世界大戦後の欧米の心理学では、生物学的な解釈が強く忌避されるようになった。それに加えて、フロイト流のネガティブな心理学(精神分析学)に反発したアブラハム・マズローが「人間性心理学」を創始し、人間精神の可能性を追求する「ヒューマン・ポテンシャル運動」が始まった。

これはやがて、60年代末の西海岸で隆盛をきわめた「セックス・ドラッグ・ロックンロール」のヒッピー・ムーヴメントにつながるのだが、それによれば人間(意識・精神)は生物学的な限界にとらわれることなく、その可能性はどこまでも(宇宙までも)広げていけるはずだった。ティモシー・リアリーは幻覚剤(LSD)によって「精神革命」を実現しようとし、ドラッグによるトリップ体験だけでなく、因習のくびきを取り払ったセックス体験も人間の解放のための重要な要素だとされた。

こうしてコミューンでのフリーセックス、パートナーを交換するスワッピング、異性愛と同性愛を区別しないバイセクシャル、サディズムやマゾヒズムのような「非定型的な(当時は「変態」といわれた)」性行為などラディカルな“社会実験”が行なわれるのだが、性心理学者のジョン・マネーはこの「性革命」のイデオローグとして大きな影響力をもった。

マネーは同性愛やトランスジェンダー、さらには小児性愛までも「異常」とは見なさず、人間性のさまざまな可能性の表われだと考えた。早くも1965年にジョン・ホプキンス大学に「ジェンダー・アイデンティティ・クリニック」を設立し、翌年にはアメリカ初の性別適合手術を行なっている。

この先見性は性的少数者の権利運動を支え、それによって救われた者もたくさんいただろう。だがマネーには、時流に乗って成功した者の限界があった。メディアや知識人がマネーの過激な主張を歓迎したのは、生物学的な影響(遺伝決定論)を否定し、ジェンダーやセクシャリティは環境によって決まる(いまふうにいえば「社会的構築物である」)と断言したからだ。これこそが、人間の可能性を拡張することで「よりよい社会」をつくっていこうとする当時のリベラル(進歩主義者)が聞きたい言葉だった。マネーの権威は、リベラルにとって心地よい託宣を唱えつづけることで支えられていたのだ。

だがいうまでもなく、ヒトも進化の過程でつくられた生き物であり、遺伝子は自然淘汰や性淘汰によって、身体だけでなく脳も「プログラム」している。この「自然」から自由になることなどできるはずもない。

論敵から極端な環境決定論を批判されたマネーは、生後8カ月で行なわれた包皮切除手術の失敗でペニスの大半を失った幼児のことを知ると、女の子として育てれば、自らの正しさを証明する格好の事例になると考えた。だがこれによって、ブレンダ/デイヴィッドのジェンダー・アイデンティティは深刻な混乱に見舞われることになる。

「ブルース」として生まれた赤ん坊は、男性器を失ったことで、(生得的に非定型的な性器をもつ)インターセックスになってしまった。マネーは、こうした子どもは医療機関で性別判定し、どちらの性で育てるかを決めたうえで、それに合わせた外科手術をすべきだと唱えていた。

インターセックスと診断された赤ん坊のうち、大きすぎるクリトリスをもつ女児はそれを切除されたが、問題は小さすぎるペニスの男児だった。当時の医療技術では人工的に男性器をつくることが困難だったので、マネーは、女の子として育てた方が満足した人生を送ることができると両親を説得したのだ。

その結果、人為的にインターセックスにされた赤ん坊(ブルース)は、こんどは人為的にトランスジェンダーの「ブレンダ」にされてしまった。ものごころついてからずっと、「女の子」というジェンダーに強い違和感を抱えていたブレンダの経験は、「本来の自分とは異なる性の身体に囚われている」というトランスジェンダーの体験そのものだろう。

インターセックスから「トランス男性(ジェンダー意識は男だが生物学的には女)」になったブレンダは、14歳で親から真実を告げられると、即座に男に戻ることを決め、自ら「デイヴィッド」と名乗るようになる。

“As Nature Made Him(自然のままに)”というタイトルからわかるように、原書が刊行された2000年前後は「生まれ(Nature)」か「育ち(Nurture)」かの論争が続いていた。本書は、「“男”や“女”は社会的な構築物で、生物学的な意味はない」という、一部のフェミニストが唱えていた極端な主張への反証として話題になった。だが、両性生殖の大半の種と同じく、ヒトも性的二型であり、男と女には生殖器官以外にも相応の(これを「わずか」とするか、「かなりの」とするかで政治的立場が異なる)ちがいがあることを否定する者は、現在ではほぼいなくなった(例外として、「ポストモダン派」と呼ばれる社会科学系アカデミズムの辺境にいるカルト的集団がある)。

リベラルな社会では、性的指向や性自認は(ほぼ)生得的なものであり、外部から「矯正」すべきではないという認識が広く受け入れられている。インターセックスにおいても、権利運動の活動家らは、親や医師が乳幼児期に、本人の同意なく「治療」するのではなく、成長を待って、自らの意志でどのように(どちらの性で)生きるのかを決めるべきだと主張している。――これに対して、胎児の段階で遺伝的な“異常”が判別できるようになったことで、薬物投与で“正常”な性器に育つよう治療すべきだとする医療専門家もおり、はげしい対立が起きている(アリス・ドレガー『ガリレオの中指 科学的研究とポリティクスが衝突するとき』鈴木光太郎訳/みすず書房)。

トランスジェンダーにおいては、思春期に本人がジェンダーに違和感を覚えた段階で、「自己決定権」によって性別移行手術を受けられるようにすべきだとの主張が力をもつようになった。こうしてアメリカやイギリスでは、ティーンエージャーでも乳房切除手術ができるようになったのだが、のちに性自認を変更し(生物学的な性に戻し)、乳房を再建する事例が起きて大きな社会問題になっている。――これについてはアビゲイル・シュライアー『トランスジェンダーになりたい少女たち SNS・学校・医療が煽る流行の悲劇』(岩波明監訳、村山美雪、高橋知子、寺尾まち子訳、産経新聞出版)を読んでほしい。

本書は「自分らしい性」を取り戻したデイヴィッドが、結婚し、働いて義理の子どもたちを育て、「真の男」として生きていくと力強く宣言するところで終わる。だが本が出た2年後に、弟のブライアンが抗うつ剤の過剰摂取で自殺し、デイヴィッドは失業してうつ状態になった。2004年5月に妻と別居したいと告げ、その2日後に食料品店の駐車場に駐めた車のなかで、ショットガンで自分の頭を撃ち抜いた。

こうしてデイヴィッドの物語は、悲劇として完結することになった。

本書を読んで思い知らされるのは、人間にとってジェンダー・アイデンティティこそが、実存(自分らしく生きること)の根底にあることだ。それを第三者の都合で(「伝統的な家族制度を守るため」などという理由で)否定してはならないのはもちろんだが、その一方で、わたしたちは「自分らしさ」をつねに正しく知ることができるのだろうか。

これがおそらく、ジェンダー・アイデンティティの議論がこれほどまでに過熱する理由なのだろう。

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