アメリカはどのように「分裂」しているのか

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

米大統領選が近づいてきたので、トランプ時代にアメリカについて書いた記事をアップします。映画『シビル・ウォー アメリカ最後の日』の公開に合わせて、今回は2017年12月29日公開の「アイデンティティ主義がもたらす さまざまな不愉快な出来事の原因と解決策」です(一部改変)。

『シビル・ウォー アメリカ最後の日』

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2075年、アメリカは環境破壊のためにフロリダをはじめとする沿岸地域が水没しつつあった。そのため化石燃料の使用を全面禁止する法案が成立したが、これに反発したジョージア、アラバマ、ミシシッピの南部三州が独立を宣言、合衆国は歴史上二度目の内戦に陥った――という設定で始まるのが『アメリカン・ウォー』(黒原敏行 訳/新潮文庫)だ。

著者のオマル・エル=アッカドは1982年にカイロで生まれ、ドーハで育ったのち98年に家族でカナダに移住、新聞社で調査報道に携わり、アフガニスタン戦争、グァンタナモ米軍基地、エジプトの「アラブの春」、米ミズーリ州ファーガソンで起きた白人警官による黒人少年射殺事件などの取材を手がけ、その後作家デビューを果たした。

この経歴を見ればわかるように、『アメリカン・ウォー』はたんなる近未来小説ではない。そこには中東での現在進行形の紛争の影が色濃く刻まれている。

アメリカの「内戦」

『アメリカン・ウォー』の主人公はサラット・チェスナットという二卵性双生児の姉で、妹のダナ、兄のサイモンとともにルイジアナ州の沼沢地で暮らしている。父のベンジャミンはメキシコからの不法入国者、母のマーティナはアフリカ系アメリカ人だ。

労働許可をもらいに役所に出かけた父のベンジャミンが自爆テロに巻き込まれて死んだことで一家は困窮し、マーティナは3人の子どもをつれて「自由南部国」のひとつミシシッピ州の州境にある難民キャンプに移ることを決意する。

キャンプ・ペイシェンスは円を四等分した構成になっていて、北西はミシシッピ、南西はジョージア、北東はアラバマ、南東はサウスカロライナからの移民に割り当てられている。部外者であるチェスナット家はミシシッピの区画で暮らしている。キャンプを運営するのは「赤新月社」という援助団体で、中東の大国ブアジジ帝国が資金を提供している。

キャンプは〈青いアメリカ〉に属するテネシー州との州境にあり、難民の流入を警戒する北軍や民兵によって厳重に監視されている。キャンプの中には自由南部国のテロリスト組織が入り込み、サラットの兄サイモンは青年組織の一員として活動している。テロリスト組織の背後にはブアジジ帝国の工作員がおり、サラットも中東から戻ってきたゲインズという男と知り合う。

事件は、サイモンたちのグループが埋めた地雷によって北軍の将軍が爆死したことをきっかけに起こった。それを口実に北軍の民兵たちがキャンプを襲撃し、凄惨な虐殺を繰り広げたのだ。その混乱のなかで母のマーティナは殺され、サイモンは頭部に重傷を負った。

母を殺されたサラットは工作員のゲインズを訪ねた。なぐさめるゲインズの言葉を、「やつらの話はもう聞きたくない」とサラットはさえぎる。

「じゃ、なにをしたいんだ?」との問いにサラットはこたえた。「やつらを殺したい」――

この物語は、1982年9月にベイルート郊外のパレスチナ難民キャンプで起きたサブラー・シャティーラ事件を下敷きにしている。PLO排除を目的にイスラエル軍がレバノンに侵攻し、難民キャンプを包囲した状況で、大統領に当選したキリスト教マロン派の指導者バシャール・ジェマイスが暗殺された。これをPLO組織によるものだとしたキリスト教徒の民兵は難民キャンプを襲い、イスラエル軍が照明弾を打ち上げるなかで2日間にわたって虐殺を繰り広げた。路上に積み上げられた女性や子どもの死体が映像として全世界に配信され、イスラエル政府は国際社会の激しい批判にさらされることになる。

壁によって隔離されたイスラエルのガザ地区や難民キャンプがイスラーム原理主義のテロリストの温床になっているように、『アメリカン・ウォー』では、北軍に監視される難民キャンプのなかでテロリストの勧誘が行なわれている。だが「北軍」と「南軍」は同じアメリカ人で、宗教をめぐって争っているわけではない。

ここまでくれば、著者のアッカドの意図は明らかだろう。アメリカ人の読者層に向けて、近未来の南北戦争を背景に、中東問題はキリスト教(ユダヤ教)とイスラームの「文明の衝突」とは無関係なことを訴えているのだ。

人種や宗教のちがいがなくても、なんらかの線引きで人間集団を「俺たち」と「奴ら」に分断すれば、そこから自然発生的に殺し合いがはじまる。なぜなら、それが長い進化の過程で埋め込まれたヒトの脳のプログラムなのだから。

「アメリカ社会から見捨てられた」という怒り

トランプ政権が誕生したアメリカでは、「白人至上主義」の台頭が危惧されている。アメリカ南部のバージニア州シャーロッツビルでは、南北戦争で南軍の英雄だったロバート・リー将軍の銅像を市内の公園から撤去しようとする計画に白人の極右団体などが反発し、極右の若者が反対派に車で突っ込み死者1名と多数の負傷者を出す事件が起きた。

これを奴隷制時代の人種差別(レイシズム)の復活とみなすひとも多いが、アメリカ国内ではリベラルな知識人のなかからも、「白人至上主義は白人の優越を主張しているのか」との疑問の声が出てきた。彼らは「現代のアメリカにおいて自分たち白人こそが差別されている」と訴えているのだから。

参考:「トランプを支持する白人は「人種主義者」なのか?」

J.D.ヴァンスの『ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち』(関根光宏、山田文訳/光文社未来ライブラリー) は、典型的なラストベルト(さびついた街)で生まれ育った著者が、自身の体験からヒルビリー(田舎者)の「出口なしの世界」を描いて大きな反響を呼んだ。

ヴァンスは、貧しい子ども時代を送ったオハイオ州の鉄鋼業の町を「当時から現在にいたるまで仕事も希望も失われた地方都市」と呼ぶ。そこに住んでいるのはスコッツ=アイリッシュで、カトリックのアイルランド人(アイリッシュ・アメリカン)ではなく、北アイルランドに移住したプロテスタントのスコットランド人の子孫たちだ。

ヴァンスの母は薬物中毒で父親はなんども変わり、祖父母に育てられた。友人の多くはアルコールかドラッグに耽溺するか、犯罪に巻き込まれて生命を落とした。そんな境遇からヴァンスが抜け出すきっかけは、高校を出て海兵隊に入隊したことだった。名誉除隊後に奨学金を得てオハイオ州立大学からイェール大学へと進み、名門法律事務所の一員になったのち、リベラルな知識層が気にもかけなかったヒルビリーの存在を世に問うたのだ。

デール・マハリッジとマイケル・ウィリアムソンの『繁栄からこぼれ落ちたもうひとつのアメリカ』(ラッセル 秀子訳/ダイヤモンド社)は、1980年代から2009年まで、職を失い放浪の旅に出たひとびとを新聞記者とカメラマンが追った記録だ。ここに登場するのも「出口なし」の状況に陥った貧しい白人たちで、そんな彼らが2017年になってトランプを熱狂的に支持することになる。

彼らに共通するのは、「アメリカ社会から見捨てられた」という怒りだ。それが「白人」という記号と結びついて強固で偏狭なアイデンティティ(白人至上主義)となり、巨大な政治勢力へと成長した。

アイデンティティとは「共同体のなかのわたし」

アイデンティティは「自分が自分であること」「私らしさ」などと説明されるがこれは正しくない。ヒトは徹底的に社会的な動物だから、アイデンティティとは「共同体のなかのわたし」の核心にあるものだ。

アイデンティティ(社会的なわたし)がどのように形成されるかをもっともよく示したのが、1954年に行なわれた「ロバーズ・ケイヴ実験」だ。この話はこれまで何度か本に書いたことがあるが、これ以上説得力のある証拠(エビデンス)はないので、この機会にあらためて紹介しておきたい。

オクラホマ州南東部にあるロバーズ・ケイヴ州立公園のボーイスカウトキャンプに、できるだけ等質になるように意図的に選抜された11歳の白人の少年たち22名が集められた。彼らはみなプロテスタントの家庭で育ち、IQも学業成績も平均かそれより上で、眼鏡をかける者や太っている者、問題を起こしたことのある者はいなかった。全員が地元出身でオクラホマ訛りがあったが、実験以前に面識がないよう異なる学校から選ばれていた。

実験では、この少年たちが2グループに分かれて3週間のサマーキャンプに参加した。それは、「指導員」たちがじつは研究者で、少年たちの言動を内密に観察・調査していたことを除けば、ごくふつうのキャンプだった。

「ラトラーズ」と「イーグルズ」(少年たちが自分たちで名づけた)の2つのグループは、別のバスで到着し、別のキャビンに宿泊したため、最初はお互いの存在を知らなかった。当初の計画では、最初の1週間で集団内行動を調査し、2週目で集団間競争に移行する予定だった。

だが彼らが集団内の人間関係を気にしたのは、最初の数日だけだった。自分たちと同年齢の集団が遊んでいる声をたまたま耳にした瞬間、彼らは「あいつらを打ち負かす」ことに夢中になって、直接対決をしきりに望むようになったのだ。

そしていよいよ、野球大会で両チームがはじめて顔を合わせたとき、ラトラーズは試合開始前に自分たちの旗を野球場に掲げ、野球場全体が「われわれのもの」であることを宣言した。試合はイーグルズの敗戦に終わったが、彼らはラトラーズの旗を引きずり降ろして燃やしてしまい、指導員は乱闘になるのを必死に止めなくてはならなかった。

綱引きでは逆にイーグルズが勝ったが、その夜、ラトラーズは相手のキャビンを襲撃し、ベッドをひっくり返し、蚊帳を破り、盗んだ1本のジーンズを彼らの新しい旗にした。これに対するイーグルズの反撃はさらにヒートアップし、棍棒や野球のバットを持ってラトラーズのキャンプを昼間に襲撃し(その時間はキャビンには誰もいないはずだったので、「武器」は万が一のためのものだ)、自分たちのキャビンに戻ると、さらなる襲撃に備えて、靴下に石を詰めたり、投げつけるための小石をバケツいっぱい集めた。

この実験で興味深いのは、彼らが無意識のうちに、自分たちを敵対する集団と正反対のキャラクターにしようとしたことだ。

2回目の野球大会でイーグルズが勝利を収めたとき、彼らは帰り道で、今回はなぜ勝てたのかを話し合った。1人が、「試合前に神に祈りを捧げたからだ」といった(1950年代のオクラホマなのだ)。それを受けてもう1人が、「ラトラーズが負けたのは試合中、口汚い野次を連発していたからだ」と叫んだ。こうしてイーグルズでは、汚い言葉が禁止された。

22人の少年たちは、誰もが同じような保守的なキリスト教徒の家庭で育った。その彼らが、2週間もたたないうちに、「罵声のグループ」と「祈りのグループ」にきれいに分かれてしまったのだ……。

「アイデンティティの複数性」は希望なのか

ヒトは社会的な動物で、集団から排除されれば1人では生きていけないのだから、アイデンティティというのは集団(共同体)への帰属意識のことだ。「わたし」は「奴ら」に対する「俺たち」の一部で、「敵」を生み出すのはひとがひとであるための条件ともいえる。ヒトが遠い祖先から受け継いだ遺伝的プログラムは、世界を内(俺たち)と外(奴ら)に分け、仲間同士の結束を高め、奴らを殺してなわばりを奪うことなのだ。

この暗鬱な仮説は進化心理学のさまざまな実験によって繰り返し確認されている。ただし留保をつけると、ロバート・ケイヴ実験をはじめとして多くの心理実験は男性を対象としているか、男女の性差を考慮に入れていない。女性ももちろん共同体(グループ)をつくるが、近年になって「集団への帰属意識は男女で異なる」ことが指摘されるようになった。

女性のグループは、男性のように明瞭なヒエラルキーをつくらない。男の子集団では誰がリーダーかすぐにわかるが、女の子集団のリーダーは時間をかけて観察しないと見つけられないし、リーダーの役割がはっきりしないことも多い。男の子は1対1の関係より集団対集団の対抗意識を重視するが、女の子はグループよりも「親友」との関係を大事にする。こうした男女のちがいはまだ完全には解明されていないものの、暴力的なアイデンティティ主義は人間の本性というよりも「男の本性」なのだろう。

自由主義と共産主義のイデオロギー対立が消失した現代において、アイデンティティ主義が大きな問題を引き起こすようになった。このことに最初に気づいたのは、経済学者のアマルティア・センだ。

インドのベンガル地方に生まれ、子どもの頃にインド独立にともなうヒンドゥー教徒とムスリムの暴動を体験したセンは、なぜ隣人たちがこんなに残酷になれるのかをずっと考えつづけた。独立後のインドは、ヒンドゥーのなかですらさまざまな「階級」に分かれてお互いのアイデンティティを主張するようになった。

センは自身の考察をまとめた『アイデンティティと暴力 運命は幻想である』( 大門毅、東郷えりか訳、勁草書房)で、「世界に存在する多様な区分けが、優勢とされる一つの分類法に統一され、宗教や共同体、文化、国、あるいは文明といった観点(それぞれ戦争と平和に関する問題で独自の説得力をもつと見なされている)からのみ判断されると、われわれが共有する人間性は大きな試練にさらされる」と警告する。世界のおける多くの紛争や残虐行為は、「選択の余地のない唯一のアイデンティティ」という幻想から生まれるのだ。

アメリカでは「グローバル資本主義を牛耳る知的エリート」に対抗する「白人労働者階級(ホワイト・ワーキングプア)」のアイデンティティが台頭し、ヨーロッパでは「原理主義的イスラーム」に対して「ギリシア・ローマ文明」「キリスト教」「ヨーロッパ系白人」のアイデンティティがはげしく対立している。東アジアにおいても「日本人」「中国人」「韓国人」のナショナル・アイデンティティが衝突を繰り返している。

だが、たんにアイデンティティを否定すれば問題が解決するわけではない。共同体主義者(コミュニタリアン)が強く主張するように、愛情や友情など真に「善きもの」は共同体(親密な社会的関係性)からしかもたらされないからだ。

「よいアイデンティティ」と「悪いアイデンティティ」を区別することは原理的に不可能だ。「日本人」としての誇りをもちつつ他国のひととも平等に接する“リベラル”と、「日本人」であることを根拠に排外的な主張をする“ネトウヨ”の「日本人」性を分析し、そこになんらかのちがいを見つけようとしてもおそらく徒労に終わるだろう。

だとしたら希望はどこにあるのか。センは、「アイデンティティの複数性」だという。

グローバル企業で働き、中国人や韓国人の同僚と日常的に接していたり、中国企業・韓国企業と取引しているひとは、「反中」「嫌韓」の言動に接したときに、中国人・韓国人の友人のことを思い出して偏狭なナショナリズムに嫌悪感を抱くだろう。これは彼が、「日本人」とは別に「(グローバルな)ビジネスマン」としてのアイデンティティをもっているからだ。

センは「キリスト教」対「イスラーム」、「西洋」対「反西洋」などさまざまなアイデンティティを検証し、それらがすべて幻想(社会的構築物)であることを示す。そのうえで、「単一帰属」というアイデンティティの暴力から逃れるために、複数のアイデンティティを受け入れることの重要性を説く。

この議論はきわめて説得力があるが、それでも次のような単純な疑問が浮かぶ。はたして、誰もが複数のアイデンティティをもつことができるだろうか。

複数のアイデンティティの象徴は、もちろんセン自身だ。「インド国籍」「ベンガル人」「イギリス居住者」「経済学者」「ケンブリッジ大学教授」「ノーベル経済学賞受賞者」などセンにはさまざまなアイデンティティがあり、だからこそ「単一アイデンティティ」を客観的な視点から批判することができる。

しかしもちろん、わたしたちのような“平凡な者”がセンと同じ多様なアイデンティティをもてるわけではない。現代社会が抱える問題とは、先進国でも新興国でも「たったひとつのアイデンティティしかもてないひと」がますます増えていることだ。彼らのアイデンティティはきわめて脆弱で、だからこそそれを侵す(と感じられる)他者に激烈な反応を示す。

残念なことにこの流れは変わりそうもないから、2018年も私たちは、アイデンティティ主義がもたらすさまざまな(不愉快な)出来事を目にすることになるだろう。

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