トランプ銃撃事件に見る「犬笛」と「偽旗作戦」 週刊プレイボーイ連載(611)

ドナルド・トランプがペンシルベニア州で選挙演説中に狙撃されました。

現場で射殺された容疑者は、短期大学を卒業後、地元の介護施設で働いていた20歳の若者で、自宅や車のなかから大量の爆発物が見つかりました。動機は今後の解明を待つとして、いまのところ過激な政治的主張をしていた形跡は見られず、精神的な問題を抱えていた可能性もありそうです。

驚いたのは、事件の直後からSNSなどに陰謀論が溢れたことです。容疑者が屋根に上るところがスマホで動画撮影されており、警察官に通報しても無視されたとの投稿が相次いだことが、さまざまな憶測を呼んだ理由でしょう。

陰謀論の典型が、「犬笛」と「偽旗作戦」です。

犬笛はイヌの訓練用ホイッスル(笛)で、イヌには聞こえても人間の耳では聞き取ることができない高周波を発することから、特定の集団にしか理解できない暗号のような表現を使ってメッセージを送ることを指すようになりました。

今回の事件では、「トランプ氏を標的にする時が来た」というバイデンの発言が犬笛だとされました。右派の陰謀論者はSNSで、この秘密の暗号を使って、現職大統領がトランプの暗殺を命じたのだと書き立てました。

偽旗というのは、白旗や敵の旗を掲げて相手を油断させ、だまし討ちすることをいいます。左派の陰謀論者は、事件そのものが偽旗作戦で、バイデンや民主党に罪をなすりつけ、支持率を上げるためにトランプ陣営が仕組んだのだとさかんに論じました。

陰謀論と闘うのが難しいのは、その主張をいちがいに否定できないからです。

狙撃犯の狙いは正確で、トランプがわずかに顔を傾けなければ致命傷になっていました。熱烈な支持者は、これをトランプが神から守られている証拠だとしますが、たんなる偶然なのか、超越的なちからがはたらいたかを科学的に証明することはできません。

2018年頃から広まったQアノンの陰謀論は、リベラルのエリートたちが運営する小児性愛者たちの秘密組織=ディープステイトによって世界は支配されていて、トランプはそれと闘っているとします。トランプと側近たちは、SNSの謎めいた投稿や演説・インタビューのあいまいな発言(犬笛)によって、そのことを支持者に伝えようとしているというのです。

それに対して、「トランプの耳から流れた血は演劇などに使われる赤いジェルだ」などのリベラル側の陰謀論は、民主党のカラーであるブルーから「ブルーアノン」と名づけられました。

Qアノンもブルーアノンも、どんな荒唐無稽な主張でも100パーセント否定することは困難だという「悪魔の証明」を味方にしています。

政治の世界が陰謀にまみれている以上、ディープステイトの存在をうかがわせるようなことは頻繁に起きています。自作自演説にしても、「警護の不手際は意図的なものとしか考えられない」といわれたら、説得力のある反論は難しいでしょう。

ユリウス・カエサルは、「ひとは見たいものしか見ない」と述べたといいます。わたしたちは、2000年以上前の古代ローマ人と同じことを、いまだにやっているようです。

『週刊プレイボーイ』2024年7月29日発売号 禁・無断転載