ムスリムの若者はどのようにジハーディストになっていくのか

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2017年8月31日公開の「バルセロナのテロ犯から考える ムスリムの若者がテロリストに”洗脳”される過程」です(一部改変)

Mohammad Bash/Shutterstock

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ヨーロッパでもっとも人気のある観光地のひとつバルセロナで、観光客ら15人が死亡、120人あまりが負傷するイスラーム過激派のテロが起きた。その後の捜査で、世界遺産サグラダ・ファミリア教会の爆破を計画していたこともわかり、世界中に衝撃が広がっている。

実行犯グループはモロッコ国籍などのムスリムの若い男性12人で、イスラーム原理主義のイマーム(指導者)に洗脳され、ガスボンベを使った爆弾を製造していたとされている。そのイマームが実験中の爆発事故で死亡したため、捜査の手が及ぶのを恐れ、観光客であふれる歩行者天国に車で突っ込む凶行に及んだのだ。

19世紀末からモロッコは英仏独ヨーロッパ列強のアフリカ分割の舞台となり、1904年の英仏協商によってフランスが優越権を獲得した。こうした歴史的経緯もあって、モロッコではいまもフランス語が第二言語(準公用語)で、政治や教育、ビジネスの場で広く使われている。

その一方でジブラルタル海峡を挟んでスペインとの関係も深く、現在も北端のセウタ、メリリャの2つの都市はスペイン領の飛び地だ。モロッコからスペインへの出稼ぎもごくふつうで、それがモロッコ国籍の多くの若者がスペイン国内に住んでいる理由だ。

モロッコには、支配層のアラブ系と原住民であるベルベル系のひとたちがいる。両者の関係は敵対的とまではいえなくても良好とはいえず、ベルベル系のモロッコ人が、アラブ系スンニ派の原理主義者が率いるIS(イスラム国)に参加するとは考えにくいから、今回のテロの犯人も「アラブ系モロッコ人」なのだろう。

ところで、こうしたムスリムの若者たちはどのようにしてテロリストへと“洗脳”されていくのだろうか。

原理主義は「論理的にかんぜんに正しい」

ドイツの心理学者・ソーシャルワーカーのアフマド・マンスールは、『アラー世代: イスラム過激派から若者たちを取り戻すために』(高本教之、犬飼彩乃訳/晶文社)で、ドイツに暮らす移民二世、三世の若者たちを「アラー世代」と名づけ、彼らがどのように過激なイスラームに取り込まれていくのかを詳細に述べている。

世俗化したイスラーム解釈を拒絶し、ムハンマドとクルアーン(コーラン)の教えが忠実に実行された(とされる)初期イスラーム(サラフ)の時代に回帰すべきだと主張するのがサラフィズム(サラフィー主義)だ。

アメリカのキリスト教宗派のなかで、進化論を否定し、中絶を認めず、同性愛を神への冒涜だとするのが「キリスト教原理主義」だとすれば、サラフィズムは「イスラーム原理主義」だ。

聖典をもつすべての宗教には、世俗の権力や価値観の変化への妥協を拒み、“神の時代”に戻ろうとする純潔主義の一派があり、そのシンプルさによって信者のこころをつかみ、きわめて大きなちからをもっている。ユダヤ教においては超正統派とされるハシディズムがそうだし、仏教においても、かつてオウム真理教は「仏陀の時代のパーリ語の仏典にかえれ」という“仏教原理主義”によって優秀な若者たちを獲得していった。

原理主義のほんとうの危険性は、それがきわめて賢い人間をも虜にすることだ。なぜなら、「神は存在する」という前提を受け入れてしまえば(「入信」とはそういうことだ)、神の言葉である聖典のとおりに生きるべきだ、というのは論理的にかんぜんに正しいのだから。

こうした“純粋性”は、とりわけ若者に大きな影響を与える。じつはアラー世代の“脱洗脳”に取り組むマンスール自身が、かつてはイスラーム原理主義者だった。

イスラーム原理主義者から“脱洗脳”の専門家へ

1976年にテルアビブ近郊のパレスチナ人の町ティーラに生まれたマンスールは、学業成績は優秀だったが家が貧しかったため、いつもクラスのなかで浮いていた。13歳のとき、そんな少年に教師の一人が、「君の中にはもっと偉大なものになる可能性が秘められている」と声をかける。教師はムスリム同胞団(イスラームの社会運動・宗教運動組織で原理主義的傾向が強く、エジプトではテロ組織と見なされて弾圧されている)のイマームで、優秀な若者を勧誘していたのだ。

モスクに通うようになったマンスールは、そこではじめて「守れられている」「存在を認められている」と感じ、共通の使命をもった友人を見つけた。だがそのモスクで習ったナシード(楽器の演奏のない男声歌唱)は、テロを正当化し祝福するものだった。子どもたちに悪魔祓いの残酷なビデオを見せたり、夜の墓地に連れていって死への恐怖と服従を教えるなど、“洗脳”と呼ぶほかない教育も行なわれた。

“イスラーム原理主義者”になったことで、マンスールの生活には大きな変化が起きた。

まず、抑圧的な父親との関係が変わった。原理主義的なクルアーンの解釈を叩き込まれたマンスールは、両親に対して礼拝の仕方が正しくないと教えることができたのだ。さらに、学校では教師に一目置かれ同級生からは恐れられて、かつてのいじめられっ子は学級委員長になった。それはまさに「小さな奇跡」だった。

将来はムスリム同胞団の地域指導者になることを目指していたマンスールだが、大学入学試験に合格してテルアビブの大学に入学したことで、ふたたび人生は大きく変わった。エルサレムとはちがってテルアビブはイスラエルでも世俗化した都市で、その雰囲気はヨーロッパの街とまったく変わらない。

学生寮に入ったマンスールは、新しい生活への好奇心を抑えることができなかった。決定的なのは、ユダヤ系のフランス人女性に恋をしたことだった。こうして彼は、モスクに行かなくなった。

しかしそれでも、昼間の「啓蒙化された西洋風の生活」と、夜の「宗教的反省」の二重生活はマンスールを苦しめた。

27歳で民放テレビ局のチーフをしていたとき、目の前でパレスチナ人の男が機関銃を乱射し、たちまちイスラエル軍に射殺される事件に遭遇する。「こんなところでこれ以上暮らせない」と考えたマンスールは移民を決意し、言葉も話せないままドイツに向かう。

ベルリンの大学に入学したものの、マンスールはドイツ社会に馴染むのに苦労した。しかしちょうどその頃(2006年)、ベルリン南東部のノイケルン地区にあるリュトリ基幹学校で、移民の背景をもつ生徒たちの校内暴力と学級崩壊のため、全教員が仕事を放棄し廃校願いを出すという事件が起きる。それを知ったマンスールは、自分の経験を活かすことができるのではないかと考え、ノイケルン地区移民統合課のインターンシップに応募する。こうして彼は、移民の若者たちを対象にした反過激主義のプロジェクト「HEROS」にかかわることになった。

ドイツに生まれ、ドイツで「民主教育」を受けたムスリムの若者たちが続々と「イスラム国」に参加するようになると、マンスールはイスラーム原理主義による“洗脳”の専門家として一躍その名を知られることになった。しかしそれと同時に、故郷では「転向した裏切り者」と呼ばれ、友人をすべて失い、イスラエルに戻っても両親の家に泊まることもできないという。

ジハード主義はポップだから若者たちを魅了する

マンスールは、サラフィズム(ジハード主義)がムスリムの若者たちを魅了するのは、それが“ポップ”だからだという。

たとえば、ネット上で広く閲覧されているビデオクリップがある。

ヨーロッパの都市郊外によくある高層団地の前。あちこちはげかけた芝生の上に、若者と子どもたちが大勢集まっている。誰もがイスラームの国々の国旗を、なにかの“しるし”のように掲げている。なかには泥沼の争いをつづけている当事者国の国旗もあるが、それはここでは関係ない。彼らが演じているのは、「迫害され、社会の周縁に追いやられたひとびとによってつくられた神話的なウンマ」「すべてのムスリムが集うイスラム共同体」だからだ。

やがてラップ調の歌詞で、ムスリムたちが世界各地でたえずさらされている嘘や虚偽の数々が歌いあげられる。ムスリムを標的にした西側諸国の犯罪への非難、殺戮された市民、火を放たれたモスク。これ以上黙っていはいられない「くそったれの人生」、「さあ、くそったれのアメリカ人どもをみんなでファックしてやろうぜ」のリフレイン……。

こうした「宣伝」に共通するのは、ムスリムを“犠牲者”として描くことだとマンスールはいう。

自分を“犠牲者”と見なせば、ほとんどのことが正当化できてしまう。「私は犠牲者だ。だから私のすることは正しい。よって、当然与えられるべきものがある」というのは、反差別運動がおうおうにして陥る罠だ。そしてマンスールは、ムスリムがまさにこの「罠」にまはまっているという。

イスラーム組織がムスリムの“犠牲者”としての役割を喧伝するのは、犠牲者集団のなかでアイデンティティがつくられていくことを知っているからだ(犠牲者の役割への逃走)。過激思想をもつ若者は、アッラーのなかに「唯一の拠り所」「自分自身のための絶対的な解決」「完全な真理」を見出す。自分の「真理」だけが正しいという排他性こそが、彼らに権力と優越性を約束してくれる。

シャルリー・エブド事件のあと、広く流布した動画「ぼくはシャルリーじゃない」も、こうした「犠牲者への逃走」の典型だ(これはもちろん、風刺雑誌シャルリー・エブド編集部が襲われた事件に抗議したひとびとが掲げた標語「わたしはシャルリー」から取られている)。

14歳くらいの少年が真剣でひたむきな表情を浮かべた背後に、戦争、死んだ女性、飢餓に苦しむ子どもなど、いくつもの凄惨な画像が浮かび上がる。それに合わせて少年は語る。「ぼくは占領されたパレスチナ。ぼくは占領されたガザ。ぼくは殺戮され、爆撃されたシリア。ぼくは飢えたアフリカ。ぼくは占領されたアフガニスタン。ぼくは征圧されたチェチェン。ぼくはエジプトの抑圧。ぼくはウランを使って爆撃されたイラク。ぼくはずたずたにされたリビア。ぼくは包囲された難民キャンプ。ぼくは拷問がおこなわれ、それから忘れられたグアンタナモ。ぼくはこの15年の間に西側列強の血まみれに手によって殺された、150万人以上の死んだムスリム。ぼくは死んだムスリムだ」

そして少年は、「ぼくはシャルリーじゃない」と宣言するのだ。

イスラーム過激主義の宣伝に共通するのは、ダブルスタンダードと偽善の告発だ。「黒人が侮辱されれば、人はそれを人種差別と呼ぶ。ユダヤ人が侮辱されれば、人はそれを反ユダヤ主義と呼ぶ。ムスリムが侮辱されれば、人はそれを意見表明の自由と呼ぶ」のだから。

原理主義によって女性は「自由」になる

サラフィズムがムスリムの若者を取り込むのは、そのイデオロギーや価値観がアイデンティティの一部になっているからだ。彼らはドイツにおいて、「相互承認の文化」から排除されている。たびたび言及されているように、ヨーロッパ社会において、ムスリムの移民やその二世、三世は「暗黙の差別」にさらされている。そんな彼らに過激なイスラームは、「誰かといっしょにいる」という強さ(共同体感覚)と同時に、自分たちだけが「普遍的な真理」を知っているという優越感を与えてくれる。

サラフィストの有名なイマームは、「イスラム教は真実である。真実であるならば、君が好むか否かは問題ではない。君はその真実に従わなければならない」と説教する。これは、決断の重圧と責任に満ちた世界がもつジレンマからの解放でもある。

このようにしてサラフィズムは、ムスリムと(白人)多数派とのあいだに、「俺たち」と「奴ら」の分断線を引く。そんな彼らにとって最大の敵は、ユダヤ人やキリスト教徒ではなく、「ユーロ・イスラム」と呼ばれる世俗化したムスリムたちだ。彼らは権力や利権(グローバル資本主義)におもねり、クルアーンを恣意的に解釈する「背教者」であり、「裏切り者」なのだ。

ところで、サラフィズムが移民二世、三世の若い男性に「誇り高きムスリム」としてのアイデンティティを与えるとしても、それはムスリムの若い女性が原理主義に引きつけられる理由にはならない。伝統的なイスラームとは、なによりも女性の権利の徹底的な否認によって特徴づけられるからだ。

しかし、それは誤解だとマンスールはいう。原理主義的なイスラームは、じつは伝統的なイスラームよりはるかに「男女平等」なのだ。

家庭内で父親に抑圧されている女性に、サラフィストはいう。「お父さんやお兄さんに従わなくていいんだ。君が従わなけらばならないのは、ただひとつ、アラーだけなんだ」

これまで自由に外出することすらままならなかった彼女たちは、ブルカを着用することと引き換えに、いまやどこへでも(シリアまでも)行くことができるようになる。実際、「イスラム国」には女性警察官がいるし、女性だけが勤務する裁判所もあるのだ。

もうひとつの魅力は、アッラーへの服従によって、これまでの罪がすべては赦されることだ。「ブルカの下に過去の「堕落した人生」の名残であるタトゥーやその他のしるしが隠されているのは偶然ではない」と、マンスールはいう。罪を背負った者たちは、神の名の下にこれまでの人生をリセットし、ふたたびゼロから始めることができる。

サラフィストたちはヨーロッパのムスリムの若者たちを勧誘し、「聖典」の名において「ジハード」に捧げられる魂を集めて回っているのだ。

混乱するドイツの教育現場

『アラー世代』でマンスールは、ドイツ社会において、ムスリムの若者たち(「移民の背景をもつ家庭出身の若者」)の通う学校でなにが起きているのかを報告している。

いまやムスリムの親たちが、娘を性教育や水泳の授業、遠足や見学旅行に出席させないため、病気の申告をするのは当たり前になった。体育の授業を男女別に行なってほしいというにとどまらず、娘の運動着が外から見えないよう体育館の窓を黒いシートで覆ってほしいという要求まで出ている。

教師たちによれば、中東紛争についてのディスカッションはもはや学校ではできなくなった。多くの生徒の意見はひどく凝り固まったものになっていて、それを譲ろうとしないからだ。

こうした若者たちは、ユダヤ人が世界経済を支配しており、メディア・コンツェルンを操っているという反ユダヤ主義のテーゼを信じている。彼らにとって、ドイツやヨーロッパのメディアは「ユダヤ人に毒されている」か、あるいはどんなときも「反イスラム的」なのだ。

そのうえ彼らは、自分の見解をいっさい譲歩せず強硬に主張し、対話するつもりはもはやなく、イスラームがテーマになる場合は言論の自由をつねに否定する。

ホロコーストの負の歴史負うドイツの学校では「反ユダヤ主義」についての授業が必須になっているが、そのとき教師は、パレスチナ系の生徒に対して「君は黙っているように。君のユダヤ人を敵視する口ぐせはよく知っているからね」と命令するのだという。さらに、ホロコーストの記念施設を訪ねる社会科見学に、パレスチナ系の生徒をわざと参加させない教師もいるという。

しかしこれは、(白人の)教師を批判すれば解決する問題ではない。パレスチナ人がなぜガザの「収容所」に閉じ込められているのか、欧米の「リベラル」はその正当な理由をムスリムの若者たちに説明することができないからだ。そのため彼らは、いくらでも欧米社会の「きれいごと」のダブルスタンダードを突き、自分たちを“犠牲者”として正当化することができるのだ。

ドイツでは(2017年)9月24日投開票の総選挙で、新興右翼政党「ドイツのための選択肢(AfD)」が「得票率5%」の最低ラインを突破して、はじめて国政に進出する可能性が高まっている。それを報じた記事(『朝日新聞』2017年8月28日朝刊「「ドイツ第一」じわり」)は、25年間、与党キリスト教民主同盟(CDU)に所属していた国際派のエリート弁護士や、中道左派の社会民主党(SPD)で組合活動の幹部を務めていた「リベラル」などがAfDに鞍替えする理由を探っている。彼らが移民規制強化を求める「極右」に転じた背景には、マンスールが『アラー世代』で描いたような、ドイツの移民社会の「伝統回帰」や教育現場の混乱がある。

マンスールは、次のような象徴的なエピソードを紹介している。

パリでシャルシー・エブド事件が起きた翌日、ある女性教師はその出来事について話そうとクラスに向かった。だが彼女は30分後に授業を中断し、ショックを受けて職員室に駆け戻り、そして警察に通報した

「生徒たちは完全にテロに熱狂していた。殺人者を讃えて「彼らは預言者のために復讐したんだ」と言った。女子生徒たちは、ユダヤ人が殺されてもまったく同情などしないと言い放った」

こうした現状に対して、「市民社会と共生するリベラルなムスリム」になることを説くマンスールは、ムスリムの側にも問題があることを熟知したうえで、「残念ながら今日の教育者は、こういうことに耐えるすべを知らなければならないのだ」という。

だがはたして、そんなことが可能なのだろうか。そのこたえは、ヨーロッパ社会がこれからイスラーム過激派のテロに対処していくなかで明らかになるだろう。

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