フランスとアフリカの旧植民地との複雑骨折したような歴史

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2016年4月14日公開の「現代フランスはアフリカから生まれた!? なぜ北アフリカ出身の移民だけがフランスへの「同化」を拒否するのか?」です(一部改変)。

MartinTrama/Shutterstock

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前回の記事で、「世界でもっとも安全なはずのヨーロッパでテロが頻発するようになった理由はさまざまだろうが、私の理解では、その深淵には長い植民地支配の歴史がある」と書いた。

参考:「フランスが植民地問題を謝罪しない理由(前編)」
   「フランスが植民地問題を謝罪しない理由(後編)」

これが私の独断でないことは、たとえばフランス近現代史の本に次のように述べられている(N.バンセル、P.ブランシャール、F.ヴェルジェス『植民地共和国フランス』 平野千果子、菊池恵介訳/岩波書店)。

今日の「フランスの若い世代」の約三人に一人は、旧植民地出身である。その彼らのアイデンティティを植民地共和国の歴史に立ち戻らずに作り上げようとしても、破綻は目に見えており、ルサンチマンや憎しみが増幅される結果にもなりかねない。このままでは、フランス本国と海外領土の双方において、新たな緊張が生まれるだろう。

この予言的な一文はパリ同時多発テロが起こるずっと前、2003年のものだ。その頃からすでに移民出身の若者たちの暴動が社会問題になっていたが、歴史家たちはその理由を、「フランスが過去の植民地の記憶を否認し、歴史を修正して美化しているからだ」と批判したのだ。

もちろん私はこのことで、「テロの標的になるのはフランス側にも非がある」など主張するつもりはない。ただ日本だけなく(あるいは日本以上に)欧米諸国でも、「歴史問題」は深刻だということは押さえておく必要があるだろう。

それではフランスはなぜ、これまで植民地時代の「負の歴史」を直視せずにすんできたのだろうか。そこにはフランスとアフリカの旧植民地との奇妙な共依存がある。

アフリカこそが“現代フランス発祥の地”

南アフリカで長らくアパルトヘイトが続き、ジンバブエのムガベ大統領がブレア政権と激しく対立したように、イギリスとアフリカの大英帝国の旧植民地との関係は緊張をはらんでいる。それに対して、仏領西アフリカや仏領赤道アフリカが「植民地問題」で旧宗主国と対立することはこれまであまりなかった。これがフランス人にとって、「自分たちはイギリスとはちがう」という植民地神話の根拠になっている

*近年、フランスとアフリカの旧植民地国との関係は急速に悪化しているが、本稿はそれ以前に執筆した。

だがその一方で、イギリスがかつての植民地から軍事的に手を引いたのに対し、フランスはオランド政権になってもマリや中央アフリカに派兵している。これにはもちろん資源獲得などの思惑もからんでいるのだろうが、『フランス植民地主義と歴史認識』(岩波書店)で平野千果子氏は、「アフリカこそが“現代フランス発祥の地”」だという歴史がその背景にあると指摘する。

1940年6月22日にフランスはドイツに降伏し、パリ南東のヴィシーに傀儡政権が誕生した。これに反対してロンドンからフランス国民に徹底抗戦を呼びかけたのがドゴールであることは広く知られているが、当初、連合国では彼の存在はまったく評価されていなかった。共和政の正当な後継者を自称するものの、国家の本質である「領土」と「国民」をまったく持っていなかったからだ。

そこでドゴールは、ドイツとの休戦協定で植民地の主権がフランスに残されていた(対ソ戦を見込んだヒトラーの懐柔策とされる)ことを利用し、ヴィシー政権を揺さぶるために、植民地の総督たちに働きかけていく。

ヴィシー政権の国家元首ペタン元帥は軍人のあいだに圧倒的な支持があったし、開戦当初はヒトラー率いるドイツの勝利が確実視されていたこともあって、最大の植民地であるアルジェリアもヴィシー派で、ドゴールの側についたのは南太平洋やインドの仏領の都市など数少なかった。

ところがここで、仏領赤道アフリカのチャド総督をしていたフェリクス・エブエがドゴールに呼応する。エブエはカリブ海(南米北端)の仏領ギアナ出身で、フランスで教育を受けて植民地行政官となり、チャドでフランス植民地史上初の黒人総督となった。

カリブ海ではフランス革命の共和主義が黒人奴隷を解放したと信じられており、共和政こそが「真のフランス」だった。エブエは他の植民地総督に働きかけ、その尽力によって4カ月で仏領赤道アフリカの4カ国(チャド、中央アフリカ、コンゴ、ガボン)とカメルーンをドゴールの指揮下に入れることに成功した。

これによってドゴールは、248万2000平方キロの「領土」と600万を超える「国民」を持つことになり、自由フランスの首都をコンゴのブラザヴィルに構えた。翌41年9月にはフランス国民委員会がロンドンに発足するが、ヴィシー政権に代わる共和政の「正統政府」はアフリカから始まったのだ。

その後、米英連合軍の北アフリカ進攻を経て43年6月にはアルジェリアの首都アルジェにフランス国民委員会(CFLN)が発足し、これがパリ解放後の臨時政府の母体となる。

エブエは対独レジスタンスの功績を認められ、ドゴールのもとで仏領赤道アフリカ総督の地位にまで上りつめた。1944年にカイロで客死すると、植民地出身者・黒人としてはじめて“国家英雄”を祀るパリのパンテオンに埋葬されている。

これが、「現代フランスはアフリカから生まれた」という歴史だ。

アフリカ人エリートは「エヴォリュエ(進化した者)」

フランス革命の時代から、サブサハラ(サハラ以南)のアフリカでは、白人と黒人の混血を中心に、フランスへの「同化」によって社会的地位の上昇を目指すエリート層が誕生していた。

アフリカのもっとも古い植民地のひとつであるセネガルでは、ダカール、サン=ルイ、ゴレ、ルフィスクの4都市で黒人にも選挙権が与えられた。こうした都市部にはフランス革命以前から2世紀以上にわたってフランス文化に馴染み、自らを「フランス人」と考える黒人(混血も含まれる)のエリートがいて、彼らは「同化した者(アシミレ)」と呼ばれた。

だが現地の総督府は、イスラームを棄教することがフランス市民権を得るための条件としたために、フランス流の高等教育を受けたもののイスラームの伝統をも守ろうとする黒人エリートたちの反発を招いた。彼らは「進化した者(エヴォリュエ)」と呼ばれた。

エヴォリュエたちは第一次世界大戦が始まると積極的に兵役に応じ、「血の税金」を払うことで、ムスリムのまま「フランス人」に同化することを求めた。彼らの主張を支えたのは「自由・平等・友愛」のフランス革命の理念で、もしそれが(共和主義者のいうように)普遍的な価値ならば、皮膚の色にかかわらず、完璧なフランス語とフランス文化を身につけ、フランスのために血を流す覚悟を示した者を「フランス人」から排除する理由はないはずだからだ。

「進化した者」という呼び名には、一般のアフリカ人(黒人)を「進化以前の者」すなわちサルに近い存在だとする含意がある。しかしその一方で、黒人エリートが「エヴォリュエ」と呼ばれることに反発せず、「完全なフランス人」になることを求めたのも事実だ。

ここにフランス(西欧)とアフリカの特殊な関係がある。列強によるアフリカ侵略と植民地化が始まった当時、両者の文化や知識の差は圧倒的だったから、アフリカ人のエリートは従属的な立場から脱するために、まずは支配者であるフランス人と同じ立場を目指すほかなかったのだ。

「エヴォリュエ」がアフリカ人エリートの特権的な呼称になったことからわかるように、第二次世界大戦後もブラックアフリカの指導者たちのあいだに親仏的な傾向が残り、それが今日までつづいているのだと平野氏は述べる(『フランス植民地主義の歴史 奴隷制廃止から植民地帝国の崩壊まで 』人文書院)。

アフリカとヨーロッパの融合「ユーラフリカ」

戦後、「ユーラフリカ(ヨーロッパ+アフリカ)」なる概念をアフリカの指導者層が提唱することになるが、これも植民地時代のアフリカの歴史的背景を知らないと理解できない。

セネガルの初代大統領となったレオポール・セダール・サンゴールは、第二次世界大戦でフランス軍に志願し、捕虜から釈放されたのちはレジスタンス運動に身を投じた。サンゴールは白人の人種主義を批判し、被抑圧民族である黒人の文化運動ネグリチュードを提唱したことで知られるが、彼はまたフランス語の詩人としても著名でアカデミー・フランセーズの正会員になり、独立にあたっては「アフリカなしにヨーロッパを創るな」と主張した。

サンゴールの理想は、ヨーロッパとアフリカのフランス領植民地が融合した「ユーラフリカ」で、この連邦制こそが「唯一危険なナショナリズムに対抗する砦となる」と考えたのだ(「ユーラフリカ」という言葉自体はヨーロッパ起源)。

平野氏によると、サンゴールは第二次世界大戦直後に著した「ブラックアフリカ展望――同化されるのではなく同化すること」において、「植民地の側が意思をもって主体的に外来の要素を取り入れることこそが「同化」なのであり、それが精神的な豊かさにつながる」との立場を表明している。

サンゴールは、フランスのものを押しつけられるのではなく、アフリカ自身が自ら取り入れることを目標に掲げ、これを「原住民による同化」と呼んだ。こうした立場からは、人種差別への批判はあっても植民地支配の全面的な否定は出てこないだろう。

EU(欧州連合)の構想は1951年にフランス、西ドイツ、イタリア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクが設立した欧州石炭鉄鋼共同体から始まるが、この時点でヨーロッパはまだ植民地を抱えており、それをどのように扱うか決まっていなかった。とはいえ、西側世界の「超大国」となったアメリカが民族自決を求めている以上、旧来の植民地支配をつづけることができるわけもなく、アフリカ諸国にも独立の気運が高まっていた。ブラックアフリカのフランス植民地のエリートたちは、ヨーロッパ統合を「ユーラフリカ」に拡張することによって、独立後の経済発展と「国民」の統合を目指したのだ。

この「ユーラフリカ」構想は英仏の思惑のちがいなどから自然消滅するのだが、それはフランス語圏において「フランコフォニー」の運動として残った。

「フランコフォニー」は旧フランス植民地やカリブ海のハイチなどフランス語圏、一部でフランス語が使われるベルギー、スイス、ルクセンブルク、カナダ(ケベック)などによって設立された。その目的は「各メンバーの文化の促進と普及」「相互の文化・技術についての協力関係」で、要はフランス語の普及だ。

フランコフォニーは(形式上は)フランスの発案ではなく、創設者として名を上げられているのはセネガルのサンゴールのほか、チュニジア、ニジェール、カンボジア(シハヌーク)など旧植民地の指導者たちだ。

フランスがドイツの占領から解放されたあと、植民地は「フランス連合」として再編されるが、アルジェリア独立戦争の混乱で第四共和政が崩壊し、政界復帰したドゴールによって(紆余曲折はあるにせよ)独立を認められていく。

その過程のなかでフランス留学経験を持つアフリカ人エリートたちは旧宗主国と対立するよりも結びつきを保持し、ドゴールの権威とフランスからの経済援助によって自らの権力を維持しようとした。その後、英語が「世界共通語」になると、東アフリカや南アフリカなど「英語のアフリカ」に対抗して「フランス語のアフリカ」を意識するようになったこともあるだろう。

こうした歴史的経緯が「暗黒大陸に文化をもたらした」との植民地神話を温存させ、フランスはレジスタンス時代のアフリカ諸国の貢献に「感謝」し、アフリカ諸国は植民地時代の文明化に「感謝」するという、ある種の互恵関係が生まれた。これが、フランス国民がアフリカの旧植民地国の内戦に軍事介入することを当然と考え、アフリカ側もそれを拒まない理由なのだろう。

だがフランスと「フランス語のアフリカ」との“共依存”にも例外があった。それがアルジェリアだ。

移民の若者に浸透する「IS(イスラム国)」の歴史観

ここでフランスのアルジェリア支配について詳述する余裕はないが、他のアフリカ諸国と比べてもっとも大きなちがいは、そこが「植民地」ではなく「フランスの一部」だったことだ。戦前の日本における満州と同様に、地中海をはさんだ対岸にあるアルジェリアはフランスの「生命線」で、そこはフランス人(白人)が移住する土地と見なされた。

そのためアルジェリアの植民地支配は、アフリカの他の地域と比べてもさらに過酷だった。本国から遠く離れ環境もきびしいブラックアフリカでは、「文明化」の使命は現地のひとびと(原住民)を教育し、エリートを植民地官僚として取り立てていくほかなかった。それに対してアルジェリアでは、白人の移住者たちが原住民に権力を移譲したりフランス市民権を与えることにはげしく抵抗したため「進化した者(エヴォリュエ)」すら生まれず、抵抗や反乱は武力(拷問と虐殺)によって抑え込まれた。

8年におよぶ泥沼の戦争の末に1962年にアルジェリアが独立すると、この「特別な植民地」での出来事は「フランスの栄光の歴史」の闇として隠蔽されていく。「ピエ・ノワール(黒い靴)」と呼ばれるアルジェリアからの引揚者や、「アルキ」と呼ばれるフランス軍に協力したアルジェリア人の存在に光が当たったのは1970年代になってからで、本格的な補償が始まったのは90年代、シラク大統領が「フランスはこれまで彼らにふさわしい地位を与えてこなかった」としてアルキ顕彰の式典を開いたのは2001年だ。日本では「過去の戦争」は歴史の領域に入っているが、フランスは日本からほぼ20年遅れており、それはまだなまなましい現在の出来事なのだ。

アルキはアルジェリア出身者だが、彼らがフランス社会に受け入れられたのは祖国を捨て(アルジェリアでは彼らは「裏切り者」とされている)フランスに完全に「同化」する道を選んだからだ。しかしその一方で、フランスは経済成長期に多数のアルジェリア移民(ムスリム)を労働者として受け入れてきた。彼らは当初、仕事がなくなれば帰国すると思われていたが、母国にも仕事がないのだからよりゆたかなフランスでの暮らしを望むのは当然で、家族を呼び寄せて定住するようになった。

だが彼らには、アルキとちがってムスリムのアイデンティティを捨てる理由はない。学校で「自由・平等・友愛」の普遍的な理念を学んだとしても、それだけでフランスを「偉大な国」と思うこともなければ、フランス革命の理念に誇りを持つこともないだろう。かえって、高らかに掲げられた理想と自分たちの(被差別者としての)現実との落差に絶望するだけかもしれない。

フランスは移民に対して「同化」政策をとっているが、その前提には、「フランスは植民地を文明化したのであり、それは(全体としては)よいことだった」という「植民地神話」がある。移民の子弟たちは「フランスという理想」を目指すのが当然であり、フランク王国最盛期のシャルルマーニュ大帝や「人類に啓蒙の光をもたらした」フランス革命を「自分の歴史」として学ぶことを要請されているのだ。

第一次世界大戦中の1916年、イギリス、フランス、ロシアの3国がオスマン帝国を分割する密約を結び、現在のシリアがフランス領、イラクがイギリス領とされた。これがサイクス・ピコ協定だが、これによってクルド人の居住地域は分断され、イラクではシーア派とスンニ派のムスリムが混住することになった。さらにシリアでは、多数派のスンニ派住民を抑えるためにフランスが少数派のアラウィー派を重用したことで今日の混乱の種をまいた。

IS(イスラム国)は、このサイクス・ピコ協定を廃止し、国境線を引き直して欧米の植民地主義の「悪」を清算すると宣言している。フランスに住む北アフリカ出身の若いムスリムにとって、どちらの「歴史」がより真実だと感じられるだろうか。

その一方でフランスの(白人)主流層には、ブラックアフリカなど他の地域からの移民たちが「フランス」という理念を(まがりなりにも)受け入れているのに、なぜ北アフリカ出身のムスリム移民だけが「同化」を拒絶するのかがわからない。ここから「イスラームには問題がある」との偏見が生まれたとしてもなんの不思議もない。

これはもちろん、フランスの「正史」よりもISが正しい、ということではない。だが、次のようにいうことは許されるだろう。

フランスの「テロとの戦い」は“歴史(記憶)をめぐる戦争”でもあり、その苦い事実がヨーロッパにおいていまようやく浮上してきたのだ。

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