福島原発事故から3年たった2014年3月、ネットメディアの企画で廃炉作業の現場を視察する機会を得ました。そのとき東電本社で事前のレクがあり、担当者から凍土壁の説明を受けました。
その当時、原発建屋に1日500トンも流れ込んでいた地下水が大きな問題になっており、原発周辺にはすでに処理水を貯めたタンクが林立していました。そこで東電は、地中に約1600本の凍結管を埋め、零下30度の冷却液を循環させて周囲の土を凍らせるという技術で、地下水の流入を防ごうとしたのです。レクのあと、「凍土壁がうまくいかなかった場合はどうなるんですか?」と訊いてみると、担当者の答えは「代案はありません」でした。
地下水に含まれる放射能は除去設備(ALPS)によって規制基準値未満に浄化されますが、水分子の一部となるトリチウムだけは除去できないことも、そのとき説明されました。それから10年ちかくたち、いよいよ処理水のタンクが満杯になって、政府は海洋放出に踏み切る決断をしたのです。
ところがこの措置に中国が強く反発し、日本の水産物の全面禁輸を発表します。それと同時に、中国から日本に大量の苦情や嫌がらせの電話がかけられ、中国国内の日本人学校に石や卵が投げ込まれるなどしたため、外務省は中国に渡航・滞在する日本人に注意を呼びかけました。
すでに報じられているように、この混乱の背景には、中国政府が国民に正しい情報を提供せず、いたずらに不安を煽っていることがあります。バイデン政権が進める「封じ込め政策」によって、中国は自分たちが「被害者」であると考えるようになりました。“汚染水”の一方的な放出は、中国国民の「被害感情」に訴える格好の道具として、政治的に利用されることになったのでしょう。
しかしその一方で、中国の極端な反応によって、処理水の海洋放出に批判的だった野党や市民団体、メディアなどは、この問題の扱いに苦慮することになりました。「海洋放出は早計ではないか」というだけで「反日」のレッテルを貼られ、炎上しかねないからです。
それに加えて、アメリカが処理水の海洋放出を認める声明を出しただけでなく、環境を重視する欧州諸国も、米中対立に巻き込まれかねないこの問題に触れることに慎重になっています(過激な環境保護団体も、いまのところ静観を保っているようです)。
「社会正義」の時代には、良くも悪しくも、あらゆる問題が政治的に扱われ、「俺たち」と「奴ら」に分断されていきます。ロシアはウクライナに侵攻したことで、欧米から(ほぼ)永久に「奴ら」の側に排除されました。中国はロシアと組んでアメリカの圧力に対抗しようとしたことで、「奴ら」の側に半ば押しやられています。
処理水の海洋放出を強行した場合、日本にとっての最悪のシナリオは、中国の反発ではなく、欧米など先進国で市民の抗議行動や不買運動が広がることでした。そう考えれば、中国の強硬姿勢によって逆に海外の反発が抑制されたのですから、日本にとってはよかったといえるかもしれません。
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