ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。
今回は2020年1月16日公開の「「世界がどんどん悪くなっている」というのはフェイクニュース。 先進国の格差拡大にも関わらず 「公正なルール」のもとでの不平等は受け入れられる」です(一部改変)。
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2004年に『タイム誌』の「世界でもっとも影響力のある100人」に選ばれた進化心理学者のスティーブン・ピンカーは、『暴力の人類史』(青土社)につづいて2018年に“Enlightenment Now(いまこそ啓蒙を)”を上梓し、日本でも『21世紀の啓蒙 理性、科学、ヒューマニズム、進歩 』(橘明美、坂田 雪子訳、草思社)として昨年末に発売された。上下巻で1000ページちかい大部の本で、とてもそのすべてを紹介できないが、かんたんにいうなら「18世紀の“啓蒙の時代”以降、世界はますますゆたかで平和になり、人類は幸福になった(人口が増えたにもかかわらず平均寿命・健康寿命や教育年数が延び、1人あたりGDPが増え戦争や殺人事件が減った)。だとすれば「反知性主義」に陥ることなく、「理性、科学、ヒューマズム、進歩」を信じて啓蒙をより先に進めていこう」と説く合理的楽観主義の本、ということになるだろう。
本書のいちばんの読みどころは第三部「理性、科学、ヒューマニズム」で、「世界は決して、暗黒に向かってなどいない」という事実(ファクト)に基づいて、右派ばかりでなく左派(リベラルな知識人)のあいだにも蔓延する「啓蒙への蔑視」が徹底的に批判される。前著『暴力の人類史』を既読の方は、第一部「啓蒙主義とは何か」で全体の構成をつかんだあと第三部に進み、そのあと第二部「進歩」から興味ある各論を読んでいってもいいだろう。
ここではその各論から、「不平等は本当の問題ではない」(第九章)と「幸福感が豊かさに比例しない理由」(第十八章)について、私見を交えて紹介してみたい。あらかじめ述べておくと、私はピンカーの主張のほとんどに同意している。だからこそ、あえて違和感のある部分を取り上げることにする。
「世界がどんどん悪くなっている」というのはフェイクニュース
冷戦が終わってグローバル化が進展したことで、世界の富は大きく増大し、貧困は減少した。その結果、先進国と新興国(発展途上国)のあいだの(道徳的にとうてい正当化できない)格差も縮小した。
この事実は、10億人を超える巨大な人口を抱える「最貧困国」中国とインドから、経済成長によって続々と中流階級が生まれたことを見れば誰でもわかるだろう。近年の日本のインバウンド景気は、こうした新興国で空前の海外旅行ブームが起きたことでもたらされた。
ところが日本でも世界でも、知識人(を自称するひとたち)は「グローバル資本主義が善良な庶民の生活を破壊した」として呪詛の言葉を浴びせかけてきた。最近、このひとたちがようやく黙るようになったのは、ハンス・ロスリングらの『FACTFULNESS 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣』( 上杉周作、関美和訳、日経BP)がベストセラーになったことなどで、「世界がどんどん悪くなっている」というフェイクニュースを垂れ流すことができなくなったからだろう。――ロスリングはこの「とんでもない勘違い」をネガティブ本能と呼んでいる。
だが悲観論者の主張にもまったく理由がないわけではない。世界の格差を研究する経済学者ブランコ・ミラノヴィッチが示したのは、グローバル化によって新興国の中流層と先進国の富裕層の富が大きく増えたのに対して、先進国の中流層が逆に貧しくなっている現象だった(『大不平等 エレファントカーブが予測する未来』立木勝訳、みすず書房)。この「中流から脱落したひとたち」が、アメリカで稀代のポピュリスト、ドナルド・トランプを大統領の座に押し上げ、イギリスを国民投票でEUから離脱させ(ブレグジット)、フランス全土で黄色のベストを着たゲリラ的なデモを引き起こしたことは拙著『上級国民/下級国民』(小学館新書)でも指摘した。
ところがピンカーは、こうした先進国内の格差拡大(不平等)は「本当の問題ではない」という。
格差社会への批判としては、リチャード・ウィルキンソンとケイト・ピケットの『平等社会』(酒井泰介訳、東洋経済新報社)が広く知られている。2人は世界各国の格差を統計分析し、「所得格差の大きい国では殺人、収監、10代の妊娠、乳幼児の死亡、身体および精神疾患、社会不信、肥満、薬物乱用の率が高い」ことを発見した。これはきわめて説得力のある主張に思えるが、ピンカーは「複雑に絡み合う相関関係をいきなり一つの原因で説明しようとするところに問題がある」と批判する。
北欧のような経済的に平等主義な国と、ブラジルや南アフリカのような不平等な国を比較すれば、たしかにウィルキンソンとピケットが述べるような格差の負の効果が見つかるだろう。だが平等主義の国には、経済的なゆたかさや教育レベルの高さ、文化的な均質さ、民主的で透明性の高い統治などの要素があり、それらがどのような相関関係になっているのかを知るのはきわめて困難だ。「すぐれた社会」と「劣った社会」の差は、分析のやり方を変えれば、不平等以外の要因からも説明できるのだ。
分析の対象を先進国にかぎっても、「シンガポールや香港のように豊かだが不平等な国が、旧共産圏の東欧諸国のように貧しいが平等な国より社会的に健全だ」という例を加えるか外すかで結果が変わってくるとピンカーはいう。たしかにそのとおりだろうが、これだけでは、「同じゆたかな社会でも、アメリカのような格差社会より北欧のような格差の小さな社会の方が望ましい」との“常識的な主張”への反論にはならないだろう。
問題は不平等ではなく、能力主義が政治的に歪められていること
そこで次にピンカーは、「不平等を不公正と混同してはならない」と述べる。最近の研究では、「人は分配方法が“公正”だと思えるかぎり、分配結果が“均一ではない”ほうを好む」ことが明らかになったのだという。
宝くじは当せん者と外れた大多数のあいだにとてつもない「格差」を生むが、そのルール(単純に運がいい人間が当せんする)が公正であれば参加者は納得する。逆にルールが歪められていると(たとえば、貧困層が宝くじに当たりやすくなる“アファーマティブ・アクション”)、それによって不平等が縮まっても「不公正なゲーム」と見なされてひとびとは受け入れない。「ひとは公正なルールのゲームを好む」のだ。
この研究を受けてピンカーは、「人は国が能力主義社会であるかぎりは経済的不平等を受け入れるが、国が能力主義社会だと感じられなくなったときには怒りを覚える」と述べる。問題は「成果主義」ではなく、「成果主義=能力主義が政治的に歪められていること」なのだ。
その結果右派のポピュリストが、「自分の取り分以上のものを不正に得ている悪者」として、黒人などのマイノリティや移民、生活保護受給者などを槍玉にあげるのを許すことになる。だとすればいたずらに“右傾化”を嘆くのではなく、ルールをより公正なものに変えればいいことになる。
だがこの“ネオリベ的”なロジックにも、容易に反論が思いつく。宝くじのルールは(期待値が異常に低いことを脇に置いておけば)たしかに公正かもしれないが、ゲームに参加しない(宝くじを買わない)という選択が認められている。だが市場経済は、国民のほぼ全員が事実上、参加を強要されるゲームだ。
私が錦織圭選手とテニスをすれば、100回戦って100回とも錦織選手が勝つだろう。私はその結果を不公正だとは思わないが、もしもこの「絶対に勝てない」ゲームに強制的に参加させられるとしたら、そのようなルールをものすごく不公正だと感じるにちがいない。ポピュリストに投票するひとたちは、高度化する知識社会をそのような「無理ゲー」だと思っているのではないだろうか。
もうひとつピンカーは、福祉社会が機能するかどうかは国民がどの程度自分をコミュニティの一部だと感じられるかにかかっているので、「受益者があまりにも移民やエスニック・マイノリティに偏ると、その連帯感に亀裂が生じる恐れがある」とも述べている。この主張はリベラルがぜったいに受け入れることができないだろうが、同じゆたかな社会でも、なぜ北欧が平等な福祉社会になって、アメリカが自由競争にもとづいた格差社会になったのかをきわめてシンプルに説明する。
北欧社会は民族的に(比較的)均一で、アメリカのような人種問題がない。そんな社会では、「なんであんな奴らのために俺の税金を使うんだ」という反発は生まれにくい。近年、北欧社会が政治的に揺らぎはじめたのは、移民問題が顕在化したことでアメリカと同じような状況が生まれつつあるからだろう。
アメリカは世界有数の福祉国家
ピンカーは、「(アメリカの)中間層の空洞化」は誤解だとも述べている。その理由は、1979年から2014年までのあいだにアメリカの低所得層(3人世帯で年収3万ドル以下)の人口の割合が全体の24%から20%に、下位中間層(3万~5万ドル)が24%から17%に、中間層(5万~10万ドル)が32%から30%に減少していることだ。だとしたら減った分はどこにいったのかというと、その多くは上位中間層(10万~35万ドル)になり、人口全体の割合も13%から30%に増えた。さらにその一部は富裕層(30万ドル超)に上がり、人口比で0.1%から2%に増えたという。
アメリカ社会はこの30~40年でとてつもなくゆたかになった。「中間層の空洞化は、アメリカ人の大半が裕福になった結果」で、格差の拡大(富裕層の所得が中間層や低所得層の所得よりも速く上昇した)はその代償なのだ。
そのうえ、アメリカでは貧困も撲滅されつつある。アメリカはじつは“隠れた福祉国家”で、国民(被用者)は雇用主を介して健康、年金、障害等の保険をかけている。国による社会的支出にこれらを加えると、アメリカの社会的支出(再分配比率)はOECD35カ国中34位から、一気にフランスに次ぐ第2位に躍り出る。
この“隠れた給付”に消費財の質の向上と価格低下を考慮に入れて生活費を計算すると、「アメリカの貧困率は過去50年間で4分の3以上も低下し、2013年には4.8%になった」と社会学者は推計している。――2015年と16年に中間層の所得がかつてないレベルまで上がったことで貧困率は1999年以来の最小値になり、最貧困層(シェルターにも保護されていないホームレス)の人口は2007年から15年にかけておよそ3分の1に減少した。
もちろんピンカーは、アメリカの人口の一部(中高年、低学歴、非都市域、白人)が苦境に立たされていることを見逃しているわけではない。だがこうした現象を「経済格差」として社会問題にすることは、技術革新反対論(AIをぶっ壊せ)や近隣窮乏化政策(メキシコとのあいだに壁をつくれ)を引き起こすことにしかならない。重要なのは不平等それ自体と格闘することではなく(そもそも不平等は「問題」ではない)、「不平等と一緒くたにされている個々の問題」と取り組むことなのだ。
そのなかで明らかな優先課題は経済成長率を上げることで、全体のパイが増えれば再分配に回せる部分も大きくなる。そのうえで教育、基礎研究、インフラ整備に投資し、医療給付や退職給付(年金)の政府負担を増やす(雇用主の負担を減らし企業を活性化させる)。
それでもまた足りないなら、「啓蒙されたゆたかな社会」は最終的にはUBI(ユニバーサル・ベーシック・インカム)かそれに近い負の所得税を導入することになるのではないかと予想している。
不平等な社会のほうが幸福度は高い
「不平等=悪」という常識(ステレオタイプ)は、30年間にわたって68の社会の20万人を調査した社会学者らの研究によって決定的に反証された。彼らが発見したのは、「発展途上国においては、格差は人々の気力をくじくのではなく逆に鼓舞していて、不平等な社会のほうがかえって人々の幸福度が高い」という事実だった。
なぜこんなことになるかというと、貧しくて不平等な社会でひとたび経済成長が始まると、「自分もゆたかになれる(明日は今日よりもよくなる)」と信じられるからではないだろうか。逆に貧しくて平等な社会は、「頑張ってもたいして生活はよくならない」と思えて「希望」を失ってしまうのだ。
そうだとしても、先進国の格差拡大はひとびとを不幸にしているのではないだろうか。だが幸福度のアンケート調査によると、「アメリカ人の自己申告の幸福度における格差は、実は縮小している」という。その理由は、アメリカ社会が全体としてゆたかになったからで、富裕層の富が増えても生活が大きく改善されるわけではない(2台ある車を20台にしても幸福感はさほど変わらない)のに対して、低所得者の生活がずっと速いスピードで改善されつつある(家族で1台しかなかった車が2台になれば生活の満足度は大きく上がる)からだとされる。
しかしこれは、いまひとつ説得力に欠ける。アメリカ社会がゆたかになり、ひとびとの幸福度も上がっているなら、なぜこれほど不満をもつひとが多いのかを説明できない。こうして、「幸福感が豊かさに比例しない理由」が問われることになる。
2015年のアメリカ人は半世紀前に比べて寿命は9年延び、教育は3年長く受け、所得は家族1人につき年間3万3000ドルも増えている。だとすれば今日のアメリカ人は1.5倍幸福になっていなければならないが、ぜんぜんそんなことになっていない。
これは心理学的には、「ヘドニック・トレッドミル現象(目が光や闇に慣れるように幸福に慣れてしまう)」と「社会的比較理論(幸福感は相対的なもので周囲との比較で決まる)」で説明される。
アメリカ人が思ったほど幸福になっていないことを認めたうえでピンカーは、重要なのは主観的な幸福ではなく、客観的な幸福の条件が向上していることだという。主観的な幸福感がすべてなら、「オウム真理教に入って洗脳されればいい」という話になってしまう。それよりも、幸福の土台(インフラ)である健康、教育、自由、余暇、人権など(アマルティア・センのいう「基本的な人間のケイパビリティ」)が満たされているかどうかの方がはるかに大事だ。「人は長生きをして、健康に恵まれ、刺激的な人生を送っていれば真の良い状態にある」といえる。それを幸福だと自覚できるかどうかは副次的な話なのだ。
これはたしかにもっともだが、「私はぜんぜん幸福じゃない」という“ゆたかな”ひとにこの理屈をぶつけてもまったく納得してもらえないだろう。そこで次に、「主観的な幸福とは何か」が問題になる。
「幸福な人生」を目的として努力するのは徒労
幸福を考えるうえで、ピンカーは例によっていくつかの印象的な事実(ファクト)を挙げる。ひとつは「現代人はより孤独になっているというのは誤り」で、社会学者の40年にわたる調査の結果、アメリカ人の家族や友人との結びつきはほとんど変わっていなかった(現代のアメリカ人は自宅で知人をもてなすことが減り、代わりに電話やメールで交流するようになった)。
主観的な孤独の感じ方でも、若干増加してはいるものの、この増加は主に独身者が増えたことで説明できる。学生を対象にした長期の調査では、「多くのことを一人でやっていてつらい」とか「話し相手がいない」と答える割合は一貫して減少している。
フェイスブックなどのソーシャルメディアについても、「(SNSの)利用者は親しい友人を多くもち、他者を信頼し、周囲の支えを感じ、政治にも積極的に参加する傾向」がある。それにもかかわらずなぜ「コミュニティの崩壊」が騒がれるかというと、ひととのつき合い方が変わったからだという。
以前とちがい、ひとびとは教会やディナーパーティ(あるいはボーリング場)で知人と交流することはなくなり、カジュアルな集まりやデジタル・メディアが好まれるようになった。「遠い親戚よりも、近くの同僚のほうを信頼するようになり、友人の数は多くないが、そもそもそれほど大勢の友人が欲しいと思わなくなっている」としても、社会性がなくなったわけではないのだ。
うつ病については、「診断される人」が増えているのは間違いないとしても「うつ病に苦しむ人」が増えているかどうかは別だとされる。
「診断される人」が増えているのは、うつ病への理解が深まり(あるいは製薬会社のキャンペーンの効果で)ひとびとが自分をうつ病だと口にしやすくなったことと、メンタルヘルスの専門家によってうつ病の基準が引き下げられたことで説明できる(アメリカ精神医学会発行の『精神疾患の診断・統計マニュアル(DSM)』第4版(1995年)には300以上の疾患名が並び、1952年の初版と比べると3倍に膨らんだ)。
では「うつに苦しむ人」はどうかというと、全国を代表する多様な年齢からなるサンプルを長期間調べた研究は存在しないものの、スウェーデンとカナダの研究は1870年代から1990年代に生まれた1世紀にわたる被験者を追跡調査しており、いずれもうつ病が長期的に増加した兆候は見られなかった。
また、子どもや思春期の若者を対象にした調査でも、1990年から2010年の世界全体の不安障害とうつ病の有病率を調べた最大規模のメタ分析で、精神疾患の有病率が上昇しているとのエビデンスは見つかっていない。
そのうえでピンカーは、「幸福感だけがすべてではない」として、「人生の意義」に目を向けるよう勧める。「子育て、本の執筆、大切な理念のために戦うなど、時にわたしたちは短期的には幸せでなくても生涯を通して見れば満足のいく選択をすることもある」のだ。
幸福なひとが現在を生きているのに対して、意義のある人生を送るひとには「語るべき過去」と「未来に向けた計画」があるという。これを私なりに解釈すると、「ひとは(進化によって埋め込まれたプログラムによって)幸福になるように設計されているわけではない」ということになる。「幸福な人生」を目的として努力するのは徒労なのだ。
しかしそうなると、人生の意義を感じることもできず、幸福でもない(多くの)ひとはどうすればいいのだろうか。ピンカーは、この問いには答えていないように私には思える。
それ以外にも本書には、「ポピュリズムは老人の政治運動であり、いずれ衰退する」「気候変動は現実の脅威だが、技術によって解決できる(脱炭素化の有効な手段は原子力発電だ)」「テロの恐怖は過大評価されており、テロリストは実際は無力だ」「アメリカにおいても、世界じゅうでも、偏見や差別は減少している」など、論争必至の主張が多数述べられている。
「世界はどんどん悪くなっている」と思っているひとにこそ、読んでほしい。
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