アカデミー賞授賞式で、俳優のウィル・スミスが司会をしていたコメディアンのクリス・ロックを平手打ちしたことで、百家争鳴ともいえる論争が起きています。この椿事が注目を浴びるのは、近年、大きな影響力をもつようになった「ポリティカル・コレクトネス/PC」のさまざまな矛盾が集約されているからでしょう。
まず、表現の自由と差別・偏見の問題。スミスの妻ジェイダ・ピンケットは脱毛症を公表していますが、ロックは映画『G.I.ジェーン』でデミ・ムーアが頭髪を剃っていたことにひっかけて、「愛しているよ、ジェイダ。『G.I.ジェーン2』で君を見るのを楽しみにしている」と、彼女の短髪をからかいました。
この発言に会場が笑いに包まれたように、出席者の多くはジョークと思ったのでしょう。ところがスミスは、妻の病気を笑いものにされたと激怒したのです。
PCのルールでは、「弱者を傷つけるような言動は許されない」とされます。その一方で、コメディアンは笑いをとるのが仕事です。ロックはこれを許容範囲内のジョークだと思い、スミスはそう思わなかったわけですが、だとしたらその境界線は誰がどのように決めるのでしょうか。
今年の作品賞は、聴覚障害の家族を描いた『コーダ あいのうた』に与えられました。障がい者を揶揄するロックの発言は、「病気とは知らなかった」で免責されるようなものではなく、アカデミー賞にとって重大な問題です。
次に、正義と暴力の問題。妻を侮辱されたと思ったスミスは、彼女をかばうために、自らの手で「正義」を執行しました。法治国家では、紛争解決の方法としての暴力は、法によるもの以外はすべて否定されます。ところがハリウッド映画は、むかしもいまも、主人公の私的な暴力が悪を打ち負かす物語ばかりをつくってきました。その結果、アカデミー賞の場でハリウッド映画のヒーローのように振る舞う俳優が登場したのです。
それ以上にやっかいなのは、人種とジェンダーの問題です。PCの世界観は、マジョリティ(アメリカでは白人/男性/健常者など)を「加害者」、マイノリティ(黒人/女性/障がい者など)を「被害者」としてきました。この事件が、白人の司会者が黒人女性の障害をジョークのネタにしたり、妻を侮辱された(と思った)白人俳優が黒人のコメディアンを平手打ちにしたのなら、話はよりシンプルだったでしょう。ところが、関係者全員が(マイノリティである)黒人であることで、誰を批判し、誰を擁護していいのかわからなくなってしまったのです。
とはいえ、「黒人だから」という理由で扱いを変えるとしたら、それは「人種主義(レイシズム)」そのものです。アカデミー賞事務局の対応はまだ決まっていないようですが(その後、スミスが自主的に会員資格を辞退したのに加え、受賞式を含む会員向けイベントへの参加が10年間禁止された)、人種にかかわらず、今回の基準をこれから起きるすべての事例に平等に適用しなければなりません。
最後にもうひとつ。ウクライナではいまだに残酷な戦争が続いていますが、セレブリティのスキャンダルは、大衆の関心を一挙に変えてしまう効果があることもよくわかりました。
『週刊プレイボーイ』2022年4月11日発売号 禁・無断転載