「人類がコロナに打ち勝った証」であるはずの東京オリンピック・パラリンピックが、開幕前に大混乱に陥りました。
最初は音楽担当のアーティストで、学生時代のいじめ体験を語った25年以上前の雑誌インタビューが強い批判を浴びたことで辞任。次いで開幕式前日に、演出担当を務めてきた元お笑い芸人が、過去にホロコーストを揶揄するコントを題材にしたとして解任されました。いずれも今後、繰り返し語られ検証される事例でしょうが、ここではいくつか議論のポイントを押さえておきましょう。
前提として、世界は巨大な「リベラル化」の潮流のなかにあり、人種・民族・性別・身分・性的志向など「個人では変えられない属性」を理由にした差別は「決して許されない」ものになりました。ポリティカル・コレクトネス(PC/政治的正しさ)とは、こうしたリベラルな規範にのっとって発言・行動することです。
近年、欧米で大きな社会問題になっているキャンセルカルチャーは、PCに反する言動をした者を、公的な活動など社会的に影響力のある地位から「キャンセル」するネット上の大衆運動で、今回が日本ではじめての本格的な事例になりました。
「差別は許されない」のは当然として、過激化するキャンセルカルチャーには次のような疑問があります。
ひとつは、「過去の愚行は永遠に許されないのか?」というものです。小学校のときの加害行為まで掘り起こされるのなら、「無実」のひとはほとんどいなくなってしまいます。
これについては、「今回のケースはあまりに悪質で特別」との反論がありますが、その場合は、「許される愚行と許されない愚行は、誰がどのような基準で決めるのか」という問いに答える必要があります。
「被害者に誠意をもって謝罪し、和解しなければ許されたことにはならない」という意見もありますが、民事訴訟ですらこんなことは不可能で、けっきょくは金銭で解決しています。この「被害者中心主義」は、慰安婦問題などにおける隣国の主張とまったく同じだということも指摘しておきましょう。
ふたつめは、キャンセルの対象がきわめて恣意的なことです。批判を浴びるのはキャンセル可能な地位についた者だけで、まったく同じ言動をしていても、そのような立場を避けていれば過去は不問にふされます。ネット炎上が人格や人生を全否定する「私刑(リンチ)」に発展することもあるのだから、これはあまりに不公平に思えます。
だからといって、すべてのひとの「過去の傷」を掘り起こして批判するわけにはいきません。人間の認知能力にはきわめてきびしい制約があるので、いちどに何百人、何千人に怒りを抱くことはできないのです。
これが、3つめのより深刻な疑問につながります。キャンセルカルチャーとは、「正義の拳」を振り下ろす快感を安易に得るために、特定の有名人をさらし者する行為ではないのか、というのです。これに不快感をもつ「正義のひと」もいるでしょうが、すくなくともオバマ元大統領は、こうした理由でキャンセルカルチャーを批判しています。
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