工場が汚れた空気や水を排出し、それを浄化する費用を払わないことを経済学では「負の外部性」といいます。外部性はあるひと(企業)の行為が他者(社会)に影響を及ぼすことで、それがよいことだと「正」、悪いことなら「負」です。
公害が負の外部性の典型だとすると、正の外部性の好例がワクチン接種です。免疫をもつひとが増えれば細菌やウイルスは広がりませんから、ワクチンを打つことは自分が病気にならないだけでなく、社会全体を感染症から守ることになるのです。
ところが正の外部性は、フリーライダー(ただ乗り)というやっかいな問題を引き起こします。
ワクチンは副反応を起こすことがあり、ほとんどは発熱などで数日で快癒しますが、まれに重篤な症状を呈することがあります。ワクチンを接種するひとは、(きわめてわずかな)副反応のリスクを負って、社会に正の外部性を提供しているのです。
しかしそうなると、大多数がワクチン接種することで感染は収束するのですから、副反応のリスクを負わずに(ワクチンを接種せずに)正の外部性の利益だけを享受しようとするひとが出てくるかもしれません。これがフリーライダーで、経済学では、正の外部性があるところではつねに「ただ乗り」の誘惑が生じると考えます。
もちろん、少数のフリーライダーがいても、最終的に感染が収まって社会が正常化するのなら問題はありません。やっかいなのは、フリーライダーの数が増えてきたときです。
集団免疫を獲得するためには、人口の7割のワクチン接種が必要とされます。副反応が不安だとして半分が接種を控えたとすると、集団免疫はできずに感染が広まり、ロックダウンや緊急事態宣言で飲食店などが多大な損害を被ります。
こうした事態を避けるためワクチン接種は義務化されてきましたが、いまは強制が好まれなくなったため、ほとんどの国で新型コロナのワクチンは自由接種とされています。そうなると、別の方法でフリーライダー問題を解決しなくてはなりません。
ここで経済学が提案するのがインセンティブで、正の外部性を提供する者に報酬を与え、フリーライダーにペナルティを科します。
アメリカでは多くの自治体が「ワクチン宝くじ」を実施し、1億円を当てた当せん者も出ました。コンサートや大リーグなどの大規模イベントはワクチン接種証明がないと参加できず、これはワクチンを打たないひとへの一種のペナルティでしょう。
それに対して日本では、医療専門家が「すこしでも不安があれば無理して打つ必要はない」と述べ、人権派は「接種者に商品券を配るなどのインセンティブは(打たないひとへの)差別を助長する」と批判し、メディアは「ワクチンを打とう」という啓発活動すら尻込みしています。しかしこの論理は、ワクチン接種を忌避するひとが少数にとどまるときしか成り立ちません。
こうした「リベラル」な主張は耳ざわりがいいかもしれませんが、「不安だから打ちたくない」というひとが5割を超えるようになっても同じことがいえるのか、いちど考えてみるべきでしょう。
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