従業員の育成に大きなコストをかけている会社は、新入社員に長く働いてもらわないと元がとれません。このとき、女性社員が出産で退職する割合が有意に高いとしましょう。すると「社員教育に熱心な」この会社にとってもっとも合理的なのは、育児と仕事を両立できる制度を整えることではなく(さらにコストがかかる)、男の新入社員をたくさん採用することです(コストはゼロ)。
その結果、出産した女性が会社にいづらくなると、「やっぱり女はすぐに辞める」という予想が「自己実現」してしまいます。このような統計的な事実に基づいたステレオタイプを「統計的差別」といいます。
アメリカでは若い黒人男性が有罪判決を受ける割合が高く(その大半は麻薬売買などの軽犯罪)、失業率は全国平均の2倍に達しています。ところがそのアメリカには、採用にあたって求職者に犯罪歴を訊ねることを認めている州があります。
「あなたは有罪判決を受けたことがありますか」の質問で「はい」のボックスにチェックを入れると、当然のことながら、書類審査の合格率が大きく下がります。そこで23の州が、雇用機会の均等を保障し、黒人の雇用を増やすために、この質問を禁じました。これが「バン・ザ・ボックス法」です。
一見、よい案に思えますが、この「改革」にはどれほどの効果があるのでしょうか。それを確かめるために2人の研究者が、法律施行の直前と直後を利用して、ニューヨーク州とニュージャージー州の雇用主に1万5000件の架空の応募書類を送りました。
求職者の経歴はまったく同じで、有罪判決のボックスにだけランダムにチェックが入っています。そのうえで、白人と黒人に典型的なファーストネームを使い、人種的な要因で書類審査の合格率が変わるかを調べました。
法律施行前は、面接に進む割合は、白人の名前が黒人の名前より23%高いことがわかりました。雇用主は明らかに人種だけで応募者を選別しているのです。ただし、有罪判決の質問欄にチェックした応募者は、書類審査の合格率が62%低かったものの、白人と黒人のあいだに大きな差はありませんでした。
次いで「バン・ザ・ボックス法」が施行されるのを待って、研究者は同じ応募書類を送ってみました。すると驚いたことに、この改革によって、人種による格差が大幅に広がったのです。面接に進む割合は、白人の名前が黒人の名前より43%も高くなったのです。
なぜこんなことになるかは、雇用主の立場になって考えるとわかります。改革前は、書類を見れば有罪判決を受けたかどうかわかったので、黒人の応募者でも「犯罪歴がないなら面接してみようか」と思ったかもしれません。ところが「ボックス」が禁じられてしまうと、雇用主にわかるのは、「黒人の方が白人より有罪判決を受けている割合が高い」という統計的事実だけです。こうして、「黒人の応募者は避けた方が無難だな」ということになってしまうのです。
その結果、犯罪に手を染めていない黒人が「リベラル」な改革の最大の被害者になってしまいました。この理不尽な統計的差別を避けるには、応募者一人ひとりの犯罪歴が雇用者に伝わるようにした方がずっといいのです。
さて、あなたはこの事実(ファクト)をどう考えますか?
参考:Amanda Y. Agan and Sonja B. Starr(2016)Ban the Box, Criminal Records, and Statistical Discrimination: A Field Experiment, Quarterly Journal of Economics
アビジット・V・バナジー、エステル・デュフロ『絶望を希望に変える経済学 社会の重大問題をどう解決するか』日本経済新聞出版
『週刊プレイボーイ』2021年5月24日発売号 禁・無断転載