新型コロナの感染第二波が広がるなか、パリ近郊の公立中学校で歴史と地理を教えていた教師が刃物で首を切られて殺害されるという衝撃的な事件が起きました。
「表現の自由」を教える授業でムハンマドの風刺画を見せたことにムスリムの生徒の親が反発し、SNSに教師を批判するビデオを投稿、それを見たロシア・チェチェン共和国出身の18歳の男が犯行に及んだとされます(犯人は警官によって射殺)。
フランスは人権宣言によって人類史上はじめて表現の自由を掲げ、これを「建国の理念」としました。テロによってこの「普遍の権利」が侵されてはならないとして、多くの市民が街頭に出たのは当然です。
もちろん、これを「表現の自由」に名を借りた体のいいイスラーム批判だという見方もあるでしょう。実際、トルコをはじめとするイスラーム諸国では、マクロン政権によるモスク閉鎖や取締り強化に反発してフランス製品の不買運動が広がっています。
とはいえ、「イスラーム差別」の声がフランス国民に届くとは思えません。教師が授業に使ったムハンマドの風刺画は雑誌『シャルリー・エブド』のもので、2015年にテロの標的となり編集長など12人が殺害されています。このときも同様の反発がありましたが、この風刺雑誌はカトリック教会の性的虐待事件でペドフィリア(小児性犯罪者)のキリストを描いており、宗教にかかわらずあらゆる権威・権力を風刺しているのです。
この事件が提起したやっかいな問題は、じつは別のところにあります。それは、授業に反発して教師のキャンセル(解雇)を求めたムスリムの生徒や親の「権利」です。
リベラルな社会では、法律の範囲内で、すべてのひとに自らの尊厳を守るための最大限の権利が認められます。教師の意図にかかわらず、この授業によってムスリムとしてのアイデンティティを傷つけられたと感じたら、それについて抗議するのはどこから見ても「正当」なのです。
警察はビデオを投稿した保護者や、学校に抗議に訪れたイスラーム活動家を拘束していますが、これは国民の怒りを鎮めるためで、事件に直接の関係がないとわかれば釈放するほかないでしょう。彼らは人権宣言に定められた「普遍の権利」を行使しただけなのですから。
アイデンティティを貶めるような言動をした(とされる)者に「人種差別」や「性差別」のレッテルを貼って解雇・除名を求めることは、アメリカでは「キャンセルカルチャー」として社会問題になっています。#MeTooのような意義のある運動もあるとはいえ、気に入らない相手を社会的に葬る便利な方法としても使えるからです。
問題の本質は、すべてのひとの「尊厳」を守ろうとすると、対立するアイデンティティを調停できなくなることでしょう。ヨーロッパではこれが「近代市民(白人)vsイスラーム」の宗教問題になり、アメリカでは「白人vs黒人」の人種問題になります。
アイデンティティは「認められる」か「否定される」かの二者択一で、交渉の余地がありません。フランスではその後、刃物をもった男がニースの教会を襲撃、3人が死亡する事件が起きましたが、これらのテロはいまだ「紛争のはじまり」と考えるべきなのでしょう。
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