第89回 お肉券とアベノマスク(橘玲の世界は損得勘定)

新型コロナウイルス感染症対策本部の会合で、安倍首相が全国5000万超の全世帯に布マスクを2枚ずつ配布する方針を明らかにした。それ以前には、自民党農林部会で、需要が急減して苦境にある和牛生産者を支援するとして「お肉券」が提案され、インターネット上で「族議員の利権」などとの批判が沸騰、頓挫する騒ぎが起きた。

いずれの政策も国民から芳しい評価を得たとはいえないが、両者はじつは異なる問題だ。

国民国家の大原則は「無差別性」だ。これは「すべての国民を平等に扱う」ということでもある。当たり前だと思うかもしれないが、近代以前は貴族や武士の家に生まれただけで特別扱いされたのだから、これはとてつもなく大きな社会の変革だった。

「お肉券」はこの無差別性に反するからこそ、はげしい批判を浴びることになった。新型肺炎で売上が落ちた業種はほかにもたくさんあるのに、和牛の生産者だけを救済する正当な理由はどこにもない。

もっとも、本音をいえば農林族の議員たちも、これが無理筋だとわかっていたのではないか。それでも支持者へのアピールとして、「お肉券」を提案して火だるまになる姿を見せる必要があったのだろう(たぶん)。

それに対して「マスク2枚配布」は、全世帯が対象なのだから無差別性の原則をクリアしている。国民の多くが、マスクが手に入らないことに不満や不安を抱いていることも間違いない。

だったらなぜ評判が悪いかというと、「マスク2枚ではどうしようもない」からだろう。20枚配るなら、反応はまったくちがったのではないだろうか。

マスクの感染防止効果には諸説あるものの、この問題の本質は、膨大な需要に対して供給がわずかしかないことだ。需要と供給の法則によれば、このような場合は価格が上がって需要を抑制するが、ドラッグストアなどでは定価販売を続けているために、早朝から長蛇の列ができることになる。

マスクはきわめて稀少で、本来なら値段が高騰するはずだが、行列すれば格安で入手できる。そう考えれば買い占めは合理的な行動で、道徳に訴えてもなんの効果もない。一時は高額転売が元凶とされたが、それを違法にしても状況がまったく改善しないことで、買い占めているのが転売業者だけでなく「ヒマなひとたち」だということが明らかになった。

働いている、子育てや親の介護をしている、怪我や病気で家から出られないなど、早朝から何時間もドラッグストアに並べないひとはたくさんいる。マスクの定価販売は、そのような「ヒマのないひとたち」を最初から排除している。

だとすれば、重要なのはマスク2枚を配ることではなく、「ヒマなひと」だけが一方的に優遇される現状を変えることだとわかるだろう。メディアも政府を高みから批判するだけではなく、この「差別」と向き合い、市場原理の導入(マスクの値上げ)も含めてさまざまな方策を議論することが、いま求められているのだと思う。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.89『日経ヴェリタス』2020年4月18日号掲載
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