川崎市で51歳の無職の男が登校途中の小学生を襲った事件のあとに、元農水事務次官の父親が自宅で44歳の長男を刺殺しました。長男は中学の頃から家庭内暴力があり、いったんは自宅を出たもののうまくいかず、自ら「帰りたい」と電話して戻ってきたばかりだったとのことです。
事件当日は自宅に隣接する区立小学校で運動会が開かれており、「運動会の音がうるさい。ぶっ殺すぞ」などといったことから、「怒りの矛先が子どもに向いてはいけない」と殺害を決行したと父親は供述しているようです。
長男は、帰ってきた翌日に「俺の人生はなんなんだ」と叫びながら父親にはげしい暴力をふるったとされ、「(小学生を)ぶっ殺す」というのも、川崎の事件で動揺する両親への嫌がらせでしょう。親の世話にならなければ生きていけないにもかかわらず、「自分をみじめな境遇に追いやった」親を憎んでいるという、どこにも出口のない関係がうかがわれます。
内閣府の調査では日本全国に100万人以上のひきこもりがいるとされ、事件直後からひきこもりを支援するNPO団体などに高齢の親からの相談の電話が殺到しているようです。内閣府の調査はアンケート形式で正直にこたえているかどうかはわからず、実数ははるかに多いはずだと専門家は指摘しています。
しかし、このふたつの事件で衝撃を受けたのは、子どものひきこもりに悩む親だけではありません。
これまで子育ては、子どもをそこそこの大学に入れれば、あるいはそこそこの会社に就職させれば「終わり」と考えられてきました。しかしいずれのケースも、40代や50代になってから居場所を失った子どもが実家に戻ってきています。
すべての親にとって残酷な事実でしょうが、「子育てに終わりはない」のです。
1990年代後半の「就職氷河期」から20年が過ぎ、80歳の親が50歳の子どもを養う「8050問題」が現実のものになってきました。そのあとに来るのは「9060問題」ではなく、親がいなくなったあと自宅に取り残された60代のひきこもり問題です。
彼らの多くは無職か非正規の仕事しかしたことがなく、じゅうぶんな年金を受け取れないでしょうから、生活保護を申請する以外に生きる術がありません。しかしその頃には日本の高齢化率はピークに達しており、年金制度が破綻しないまでも保険料の負担は重くなり、受給額が減らされるのは避けられないでしょう。
そうなれば、社会の憎悪がどこに向かうかは考えるまでもありません。
ヨーロッパでは移民問題が深刻化し、北欧のようなリベラルな国でも移民排斥を求める「極右」政党が台頭しています。ひとびとの不満は、(働かない)移民が手厚い社会保障制度に「ただ乗り」していることにあります。
それに比べて日本は移民の受け入れに消極的で、保守派はこれによって社会の安定と治安が保たれてきたと主張しています。ここには一面の真実があるでしょうが、しかし私たちの気づかないところで、日本社会は「内なる移民問題」に蝕まれていたのです。
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