6月13日発売の新刊『朝日ぎらい』の「まえがき」を、出版社の許可を得て掲載します。
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「買って損した」と文句をいわれないように最初に断っておくと、本書は朝日新聞を批判したり擁護したりするものではない。私の関心は、インターネットを中心に急速に広がる“朝日ぎらい”という現象を原理的に分析してみることにある。「原理的」という意味は、「右」と「左」の善悪二元論の不毛な対立(罵詈雑言の醜い争い)から距離を置くということでもある。
もちろん“朝日ぎらい”には、過去(ないし現在)の朝日新聞の報道・論説に由来するものもあるにちがいない。そういう批判は巷に大量に出回っており、私はそのすべてを否定するつもりはないが、だからといって同じことをここで繰り返しても意味はない(ネットを検索すればいくらでも見つかるだろう)。文筆家の仕事は、他人がいわない主張を紹介し、言論空間にゆたかな多様性を生み出すことだと思うからだ。
本書のテーマは「リベラル化」と「アイデンティティ化」だ。
「リベラルが退潮して日本は右傾化した」と当たり前のようにいわれるが、私はこれには懐疑的だ。これから述べるように、世界でも日本でもひとびとの価値観は確実にリベラルになっている。リベラルが退潮しているように見えるのは、朝日新聞に代表される日本の「リベラリズム(戦後民主主義)」が、グローバルスタンダードのリベラリズムから脱落しつつあるからだ。
日本の「右傾化」の象徴として“ネトウヨ(ネット右翼)”が取り上げられるが、彼らのイデオロギーは保守=伝統主義とは関係がない。これも詳細は本文に譲るが、ネトウヨが守ろうとしているのは日本の伝統や文化ではなく、「日本人」という脆弱なアイデンティティで、「嫌韓」「反中」と結びつかない保守派の言論はどうでもいいのだ。
興味深いのは、「朝日ぎらい」が日本だけの現象ではないことだ。アイデンティティをめぐる衝突は欧米を中心に世界じゅうで起きており、その最大の戦場はトランプ大統領を生み出したアメリカと、移民問題で「極右」の台頭に揺れるヨーロッパで、いずれも「リベラルぎらい」の嵐が吹き荒れている。世界史的な視点に立てば、日本は欧米から半周遅れで同じ体験をしているということになるだろう。
民進党の分裂・消滅によって、日本では「リベラル」と「保守」の定義をめぐる喧喧囂囂の論争が起きている。本書で(おそらく)もっとも論議を呼ぶのは、「リベラル」と「保守」には遺伝的な基礎があるとの主張だろう。進化論的にいうならば、ひとはリベラル的ないしは保守的な生得的傾向をもって生まれてくる。そして知識社会化した現代では、リベラルに生まれたほうが社会的・経済的により成功しやすい。――にわかには信じがたいだろうが、私の他の著作と同じく、こうした主張には科学的な証拠(エビデンス)があることを示すつもりだ。
本書でデモクラシーを「民主主義」ではなく「民主政」としているのは、それが神政(テオクラシー/Theocracy)や貴族政(アリストクラシー/Aristocracy)と同じく政治制度のことで、Democracyを「民主主義(Democratism)」とするのは明らかな誤訳だからだ。リベラルデモクラシーは「自由民主主義」と訳されるが、正しくは「リベラルな民主政」で、「自由な市民による民主的な選挙によって国家(権力)を統制する政治の仕組み」のことだ。
これが些細な問題でないのは、デモクラシーを主義(イズム)にしてしまうと、リベラルデモクラシーという枠組みのなかで異なる「主義」が対立する政治論争の基本的な構図がわからなくなるからだ。その結果、政治思想(イズム)のひとつであるリベラリズムと、デモクラシーという政治制度が混同されてしまう。
民主的な選挙で選ばれた議員に対して、国会前で「民主主義を守れ」というデモが行なわれるのは日本でしか見られない奇観だ。現代の日本に蔓延する不毛な対立は、この単純な誤訳と、それを一向にただそうとしない(政治学者など)アカデミズム+マスメディアに大きな責任がある。
本書は「国難」を掲げた2017年10月の総選挙で小池百合子東京都知事の「希望の党」が惨敗し、“安倍一強”が盤石になってから執筆をはじめたが、朝日新聞のスクープによって森友学園への国有地売却をめぐる財務省の決裁文書が改ざんされていたことが明らかになり、この「まえがき」を書いている時点では、加計学園問題に財務省事務次官のセクハラ問題や防衛省、厚労省の不祥事なども加わって政権の基盤が大きく揺らいでいる。安倍晋三首相の悲願である憲法改正はもちろん、このままでは2018年9月に予定されている自民党総裁選での3選すら危うくなりそうだ。
だが安倍政権がどうなろうとも「安倍的」なものは生き残り、「朝日的」なリベラルをはげしく憎悪する構図は変わらないだろう。政治状況が大きく動くなかで本文をほとんど書き直す必要がなかったのは、ここで述べているのが「ヒトの本性」についてだからだ。
なお本書では、従軍慰安婦問題や南京事件などの「歴史問題」については詳しく扱わない。日中および日韓の歴史問題はナショナリズムの衝突という以上に、奴隷制や植民地主義などの近現代史の全面的な見直しという、いま世界のあらゆるところで勃発している「アイデンティティ闘争」の先行例だと考えているからだ。
そのことを論じるには、別に一冊の本が必要になるだろう。