〈ヤンチャな子ら〉はどのような人生を歩むのか?

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2019年4月公開の「日本社会は大卒か非大卒かによって分断されている」という”言ってはいけない事実”」記事です(一部改変)。

Hiroshi-Mori-Stock/Shutterstock

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SSM(社会階層と社会移動全国調査Social Stratification and Social Mobility)とSSP(階層と社会意識全国調査Stratification and Social Psychology)は、社会学者を中心に行なわれている日本でもっとも大規模で精度の高い社会調査だ。

その結果をまとめた吉川徹氏の『日本の分断 切り離される非大卒若者(レッグス)たち』(光文社新書)では、現代日本社会は学校歴ではなく学歴(大卒か非大卒か)によって分断されているとして、中卒・高校中退・高卒の「軽学歴」のひとたちをレッグス(LEGs: Lightly Educated Guys)と名づけた。衝撃的なのは、“ジモティー”や“ヤンキー”などと呼ばれ、マンガ、小説、テレビ・映画などで繰り返し描かれた彼らのポジティブ感情(≒幸福度)が際立って低いことだ。

参考:日本社会は学歴とモテ/非モテによって分断されている

吉川氏は次のように述べている。

若年ワーキングプア、正規・非正規格差、教育格差、勝ち組/負け組、上流/下流、子どもの貧困、さらには結婚できない若者、マイルドヤンキー、地方にこもる若者、地方消滅………次々に見出される現代日本の格差現象の正体は、じつはすべて「大卒学歴の所有/非所有」なのだ――。

これは日本社会において、これまで「言ってはいけない」とされていた事実(ファクト)だ。

非大卒の若者たちはなにを考えているのか

日本では高校進学率は98.8%とほぼ全入となったが、大学進学率は50%、短大を加えても58%で、10人のうち4人は「非大卒」だ。少子化によって偏差値の低い大学(俗にいう「Fラン」)は恒常的に定員割れを起こすようになり、入学金と授業料さえ払えれば誰でも「大学生」になれるようになった。それにもかかわらず大学進学率が頭打ちになることは「ガラスの天井」と呼ばれている。

民主党政権時代の高校無償化によって、1990年に12万3000人だった高校中退者は2015年には4万9263人へと5万人を切った。これは大きな成果だが、だからといって大学進学率が伸びたわけではない。もちろんそのなかには貧しさのために進学を断念するケースもあるだろうが、非大卒の若者たちの多くは無理をしてまで大学に行こうとは思わないのだ(大学無償化の議論はこの事実を無視している)。

そんなレッグスたちはなにを考えているのだろうか。それを知りたくて社会学者、知念渉氏の『〈ヤンチャな子ら〉のエスノグラフィー ヤンキーの生活世界を描き出す』(青弓社)を手に取った。

2014年に「マイルドヤンキー」が新語・流行語大賞にノミネートされ、「高卒無業者」「フリーター」「ニート」「貧困・生活不安定層」「ノンエリート青年」など日本型雇用システムの周辺や外部で生きる若者たちが注目されたにもかかわらず、彼らに関する実証的な調査研究はほとんど見当たらない。そのことに疑問を抱いた知念氏は、2009年9月から12年3月まで大阪府の公立底辺高校で参与観察を行なった。

調査を受け入れたのは、1970年代に全日制普通科高校として開校され、その後、普通科総合選択制に改編された高校で、生徒数600人程度(男女の割合はほぼ同数)、教員数は80人程度。「社会経済的に厳しい状況に置かれた人々が集住する地域」に立地し、町工場や大きな商店街がある一方で、日本でも有数の都市化が進んだ繁華街が隣接していて、そこには富裕層が多く居住している。ひとり親家庭率は50%以上、生活保護世帯比率は約30%、入学時の生徒数に対して卒業時の生徒数は3分の2になるのが現状だという。

調査のペースは09年度から10年度は週1回程度、11年度は月1回程度で、調査の日はたいてい朝から夕方まで高校に滞在し、授業や休み時間、放課後に生徒たちの様子を観察したり、生徒たちと会話をしたりした。また、職員室の一角に席を用意してもらい、時間があるときは、そこでメモを整理したり教員と話をしたりした。10年度は「学習サポーター」という役割を与えてもらい、1日2時間ほど授業をサポートしていたが、生徒からは基本的に「先生」ではなく「学生」として認識されていた。授業が行なわれている教室ではなく、彼らがよくたむろする校内の食堂前のベンチに座って遅刻してくる生徒の登校を待つこともあったという。

調査対象は09年当時1年生だった〈ヤンチャな子ら〉と呼ばれる男子生徒たちで、調査2年目から進級する者、1年生にとどまる者、中退する者などに分化していく。最初は休み時間や放課後に話しかけても、そっけない返事をされたり無視されたりすることが多かったが、〈ヤンチャな子ら〉のメンバーの何人かと話をするようになったことをきっかけに、最終的には14人と関係をきずくことができた。単年度の学校(学級)観察ではなく、中退者を含め、高校1年生から20代前半までを追跡したことが知念氏の調査の大きな特徴だ。

〈ヤンチャ〉〈ギャル〉〈インキャラ〉のスクールカースト

知念氏によると、この高校の生徒たちは大きく〈ヤンチャ〉〈ギャル〉〈インキャラ〉に類型化される。

〈ヤンチャ〉は教師に反抗したり、警察に補導されたりするような行動を繰り返す男子生徒たちで、かつての「不良」「ヤンキー」だが、教師は彼らを〈ヤンチャな子ら〉と呼ぶ。暴走族だった若者がよく「自分は若いときヤンチャしていて」と自己紹介するが、ここから取られたのだろう。

〈ギャル〉は化粧して髪を染めパーマをかけ、制服のスカートの丈を短くするなどの格好をした女性生徒たちで、かつてならは「不良少女」「レディース」などと呼ばれただろう。〈ヤンチャな子ら〉ほど積極的に教師に反発するわけではないものの、授業中に化粧をしたり友人同士でおしゃべりをして教師たちに注意されたりすることがしばしばある。〈ヤンチャ〉のメンバーと仲がよく、恋人関係にある者もいる。

〈インキャラ〉は現在は「インキャ」の方が一般的だが、「陰気なキャラクター」の略語で、日本の中学生・高校生に広く流布し、男子にも女子にも適用されるカテゴリーだ。授業中の態度は物静かだが、教師たちの話を真面目に聞いているわけではなく、携帯型ゲームをしたり小説を読んだりするなど彼ら彼女らなりに授業をやり過ごしている。休み時間や放課後には、男子の場合はテレビゲームやカードゲーム、女子の場合はおしゃべりなどに興じている。

知念氏の観察によると、底辺高校でも〈ヤンチャ〉と〈ギャル〉が生徒全体に占める割合は多めに見積もって30%から40%で、多数派ではなかった。

〈ヤンチャ〉〈ギャル〉と〈インキャラ〉のあいだには、はっきりとしたスクールカーストがある。〈ギャル〉は〈インキャラ〉の男子生徒を相手にしないし、〈ヤンチャ〉はいじめはしないまでも、〈インキャラ〉とかかわることや、その同類と見なされることを極端に嫌う。

コウジ(生徒名はすべて仮名)という〈ヤンチャ〉な生徒は、過去の非行経験を訊かれて「なんもない。おれは〈インキャラ〉やったから」と答える。あるいは、授業中にPSP(ソニーの携帯ゲーム機)で遊んでいた男子生徒を教師が注意したところ、ダイという〈ヤンチャ〉が「きもちわるいな、ホンマ、お前ら」と怒鳴りつけた(怒鳴られた生徒は無反応だった)。

ここから知念氏は、〈ヤンチャ〉とは「〈インキャラ〉ではない者」として定義されていると述べる。〈インキャラ〉は「キモい」生徒たちであり、〈ヤンチャ〉や〈ギャル〉は「キモくない」のだ。こうした生徒同士の関係は、高校のランクは異なるものの、朝井リョウ氏の『桐島、部活やめるってよ』(集英社文庫)で描かれたものによく似ている。

私が高校生の頃は(ずいぶん昔だが)、それぞれの学校に「番長グループ」があり、「不良」というのはそのグループに属している者のことをいった。それ以外の生徒が不良の真似をすると制裁の対象となり、グループに加わるか、不良をやめるかの選択を迫られた。「不良」には実質があり、誰が不良で誰がそうでないかを見誤ることはなかった。

現在は「個人化(液状化)」が進み、かつてのようなはっきりした「グループ(族)」は形成されなくなった。こうして〈不良〉の実質がなくなって〈ヤンキー〉になり、さらに空洞化が進んで〈マイルドヤンキー〉から〈ヤンチャな子ら〉になったのだろう。明確な標識をもたない彼らは、学校内で自分たちのアイデンティティを生み出すために〈インキャラ〉という参照軸を必要とするのだ。

親は「友だち」

「ヤンチャな子ら」とはどのような生徒たちなのだろうか。知念氏の調査で興味深いのは、彼らと父親との関係だ。

「ヤンチャな子ら」にはサーフィンやバイク、パチンコなどを趣味にしている者が多く、しばしば学校文化と対立する。髪を赤く染めボディピアスする「パンクス」や、バイクで学校に通学して停学になる生徒もいる。これは私の高校時代とさして変わらないが、驚くのは、彼らがそうした趣味をもつきっかけを親の影響だと語っていることだ。

たとえば、スノボやサーフィンを趣味とする中島という生徒は知念氏に次のように語る。

知念:(離婚して別居している)お父さんとも連絡とってるの?
中島:スノボ行ったり、サーフィン行ったりすんで。
知念:それはお母さんとか妹も一緒に?
中島:ちゃう。おれとオトンと、オトンの友達。オカンと妹は(お父さんとは)もう関わらんといて、って言うけど、そんなん関係ないしな。
知念:じゃあ、中島は一人でオトンとスノボ行ったり、サーフィン行ったりするんだ。
中島:そう。おれの好きなこと、全部オトンからやで。

次は、喫煙で停学になった坂田という〈ヤンチャ〉との会話だ。

知念:(坂田は喫煙で)停学なったときさ、お母さんとかなんか言ってた? 怒られた?
坂田:怒られはせーへんかったけど、注意はされた。
知念:なんて?
坂田:あんま学校で、ばれるとこで吸うなみたいな。

中島も喫煙について、母親から「自己責任やから知らんって言われただけ。あんたの命の量が減るだけや、って言われた」と語っている。

ここからわかるのは、親子が「友だち化」しているということだ。私は、ゆたかな社会ではひとは「成熟」する必要がなくなり、もっとも幸福だったとき(男は23歳、女は18歳)から精神年齢が変わらないのではないかと考えている。

〈ヤンチャな子ら〉の親たちも、むかしは〈ヤンチャ〉だった。子どもが高校生になれば、父親と息子/母親と娘の関係は親子より「友だち」に近くなる。自分たちも高校時代に喫煙していたとすれば、子どもに対しても「自己責任でやれ」「バレるところで吸うな」という注意になるのは当然だろう。

教師は「アニキ/アネキ」

〈ヤンチャな子ら〉の親子関係よりさらに驚いたのは、教師との関係だ。

次は、かろうじて2年に進級したスグルという〈ヤンチャ〉と山本先生との会話だ。

山本:あんた知らんで。(今年は)上がれてるけど、来年またしんどくなるで。3月しんどかったん、おぼえてないん?
スグル:おれ、上がれたの、サチコのおかげやな。サチコのおかげ。
山本:いや、それはちゃうって。
シュウ:いや、サチコのおかげやで。それはあんで。

ここに出てくる「サチコ」は、スグルの1年のときの担任だ。〈ヤンチャな子ら〉は、教師の前で他の教師を呼び捨てにするのだ、それも「親愛の情」を込めて。これは、私の世代からはとうてい考えられない。

知念氏によればこれは特殊な事例ではなく、芸能人のケイン・コスギに似ていることを理由に「ケイン」、コアラに似ていることから「コアラ」、あるいは「〇〇ちゃん」とちゃん付けで呼ぶなど、彼らは面と向かって教師をあだ名で呼ぶか、呼び捨てにしている。さらに驚くのは、教師がこうした態度を容認するばかりか、それを利用していることだ。たとえば「コアラ」のあだ名をつけられた教師は、教室に張り紙をする際、コアラの絵や写真がプリントされたものを使っていた。

知念氏は、〈ヤンチャな子ら〉は「教師に対してきわめて好意的な思いを抱いていた」と述べる。「この先生いいなと思う人はいる?」と尋ねると、彼らは一様に「いろいろ、全員」「嫌いな先生、べつにおらん」と答えるのだ。

次は、学校に通わなくなって半年たったコウジとの会話だ。

知念:世話になった感じはあるんだ。阿部先生とかには。
コウジ:アベちゃんがいちばんやな。アベちゃん仲いいし、いつでも。
知念:あの子は、絶対辞めさせないって、ずっと言ってたよ。おれにも。
コウジ:やろうな。(電話)連絡めっちゃきとったけど、無視しとったもん。
知念:それ、とったら……。
コウジ:とったら絶対言われるもん。だからもう、あともうちょっとしたら謝りにいこうと思うもん(後略)。

コウジは生活保護を受けて母親と二人暮らしをしていたが、二度目の1年生の2学期から母親の精神病が悪化し、家で母親から罵声を浴びせられるため友だちの家を転々とせざるを得なくなり、学校に通えなくなってしまった。安倍先生はコウジに学業を続けさせようと親身になっていたのだ。

コウジはけっきょく高校を中退することになるが、この会話からわかるように、それは教師に反抗したり、学校という「体制」を拒絶したからではない。知念氏の調査を受け入れる度量(自信)のある学校だということはあるだろうが、〈ヤンチャな子ら〉は学校や教師にきわめて肯定的な感情をもっており、中退したあとも教師との交流(鑑別所に差し入れをもって会いにきてくれたことなど)がなつかしい思い出として語られる。

親子だけでなく、底辺高校では教師と生徒も「友だち化」している。逆にいえば、教師は生徒に対して「権力者」として振る舞うことができなくなり、「アニキ」や「アネキ」、あるいは面倒見のいい「おじさん」「おばさん」として関係をつくろうとしているのだろう。

〈ヤンチャな子ら〉の人生を分けるものは?

知念氏がエスノグラフィーの対象とした14人の〈ヤンチャな子ら〉のうち7人が中退、3人が3年で卒業、3人が4年で卒業、1人は高校2年で中退したのち通信制高校を卒業している。大学に進んだのは1人だけで、他は高卒・高校中退の「軽学歴」となる。

このうち2014年(21歳)時点で連絡がつく者が9人、そのうち工場や訪問介護、イベント系の会社など「見通しをもてる仕事」をしている者が6人、パチンコ屋や(本人いわく)グレーな仕事など「見通しをもてない仕事」をしている者が3人で、残りの5人は学校時代の仲間との交流も途絶えている。

高校1年で中退してそのまま「不明」になったり、1年ほど現場仕事や居酒屋、キャッチの仕事をして「不明」になったケースが多いが、14人のなかでただ1人進学した〈ヤンチャ〉も大学を中退し、そのまま「不明」になった(理由はわからない)。

高卒・高校中退後の彼らの職業生活を分けるのは「社会的ネットワーク」だ。

カズヤは高校2年で留年し、当時の恋人が妊娠したことをきっかけに中退したが、ハローワークで仕事を探しているときに「地元のツレのオカン」から工場を紹介され、給料に不満はありつつも長く働くつもりでいる。現在は結婚し、家族旅行の様子をSNSにアップしたりしているという。

中島は4年かけて高校を卒業したのち、弁当の配達のアルバイトをしていたときに彼女が妊娠し、「幼なじみ。小学校から、ずっと仲ええ感じの」友人の紹介でエレベーター補修会社の正社員になった。そこは通常は特殊な免許をもっている工業科の卒業生しか採用しないが、その友人が「仕事できるし、仲ええし部長と」というコネを使って特別に採用された。給料もよく、ボーナスもあり、無事に子どもも生まれて親になった。

それに対して、母子家庭で生活保護を受給し、母親が精神病だったコウジは、高校中退後、「将来、居酒屋を経営する」という夢を抱いて現場仕事と居酒屋を兼業して寝る間もないほど働くが、1年ほどして「夜の仕事」をしている、「好きな子がおる」と語ってから誰とも連絡がとれなくなった。

小学校低学年で両親が離婚し、生活保護を受けて母親と暮らしていたダイは、高校3年の就活で住み込みの会社に採用されたものの2カ月ほどで辞め、たまに家に来る父親のツテで現場仕事に就くものの続かず、「飲み屋で知り合った」男の紹介で合法・違法のあいまいな「グレー」な仕事に携わるようになった。

こうした事例から知念氏は、大卒/非大卒の分断だけでなく、非大卒(高卒・高校中退)の若者たちのなかにも「社会的亀裂」があることを指摘する。

この亀裂の一方の側には、「ちっちゃい頃からの友達」「幼なじみ」「地元の子」という言葉が頻出する〈ヤンチャ〉がいる。彼らは親が地元出身で、幼い頃からずっと地元で暮らしており、仕事探しや、場合によっては住まいを探す際にも「地元ネットワーク」を使って大人になっていく。

亀裂のもう一方の側には、家庭が不安定で小さい頃から住まいを転々とし、たまたまこの地域の高校に来た〈ヤンチャ〉がいる。彼らは「地元」とほとんどつながりがなく、中学の頃にいじめられた経験があり、その後の同級生との関係も不安定なものだった。そのため、たまたま飲んで意気投合した居酒屋の店長の下で働くというような「即興的なネットワーク」に頼らざるを得なくなる。これは「レッグス」たちのあいだの社会資本(家族や知り合いのネットワーク)の重要性を示しているだろう。

これ以外にも、知念氏の6年間にわたる調査によって、〈ヤンチャな子ら〉がどのように人生を構築しようとしているのかが見えてくる。わたしたちの社会の実相を知るためにも一読を勧めたい。

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