ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。
今回は2020年1月2日公開の「「ネットによって社会の分断が起きた」のでなく 「ネットメディアを使う人に政治的に過激な人が増えた」です(一部改変)。なお、執筆から4年たった現在では、多少状況が変わっている可能性があります。
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さまざまな世論調査で、安倍政権への支持率は20代、30代の若者世代で際立って高い(より正確にいうなら「男性の若者」で、若い女性の安倍政権への支持率は高齢者世代に比べて高いわけではない)。ここからリベラルなメディアや知識人は、「若者が右傾化している」と警鐘を鳴らしてきた。
私はずっと、この類の「若者右傾化論」に疑問を感じてきた。同様にさまざまな世論調査で、夫婦別姓や同性婚など「リベラル」な政策への支持は、高齢者世代よりも若者世代の方が際立って高いことが示されているからだ。
これは嫌韓・反中でも同じで、朝日新聞の世論調査(2019年9月17日)では「韓国を嫌い」と答えたのが60代の36%、70歳以上では41%だったのに対し18~29歳では13%しかおらず、逆に「韓国が好き」は、60代の10%、70歳以上の7%に対して18~29歳は23%と2~3倍も多かった。これは、毎月のように嫌韓・嫌リベラルの記事を掲載する「保守雑誌」や、ベストセラーになった嫌韓本の読者が高齢層に偏っているというデータとも整合的だ。
ここからわかるのは、日本でも世界と同じように若者が「リベラル化」しているという事実だ。だとしたらなぜ、政党では自民党を支持するのだろうか。
その理由はシンプルで、若者たちは自民党を「リベラル」、共産党を「保守」に分類しているのだ(詳しくは拙著『朝日ぎらい よりよい世界のためのリベラル進化論』〈朝日新書〉で論じたので、興味があれば読んでほしい)。
田中辰雄・浜屋敏『ネットは社会を分断しない』(角川新書)を興味深く読んだのは、同じように、誰もが当たり前に論じている前提に根拠がないことを暴いたからだ。
「ネットによって社会の分断が起きた」はほんとうか?
1990年代のインターネット創成期には、「ネットが社会をよくする」というユーフォリアが溢れていた。だがそれから四半世紀を経た現在、かつての希望は絶望にとって代わられた。ひとびとに大きな衝撃を与えたのは、(いうまでもなく)2016年のブレグジット(イギリスのEUからの離脱)と、米大統領選で稀代の“ポピュリスト”であるドナルド・トランプが当選したことだ。
この頃から、「先進国では社会の分断と二極化が進んでいる」との認識が当然の前提とされるようになった。このことはデータでも確かめられていて、アメリカの支持政党別の意見分布を見ると、1994年と2004年は共和党支持者と民主党支持者の意見はどちらも中央付近に集まっていたが、2014年には保守とリベラルに二極化していることがはっきりと確認できる。――2016年の“トランプ旋風”がアメリカ社会を分断したのではなく、それ以前に社会が分断されていた結果としてトランプが大統領になったのだ。
2004年からのわずか10年間でこれほど大きな変化を起こしたのは何だろう。誰もが真っ先に思い浮かべるのは「ネット」にちがいない。2000年代はじめはようやくブログが始まったばかりで、FacebookやTwitterのようなSNSも、スマートフォンの常時接続もなかったのだ。
分断のネット原因説は、「エコーチェンバー」と「フィルターバブル」で説明される。
エコーチェンバー(残響部屋)に入ると自分の声が異常に大きく聞こえる。それと同じように、SNSで自分と同じ意見のメンバーだけをフォローすると、互いの声が反響して、世界には自分たちと同じ意見しかないような錯覚が生じる。
Googleなどプラットフォーマーは、デジタルマーケティング戦略として、ユーザーの趣味嗜好にもっとも適した検索結果を表示するようにアルゴリズムを調整している。こうした「行動マーケティング」や「協調フィルタリング」によって、偏りのない立場でネットを使っていると思っていても、検索結果はネット上でのユーザーの行動に合わせた偏ったものになる。これがフィルターバブルで、ユーザーは知らないうちにバブル(気泡)に閉じ込められたような状態になってしまうのだ。
エコーチェンバーやフィルターバブルが需要(ユーザー)側の行動(選択的接触)だとすれば、供給側では「パーソナルメディア化」が進行している。これは大手新聞社の記事と個人のブログ、テレビ番組とYouTubeの動画が等価に扱われることだ。いまやネットメディアは右から左まで無限に増殖し、ユーザーは自分の好きな政治的意見を選択することができる。
「誰もが自由に情報発信し、世界中がそれにアクセスできる」というネットの特徴が、メディアの需要側と供給側に巨大な変化を引き起こし、それに引きずられるように社会全体が分断された。――この“通説”にはかなりの説得力がある。
ネットメディアを使わない中高年が過激化している
田中・浜屋両氏は本書で、10万人規模のアンケート調査に基づいてこの“通説”を覆していく。そのロジックは本を読んでいただくとして、ここでは結論だけをかんたんにまとめておこう。
ネットが社会を分断しているのなら、二極化は若者層ほど顕著になるはずだ。デジタルネイティブの若者たちほどネットを利用する頻度は高く、高齢者になるほどネットへのアクセスは減り、テレビや新聞・雑誌などの「オールドメディア」と接触する頻度は上がるだろうから、この前提は妥当なものだ。
だったら、年齢別に二極化の程度を調べてみれば、ネット分断原因説が正しいかどうか検証できる。これが本書の基本的なアイデアだ。
その結果、著者たちが発見したのは「中高年ほど政治的に過激な人が多く、分極化している」という予想外の事実だ。そのちがいはきわめて大きく、20代の若者と70代の高齢者のあいだには、政治的過激度の点で男女の平均的な差と同じ程度の差があるという。
だが冷静に考えてみると、これはそれほど驚くことではない。先に保守雑誌や嫌韓・反中本の読者が高齢層に偏っていることを指摘したが、官邸前で「民主主義を守れ」とデモをしたひとたちも、数少ない大学生グループを前に押し立てていたものの、その大半は団塊の世代(全共闘世代)と思しき高齢者だった。
じつはアメリカでも、同様の指摘がなされている。1996年から2012年まで4年間隔で世論調査の分極度を調べた研究では、18歳から39歳の若者層の分極度の平均は高齢者世代よりも低いばかりか、分極化の進行度合いもゆるやかで、2004年以降はむしろ下がっている。それに対して65~74歳と75歳以上の高齢者世代は、1996年には若者世代より分極化していなかったにもかかわらず、その後は政治的に過激化し、2012年には若者たちより分極化するようになった。この論文の著者たちは、アメリカ社会の分断の原因は「(高齢者世代の既得権を脅かす)資産格差や反グローバル化、移民問題」などほかのところに求めるべきだと述べている。
日本でもアメリカでも、高齢者世代が政治的に過激化する一方で、若者が分極化していないとするならば、社会の分断をネットのせいにするのは論理的ではない。こうして著者たちは、「ネットメディアを利用した結果として分極化するのではなく、先に分極化した人がおり、彼らが好んでネットメディアを利用しているのではないか」と考えるようになる。
これは、従来の“通説”の因果関係を逆転させたものだ。すなわち、「元々政治的に強い主張を持つ過激な人は一定数、世の中に存在しており、彼らは世の中に言いたいことがあるからネットメディアも積極的に使おうとする」⇒「その結果、ネットメディアを使う人に政治的に過激な人が増えた」⇒「これを外側から見ると、ネットが社会を分断させているように感じられる」という因果関係になる。
もうひとつ興味深いのは、ネットメディアを使うと分断化が進むのではなく、逆に穏健化していることだ。より詳細に分析すると、①20代~30代がブログを使いはじめたとき、②女性がブログを使いはじめたとき、③もともと穏健だったひとがTwitterを使いはじめたときに穏健化が統計的に有意で、逆にもともと政治的に過激だったひとがTwitterを使いはじめるとさらに過激化する傾向が見られた。ちなみにこれも、アメリカの研究で同様の結果が示されているという。
なぜこのようなことが起きるのか。著者たちは、ネットメディアを使うと、結果として右から左までさまざまな意見を読むようになる(クロス接触率が上がる)からではないかと述べている。自分と正反対の主張を目にして、批判するつもりで読んだら予想外に説得力があったというのは、誰でも経験したことがあるだろう。こんなことが起きるのは、ネットではリンクをたどって多様な言論にアクセスすることが可能だからだ。
一方、選択肢が少なく、かつコストの高いオールドメディアではクロス接触は起こりにくい。朝日新聞/産経新聞の読者は、多様な言論に触れるためにわざわざ購読料を払って両方の紙面を比較しようとは思わないだろう。
こうしたデータを積み上げながら、著者たちは「ネットの特性として声高な人の主張が非常に目立ち、一部の現象が全体の現象であるかのように大きく見えてくる」ことがネット分断原因説の背景にあり、その錯覚を修正すれば「ネット草創期の人々の期待はまだ死んでいない」と結論している。
SNSが炎上するのは参加者が対等に発言できるから
田中辰雄氏は本書以前に、山口真一氏との共著『ネット炎上の研究 誰があおり、どう対処するのか』(勁草書房)で「炎上」を論じている。それによると、炎上はインターネットユーザーの約0.5%程度の「過激なひとたち」が起こしているとされる。
だとしたら、この過激な少数者を法(国家権力)によって排除すればいいのではないか。だが著者たちは、これには批判的だ。民主的な社会は思想・信条の自由を最大限保証することで成り立っており、常識や良識に反する思想を持つことも、それを発言することも「表現の自由」であるべきだからだ。
法的規制は、何を許可し、何を違法とするかの定義の問題を避けることができない。ある表現を「差別語」として禁止したら、別のよく似た言葉が使われはじめるというのはよくあることだが、そうなると違法の範囲はとめどもなく広がってしまう。
韓国で一時期行なわれた実名登録制の導入も、「ITリテラシーの高い攻撃者が海外サーバーを利用するなどして回避したため、情報発信(ネットやSNSでの発言)が委縮しただけで、誹謗中傷はわずかしか減らなかった。その結果、導入5年で事実上放棄されることになった」という。
著者たちは、炎上が起きるのはインターネットに問題があるのではなく、「誰もが強制的に直接対話を強いることができ、それを止めさせる方法がない」というSNSの構造が特異だからだという。経済学の用語を使えば、「言論の自由競争市場でのフリーライド問題と負の外部効果の問題」を解決できていない、ということになる。
Twitterにコメントを残せばフォロワーの多くがそれを読むことになる。ブログのコメント欄も同じで、攻撃者はこの仕組みを利用して誹謗中傷を大量投稿する。これが「炎上」だが、考えてみれば、このようなコミュニケーションのかたちは実社会ではきわめて異例だ。講演会やセミナーで、演壇にいる発言者と会場の聴衆が同じ立場で議論しはじめたら大混乱に陥るだろう。
「デフォルトで誰もが最強の情報発信力を持っている」という設計になったのは、インターネットがもともと学術用のネットワークとして始まったからだ。アカデミズムでは研究者同士は対等であるのが当然だし、狭い世界のことなので発言主が誰なのかは参加者全員にわかっていた。このような特殊な条件でのみ成立するネットワークを、不特定多数に拡大したことで、炎上のようなトラブルが起きたのだとされる。
ではどうすればいいのか。著者たちが提案するのは、誰もが発言を読むことができるが、発言者は特定の者に制限される「サロン型SNS」だ。こうした仕組みが果たしてうまくいくのか、興味のある方は原著をあたってほしい。
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