ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。
今回は2021年9月23日公開の「ヒトの本性は利己的(悪)なのか、利他的(善)なのか?」です(一部改変)。
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オランダの歴史家、ジャーナリストのルトガー・ブレグマンは、広告収入にいっさい頼らないジャーナリストのプラットフォーム「デ・コレスポンデント」の創立にかかわり、2018年の著書”Utopia for Realists(現実主義者のためのユートピア)“で高い評価を得た。邦題は『隷属なき道 AIとの競争に勝つベーシックインカムと一日三時間労働』(野中香方子訳/ 文藝春秋)で、「機械との競争」による大量失業を避けるには、すべてのひとに無条件で生存と文化的な生活を保障する現金給付(ユニバーサル・ベーシックインカム)を行なうしかないと説いている。
そのブレグマンは新著『Humankind 希望の歴史』( 野中香方子訳/文藝春秋)で、進化生物学、進化心理学、社会心理学など「現代の進化論」を向こうに回してきわめて論争的な主張を展開している。その主張を簡潔に述べるならば、「ヒトの本性は利己的(悪)ではなく利他的(善)である」になるだろう。
イースター島の文明はなぜ崩壊したのか
ブレグマンは本書で、リチャード・ドーキンス、スティーブン・ピンカー、ジャレド・ダイアモンドなどの大物や、スタンフォード監獄実験(フィリップ・ジンバルドー)、スタンリー・ミルグラムの服従実験など、人間性の暗い部分を暴いたとされる有名な社会心理学の実験を俎上に挙げて、それらがいかに間違っているかを論じている。
ウィリアム・ゴールディングは『蠅の王』で、南太平洋の無人島に置き去りにされた少年たちが「内面の獣性」に目覚めていく様子を描いてノーベル文学賞を受賞した。だがブレグマンは、1966年に南太平洋のトンガにある寄宿舎を抜け出して釣り船で漂流し、無人島に漂着した6人のイギリス人の少年たちが救出された記事を見つけ出した。そして、オーストラリアでかつての少年の1人(および彼らを救出した船の船長)にインタビューし、少年たちが1年以上にわたって互いに助け合って無人島で生き延びた話を聞いた。
ここからブレグマンは、人間の本性はゴールディングが描いたような利己的で暴力的なものではなく、危機に際してはお互いに協力する利他的で協調的なものではないかと考え、それを検証しようとした。
たとえば、ジャレド・ダイアモンドはベストセラーとなった『文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの』( 楡井浩一訳/ 草思社文庫)のなかで、巨石文明で有名なイースター島を取り上げ、その崩壊を「孤立した地球」のメタファーだと述べた。イースター島の住民たちはモアイという巨石像を競って建てたが、そのサイズが大きくなることでより多くの労働力、食料、木材が必要になり、その結果、森林破壊で農業が壊滅して島民は飢餓に襲われ、部族対立が激化して人肉食が拡がったのだという。
だがその後、1722年にイースター島を発見した探検家ヤーコブ・ロッヘフェーンの航海日誌を研究者があらためて読み直すと、そこにはおぞましい殺戮の様子などまったくなく、この島の土壌は「肥沃」で、住民は「筋肉質の体と輝く白い歯を持つ、友好的で、見るからに健康的な人々」で、そこは「地上の楽園」だと書かれていたのだ。
ダイアモンドによれば、イースター島にはかつて1万5000人の島民がおり、それが長耳族と短耳族に分かれて争った結果、大虐殺によって2000人あまりに人口が減ったとされる。だが考古学者らが調べたところ、虐殺の現場とされる場所は木炭の年代が伝承と合わず、遺骨には飢餓の形跡も戦争での損傷もなかった。
こうした再検証によれば、イースター島の人口はもともと2000人程度で大虐殺などはなく、森林破壊の原因は、最初の移民とともにやってきて、天敵がいないことで繁殖したナンヨウネズミが木々の種を食べたことらしい。もちろん島民がカヌーをつくったり、巨石像を運ぶのに材木を必要としたが、イースターにあったとされる数百万本(最大で1600万本)の木をすべて使い尽くすことはできない。そのうえ、樹木がなくなったことで農地が拡張し、逆に食料生産が増えたと考える研究者もいる。
ではなぜ、イースター島の文明は崩壊したのか。それは、奴隷商人とウイルス、すなわちヨーロッパ人によって破滅させられたのだ。
ジャレド・ダイアモンドはいまも現役だから、いずれ自ら反論を行なうのだろうが、イースター島の文明崩壊の経緯についてはブレグマンの批判にかなりの説得力がある。
「未来はどんどんよくなっていく」という不都合な事実
進化心理学者のスティーブン・ピンカーは「現代でもっとも影響力のある知識人の一人」で、『暴力の人類史』( 幾島幸子、塩原通緒訳/青土社)や『21世紀の啓蒙 理性、科学、ヒューマニズム、進歩』( 橘明美、坂田雪子訳/草思社)で、人類の歴史ととともに、平均寿命から幸福度にいたるまであらゆる指標が改善し、未来はどんどんよくなっていくという「合理的な楽観主義」を唱えた。
実際、産業革命後のさまざまなデータを見るかぎり、世界がより安全でゆたかになっていることは間違いない(日本でも世界でも殺人率は急速に減っている)。だったらなにも問題ないのではないかと思えるが、ここにはブレグマンのような「レフト(左派)」とのあいだに深刻な思想的対立がある。
ピンカーは、遺跡で見つかった骨の損傷や、いまも狩猟採集生活を続ける8つの部族の調査などから、旧石器時代には戦争(部族抗争)による死亡率ははるかに高く、文明化によって暴力は着実に減ったと主張した。
これをブレグマン流に解釈すれば、人間の本性はもともと「悪」で、それが文明によって「善」に変わったことになる。ところがブレグマンは、人間の本性は本来「善」で、現代社会(強欲な資本主義)がそれを「悪」に歪めたことでさまざまな社会問題が起きたと主張するのだから、これはものすごく都合が悪いのだ。
実際、文化人類学者などが『暴力の人類史』を検証し、すでにいくつかの(かなり重要な)批判を加えている。
ひとつは、ピンカーが「国家以前」の社会としたもののなかに、狩猟採集民だけでなく、園耕社会も加えられていたこと。園耕民はたしかに「国家」を形成していなかったが、集落をつくって定住し、家畜を所有し庭で農作物の栽培を行なっていた。
もうひとつは人類学者のダグラス・フライが指摘したもので、ピンカーが戦争による死亡としたパラグアイとベネズエラ/コロンビアの先住民族の死因のなかに、開拓者の侵略によって虐殺された者が多数含まれていたこと。これはもちろん、狩猟採集民の「暴力性」を示す証拠にはならない。
この論争が重要なのは、左派の理想主義者(ブレグマンもその一人だ)のなかに、「狩猟採集民は平等で平和な「理想社会」をつくっていて、それが農耕の開始によって破壊され、人類は不幸になった」という歴史観が広まっているからだ。
現在の狩猟採集民は数万年前の旧石器時代人と、遺伝的にも暮らしている環境も大きく異なるし、化石をどれほど研究しても当時の生活を再現することはできない。だからこそ、双方が自分に都合のいい「人類の祖先」像を描くことができるともいえる。
ブレグマンは触れていないが、この論争については人類学者のラウル・オーカが、統計的手法で人類史上の戦闘での死を分析し、「過去と現在で戦闘による死者の割合に変化はない」という結論に達している。
オーカの指摘は、「現代に至るまでに地球上の人口は着実に増えているが、軍事行動に従事する者の割合は人口増加に比例するわけではない」という、ある種の「コロンブスの卵」だ。旧石器時代の100人のバンド(小集団)では成人男性のほぼ全員(25人以上)が戦闘員になっただろうが、人口100万の社会に25万人の兵士が、1億人の近代国家に2500万人の軍人がいるわけではない(そもそもこのような巨大な軍隊を維持できない)。
その結果、社会が大きくなるほど、ごく自然に戦争による死亡者の割合は減少する。「相互依存性の増加や平和の便益」などを持ち出さなくても、世界が平和になってきたのは単純なスケーリング効果(人口の指数関数的な増加)で説明できるのだ(アダム・ハート『目的に合わない進化 進化と心身のミスマッチはなぜ起きる』柴田譲治訳/原書房)
「スタンフォード監獄実験」はやらせなのか
ブレグマンは、本来は「善」であるはずの人間の本性が「悪」へと歪曲された事例として、「社会心理学の実験の金字塔」とされる、スタンリー・ミルグラムの服従実験と、フィリップ・ジンバルドーのスタンフォード監獄実験を俎上に挙げている。とりわけ後者は、近年の「再現性の危機(定説となった心理実験のなかに、厳密な方法では再現できないものがある)」の象徴として繰り返し批判されている。
1971年に行なわれた「監獄実験」では、スタンフォード大学の地下実験室を刑務所に改造し、そこで学生を「看守役」と「囚人役」に割り振ったところ、わずか数日で看守役がきわめて暴力的になり、錯乱する囚人役も出たため実験を中止せざるを得なくなった。実験の詳細はジンバルドー自身が『ルシファー・エフェクト ふつうの人が悪魔に変わるとき』( 鬼澤忍、中山宥訳/ 海と月社)という大部の著作にまとめ、ドイツ映画『es[エス]』、それをリメイクした『エクスペリメント』、ジンバルドーを主人公にした『プリズン・エクスペリメント』など映画化もされたことで世界的に有名になった。
ところがその後、実験者が看守役に対してもっと荒々しくふるまうよう指示している録音テープが公開されたり、当時の参加者が「看守役は退屈で毎日ぶらぶら歩きまわっていた」「実験に協力するために、映画『暴力脱獄』を思い出して囚人たちを苦しめる演技をした」などの証言していることがわかった。2002年にBBCと共同で行なわれた実験でも、「(ふつうのひとが“悪魔”に変わる)ルシファー・エフェクト」は再現できなかった。
こうした批判を根拠に、ブレグマンはスタンフォード監獄実験は「捏造」だときびしく批判し、ジンバルドーが看守役に徹し、囚人をどのように扱うか指導しているのを読んで「愕然とした」という。
我々は欲求不満を生み出すことができる。彼らの恐怖心を生み出すこともできる。……さまざまな方法で彼らの個人としての人格を奪うつもりだ。彼らは制服を着せられ、けっして名前では呼ばれない。数字を与えられ、その数字で呼ばれるのだ。一般的に、こうしたことのすべては、彼らの無力感を生じさせるはずだ。
これがなぜ問題かというと、「れっきとした科学者が、自分が看守に教え込んだと、公然と述べている」からだ。「囚人を数字で呼ぶ、サングラスをかける、サディスティックなゲームをさせるといった設定は、看守たちが考案したのではなかった。彼らはそうするように命じられていたのだ」。
だがそもそも、看守の制服を着て、地下室につくられた刑務所らしきところに連れていかれだけで、ふつうの大学生がいきなり本物の看守に豹変するわけがない。それに加えて、囚人役も自分と同じ年齢の大学生なのだから、この条件では看守役と囚人役がなれ合って仲良くなるのは当たり前だ。
だからこそジンバルドーらは、看守役にいかに振る舞うべきかの圧力を加えなくてはならなかった。たんに軍服を着せて軍隊に入れただけで、一般市民が戦場で敵兵に発砲するようになるわけではないのと同様に、刑務所も新人刑務官にかなりきびしい教育・訓練・同調圧力を加えている。それを考えれば、ジンバルドーが被験者に指導を行なったのは「不正」ではなく、実験の前提条件ではないだろうか。
BBCの再現実験ではこうした新人教育は行われず、被験者は看守役も囚人役も、「最初から最後まで、のんきに座ってタバコを吸い、雑談する男たちの姿を映しただけだった」。これはたしかにそのとおりだろうが、これだけでは、米軍が運営するグアンタナモ収容所でなぜ「ふつうの兵士」がルシファーに変貌し、数々の虐待を行なったのかを説明できないだろう。
註:スタンフォード監獄実験についてはその後、地元紙に掲載された「監獄生活の心理学研究のため」という募集広告に応募した男子学生は、一般的な男子学生の母集団とは異なり、攻撃性が高く共感性が低かったとの指摘がなされた(ブライアン・クラース『なぜ悪人が上に立つのか 人間社会の不都合な権力構造』 柴田裕之訳/東洋経済新報社)
人間の本性が「善」なら、なぜホロコーストが起きたのか?
人間の本性が「善」だという主張の弱点は、「だったらなぜホロコーストのようなことが起きるのか?」という疑問に答えられないことだ。ブレグマンはこの隘路はどのように抜けるのだろうか。
1961年、弱冠28歳の心理学者スタンリー・ミルグラムは、広告で募集した「ふつうのひとたち」が研究者の指示によって、回答を間違えた生徒役(サクラ)に450ボルトという感電死のおそれがある電気ショックを加えることを示して一躍有名になった。当時はエルサレムで、ナチスの戦犯アドルフ・アイヒマンの裁判が行なわれており、著名な政治学者のハンナ・アーレントが彼を「悪の陳腐さ」と評してはげしい論争を巻き起こしていた。ミルグラムの実験は、凡庸な人間がなぜ悪魔のような所業を行なうのかの理由を明らかにしたとされたのだ。
この有名な実験についても、現在の厳密な基準で同じ結果が再現できるのか(被験者は誘導されていたのではないか)との批判があるが、ヒトには強い同調性があるだけでなく、強い圧力を加えられたときは視覚などの認知そのものが変わってしまうことが脳科学のレベルで確認されている。
そこでブレグマンは、実験結果の解釈の変更を試みる。被験者は権威に服従して「悪」に変貌したのではなく、権威者に協力して(ミルグラムの実験では、被験者は「科学に役立つ貢献をしてほしい」と依頼されていた)「善」を行なおうとしたのだという。こうして、「批判されるべきは服従した被験者でなく、「よいことをしたい」というヒトの善性を悪用したことだ」という話になる。
ところで、これはブレグマン独自の解釈ではなく、社会心理学においても、ミルグラムの実験の解釈は「権威への服従」から「献身的信奉(engaged followership)」へと変更されている。「指導者の大義と自身を一体化することで、他人を傷つける行動であっても高潔であると信じるようになる」というのだ(アダム・ハート、前掲書)。
だがこれは、考えてみれば当たり前の話でもある。歴史を振り返るまでもなく、自分たちが「悪」であると認めたうえで「悪」をなすことなどほとんど(あるいはまったく)ない。あらゆる虐殺は神の名の下に正義として行なわれたのだ。
明らかなヒトの本性があるとしたら、それは「自己正当化」だ。わたしたちは、自分(たち)が正しいと主張するためならどんなことでもする。著名な進化心理学者のロバート・トリヴァースは、理性(知能)の主な機能は「自己正当化」であり、もしかしたらそれがすべてかもしれないと述べた。
ミルグラムの実験の被験者も、自分が「悪」をなすと考えたうえで致死的な電圧を加えたわけではない(それが「悪」だと思った被験者は実験から離脱しただろう)。彼ら/彼女たちが自分の行為を「善」だと自己正当化したとしても、それが(ブレグマンのいうように)ヒトの善性を証明したことにはならない。たんに「自己正当化さえできればどんなことでもする」というだけのことで、ホロコーストをはじめとする歴史上の残虐行為はこれで説明できるだろう。
左派(レフト)の理想主義の「敗北」
ブレグマンの主張の問題は、人間の本性を「利己性(善)」と「利他性(悪)」の単純な二元論で説明しようとすることだ。だが「現代の進化論」は、そもそもこのような主張をしていない。
人類は、哺乳類はもちろん霊長類のなかでも「徹底的に社会的な動物」として特異な進化をとげ、向社会的な感情を発達させてきた。ひとは一人では生きていけないのだから、もともと協調するように「設計」されている。
そのため無人島でもキャンプ場でも、あるいは模擬刑務所で看守役と囚人役に分かれても、なにもしなければ自然に協調行動をとる。ここまではブレグマンのいうとおりだ。
だがそれと同時に、利害が対立したときには徒党を組み、「俺たち」と「奴ら」に分かれる強固な「ヒトの本性」がある(これには性差があり、とりわけ男に顕著だ)。こうして、「俺たち」が協調して「奴ら」を殲滅しようとする。
さらには「俺たち」のなかでも、集団のアイデンティティと一体化して滅私奉公するだけでは、性愛を獲得して自分の遺伝子を後世に残すことができない。共同体のなかでは地位をめぐる熾烈な競争が行なわれており、「協調しつつ権力闘争する」という複雑なゲームが行なわれている(地位をめぐって競争するのは男女とも同じだが、ゲームのルールには性差があるだろう)。
すなわち、ヒトは利己的であると同時に利他的でもあり、善悪二元論でどちらが「本性」か議論することに意味はない。
ブレグマンは、獰猛なギンギツネから比較的おとなしい個体を選んで交配させ、人間になつくキツネを生み出したロシアの生物学者ベリャーエフの有名な実験を引き合いに出し、ヒトもまた同じように家畜化された「ホモ・パピー」だという。
この「自己家畜化」説は近年の進化心理学では主流になっているが、家畜化によって向社会性が増したとしても(そもそも自己家畜化は人類が濃密な共同体をつくるようになったことへの適応だ)、それは(ブレグマンのいうように)善に向かっての進化というわけではない。そればかりか、向社会性は「内集団びいき」を強化し、他の社会(外集団)への警戒心や排外感情、憎悪・敵意を生み出したとされている。
参考:人類は暴力を抑制すると同時に、殺しを楽しむように進化した
「現代の進化論」では、自然淘汰の圧力がかかるのは遺伝子であって個体ではないとする。アリやミツバチのような社会性昆虫が利他的な行動をするのは、それが「利己的な遺伝子」にとってメリットがあるからだ(血縁淘汰説)。
これはヒトも同じで、生存と生殖に有利な協調的(利他的)性質が進化したことは間違いないが、それは利己性を放棄して「善なる存在」になったということではない。自分にとって得だと思えば、わたしたちは(自己正当化によって)どこまでも残酷(利己的)になれるのだ。
この程度のことはわざわざ進化論を持ち出さなくても、人間社会を観察していれば常識でわかると思うが、だったらなぜブレグマンは「善悪二元論」に固執しなくてはならないのか。それは「プラセボ」と「ノセボ」で説明される。
プラセボ効果というのは、偽薬にも一定の治療効果があることだ(「病は気から」)。ノセボ効果はこの逆で、呪術のように、不吉だと思うだけでほんとうに具合が悪くなることをいう(場合によっては死んでしまうこともある)。
ブレグマンは、「ヒトの本性は悪である」との主張はノセボ効果を引き起こし、社会をより悪い方向に変えてしまったという。それに対して、「わたしたちは本来、善である」とみんなが考えるようになれば、プラセボ効果によって、社会はよい方向に向かって動き出すにちがいない。――要約すればこれが本書の結論だ。
これを説得力があると思うか、バカバカしいと一蹴するかは、読者一人ひとりが判断することだろう。最後にひと言、私見を述べるなら、ブレグマンは前著『隷属なき道』では、ユニバーサル・ベーシックインカムによって社会制度を変えることで「よりよい未来」をつくることを(まがりなりにも)構想した。それに対して本書では、具体的な改革の提案をするのではなく、気の持ちようを変えようと説く。
これは左派(レフト)の理想主義の「後退」、あるいは「敗北」を象徴しているのではないだろうか。
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