ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなってしまったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。
米大統領選の投票日が近づいてきたので、前回の大統領選の前(2020年10月22日)に書いた「米大統領選前に考察 「世界最強の帝国」アメリカで今、起きていること、 これから起きることとは?」をアップします(一部改変)。
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世界じゅうから大きな注目を集めているアメリカ大統領選がいよいよ決着がつく。「世界最強の帝国」でいったい何が起きており、これからどうなってしまうのか。今回はそんな興味で読んだ2冊を紹介したい。
1冊目はジョージ・フリードマンの『2020-2030 アメリカ大分断 危機の地政学』(濱野大道訳/早川書房)で、原題は“The Storm Before The Calm(静けさの前の嵐)”。
フリードマンは地政学の第一人者で、1996年にインテリジェンス企業「ストラスファー」を創設、政治・経済・安全保障にかかわる独自情報を各国の政府機関や企業に提供し、「影のCIA」の異名をもつという。これまで世界的なベストセラーになった『100年予測』『続・100年予測』『ヨーロッパ炎上 新・100年予測 動乱の地政学』が翻訳されており(いずれもハヤカワNF文庫)、本書はそのフリードマンが、トランプ大統領誕生を受けてアメリカの未来を予測したものだ。
2冊目はフランシス・フクヤマの『IDENTITY (アイデンティティ) 尊厳の欲求と怒りの政治』(山田文訳/朝日新聞出版)。『歴史の終わり』で知られる政治学者のフクヤマが、アメリカ社会がアイデンティティで分裂するようになった理由を考える(原題は“IDENTITY: The Demand for Dignity and The Politics of Resentment”で邦題のまま)。
アメリカは「帝国になりたくなかった帝国」
ジョージ・フリードマンはまず、「アメリカ社会は二極化し、崩壊に向かっている」という過剰な悲観論は無用だと述べる。1960~70年代のアメリカは、ベトナム戦争の泥沼に引きずり込まれ、公民権運動で人種間の緊張が極限まで高まり、マーティン・ルーサー・キングやロバート・ケネディが暗殺され、ニクソン大統領が辞任した。社会は憎悪に満ち、ひとびとは街頭で衝突し、誰もがアメリカは衰退し崩壊へと突き進んでいると考えた。だがその後にやってきたのは、レーガン時代の繁栄と「冷戦の勝利」だった。現在のような混乱はアメリカ社会では定期的に起きており、なんら珍しいことではないのだ。
フリードマンによれば、アメリカには2つの顕著な循環があり、ひとつは80年ごとの「制度的サイクル」、もうひとつは50年ごとの「社会経済的サイクル」だ。とはいえあらかじめ断っておくと、私はフリードマンの「サイクル理論」を正しく理解できた自信がない。そこでこれについては本を読んでいただくとして、結論だけをいうならば、2020年代のアメリカは「制度的サイクル」と「社会経済的サイクル」の2つの転換期が同時にやってくる。これはアメリカ建国史上はじめての出来事で、未曽有の「動乱」を覚悟しなければならないが、それを乗り越えれば(これまでと同様に)アメリカは復活し、平和と繁栄のときが訪れるとされる。これが原題の「静けさの前の嵐」だ。
フリードマンは、アメリカが人工国家であることから論じはじめる。アメリカ政府には過去がなく、「設計、建築、技術」をとおして新たな政府が誕生した。
建国者たちは、未来のアメリカに災厄をもたらす2つの懸念をもっていた。ひとつは「政府」で、もうひとつは「国民」だ。ヨーロッパの歴史をみるかぎり、多くの政府が権力を溜め込み、専制的になった。国民は私利私欲を追い求め、しばしば公共の利益に反する選択をした。
「政府」と「国民」という災厄の源からアメリカを守るために建国者が編み出した解決策は、「非効率にすること」だった。その結果アメリカでは、法律を制定することがきわめてむずかしくなり、大統領は2つの議会だけでなく50の独立した州と向き合わなくてはならず、専制君主になることはほぼ不可能になった。連邦議会の行動の範囲も、裁判所によって制限されることになった。「建国者たちが築き上げた驚くほど非効率な政府システムは、意図したとおりの働きをみせた。政府はほとんど何もできなかった」とフリードマンはいう。
その代わり、「創造性のサイクル」を生み出したのは個人だった。アメリカは政府の影響力をできるだけ小さくすると同時に、国民の政府への関与を制限し、個人の創意工夫を最大化するように建国時に「設計」されたのだ。
憲法で基本的権利のひとつに定められた「幸福追求権」とは、「それぞれのアメリカ人は、自身が望む行動については成功するも失敗するも自由であるべきだ」「国家は誰を邪魔することもできない。個人の運命は、その人の性格と才能によってのみ決まる」との宣言だった。「自助」とは政府から自由であると同時に、政府の保護を求めないことでもあった。
そんなアメリカは、地政学的に「帝国」を築く理由がほとんどなかった。アメリカの国内総生産(GDP)のうち、海外への輸出が占める割合はわずか13%(ドイツは50%近く、中国は20%以上)で、世界最大の輸入国だが輸入の対GDP比率は15%にすぎない。「外国との貿易は合衆国にとって有益ではあるものの、貿易を維持するために帝国の立場を死守する価値はない」のだ。
TPPからの離脱、WTO脱退の示唆、あるいは最近の中国への貿易制裁を見てもわかるように、アメリカは自由貿易の守護神として「帝国」的にふるまうよりも、しばしば「反帝国的」な行動をとる。アメリカは望まずに「帝国」の地位に就くことになったのであり、いまも「帝国」でいることに居心地の悪い思いをしている国民がたくさんいる。
ほとんどの国民には、政府がなにをしているわからない
建国以来、“人工国家アメリカ”はさまざまな危機を乗り越えてきたが、フリードマンによれば、近年の危機は「テクノクラシー」によって引き起こされた。テクノクラシーとは「イデオロギーや政治に無関心な専門家の手に政府の運営は委ねられるべきであり、彼らの権力はみずからの知識から生まれる」という思想のことで、簡単にいえば「知識社会化」「専門化」だ。
テクノクラシーを担うのが「テクノクラート」で、「問題は知識をとおして解決されるべきで、事実上あらゆる種類の問題解決は技術的なものである」と考える。アメリカ社会を実質的に支配しているテクノクラートは高学歴のエリート集団で、その政治的立場は「リベラル」だ。
テクノクラートにとって、人種、ジェンダー、セクシャリティ、国籍の区別は重要なものではない。生得的な属性によって専門家への道が閉ざされることが「差別」で、すべてのひとが平等に専門性≒能力によって評価される社会をつくるべきだとする。
こうしてテクノクラートは、アメリカだけでなく、世界じゅうにいる「抑圧された人々」の地位が改善されることを求めるようになる。「目指すべきは平等ではなく、むしろ抑圧からの解放」なのだ。
とはいえ、テクノクラシー(知識社会化)から脱落するひとたちが出てくることは避けられない。そのときテクノクラート(その多くは白人)は、黒人やヒスパニックなど「文化的に抑圧された人々」を守ろうとし、労働者階級の白人を「人種、国籍、ジェンダーを利用して歴史的にマイノリティを抑圧しつづけてきた」と断罪する。なぜなら自分たちは、少なくとも思想や言論の抑圧を乗り越えようと努力をしているから……。
それに対して白人労働者階級は、“抑圧されたマイノリティ”にはさまざまな支援策が用意されているのに、自分たちの苦境には誰も眼を向けようとはしないと怒りを募らせている。白人労働者階級には、テクノクラートは自分たち以外の階級の利益を守ることばかりに専念しているように見えるのだ。
それに輪をかけて問題なのは、テクノクラシーが機能不全を起こしていることだ。社会が複雑になるにつれて政府は巨大化し、組織間の対立でいろいろなことがうまくいかなくなった。ほとんどの国民には、もはや政府がなにをしているのかすらわからない。
はげしい対立を引き起こしたオバマケア(医療保険制度改革法)はおよそ897の文書で成り立っており、その規則の説明は2万ページ以上に及んだ(1935年に制定された社会保障法は29ページだった)。「専門家ですら正確に理解している者は誰一人いない」といわれるこの法案を、素人の有権者が客観的に評価できるわけはない。
そうなると国民(とりわけテクノクラシーから排除された白人労働者階級)は、政府がたんに機能不全を起こしているのではなく、そこになんらかの一貫した意図があるのではないかと疑うようになる。「連邦政府を誰かが裏で操っている」という陰謀論こそが、理解不能な現実を理解できる唯一の説明だからだ。こうして、アメリカは「ディープステイト(政府内部で秘密裏に動く闇の政府)」に支配されているという陰謀論(Qアノン)が急速に広がることになった。
「憲法に則った政府」への回帰を求めるティーパーティの過激な主張は、建国の時代へのノスタルジーもあるが、「政府を自分たちが理解できるものにしろ」というもっともな訴えでもあるのだ。
白人労働者階級とアフリカ系アメリカ人は同盟するか
アメリカ社会はいま、機能不全を起こしたテクノクラシーと、テクノクラートによる疎外に憤る白人労働者階級によって分断されている。そしてこの対立は、2020年代にかけてますます悪化していくとフリードマンは述べる。トランプがこうした状況をつくりだしたのではなく、状況がトランプ大統領を生み出した。現在は「サイクルの転換期」の初期で、ほんとうの混乱(嵐)はこれからやってくるのだ。
「サイクル理論」によれば、転換期の終わりを告げるのは2024年の大統領であり、新たな時代を牽引するのは2028年に選出される大統領になる。フリードマンの主張のなかでもっとも刺激的なのは、この「政治的転換」を主導するが「白人労働者階級とアフリカ系アメリカ人の同盟」だとしていることだ。
BLM(ブラック・ライブズ・マター)は白人警官の黒人に対する日常的な暴力への抗議行動で、それにはげしく反発するのがトランプ支持の白人労働者階級だ。この両者が政治的に手を組むようなことがあり得るのだろうか。しかし、それは必然だとフリードマンはいう。なぜなら白人労働者階級も黒人(あるいはヒスパニック)も、テクノクラシーの同じ犠牲者だから。
現在の白人労働者階級の状況は、1970年代の黒人の状況とそう変わらない。その黒人の生活水準も、70年代からほとんど改善されていない。アファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)で大学に進学できるのは黒人のごく一部だし、その大学でも多くの黒人学生はドロップアウトし、社会の上層部にいけるのはさらにひと握りだ。「結局のところ大部分のアフリカ系アメリカ人は、「保護」からなんの恩恵も受けることができなかった」のだから、いずれ人種の垣根を超えて、誰が自分たちの同類なのか気づくはずだというのだ。
「テクノクラシーに立ち向かうのは、工業労働者階級の子どもや孫たち」で、そこに「アフリカ系アメリカ人やヒスパニックなどの少数民族が加わる」とフリードマンは予測する。「工業労働者の子孫は米国人口のおよそ30%を占め、アフリカ系アメリカ人は13%を占める。社会的にきわめて大規模な連携となる」。この「テクノクラシーの敗者」の同盟が、アメリカを次の時代へと動かすのだ。
それはいったいどのような社会になるのか。ここでフリードマンは、「ひとは孤独に耐えられないのだから、共同体を求めるようになるにちがいない」という程度のことしかいっていないが、「敗者の同盟が政治を動かす」という大胆な予測を読んで私が思ったのは、民主党の若手政治家として(2000年前後に成人を迎えた)ミレニアル世代やその下のZ世代に圧倒的な人気のあるアレクサンドリア・オカシオ=コルテス下院議員だ。バーニー・サンダースを支持した「民主社会主義者」のプログレッシブ(進歩派)で、国民皆保険や学費無償化だけでなく、学生ローンの全額債務免除を求め、その財源は累進所得税の最大70%への引き上げと債務拡大で賄うとする。現代貨幣理論(MMT)に基づいて、自国通貨を発行する政府は一般に思われているよりはるかに大規模な財政支出が可能だとし、「政府は財政を均衡させる必要はない」と述べ、国民に無条件かつ一律に一定額を給付するベーシックインカムの実現を訴えている。
「敗者の同盟」を惹きつけるのは、保守派が唱える「自助自立」の建国の理想ではなく、こうした「左派ポピュリズム」ではないだろうか。フリードマンは本書の日本版増補で「コロナ危機がサイクル移行を加速させる」と述べており、私たちは早晩、その結果を知ることになりそうだ。
「自分のなかに“真の自己”があり、発見されることを待っている」
次はフランシス・フクヤマの『アイデンティティ 尊厳の欲求と怒りの政治』だが、本書ではまず、ひとは誰もが「テューモス(thymos)」をもっているとされる。これは「尊厳の承認を渇望する心の働き」のことだ。
テューモスは、大きく「アイソサミア(isothymia)」と「メガロサミア(megalotymia)」に分けられる。アイソサミアは対等願望で、「ほかと平等な存在として尊敬されたいという欲求(demand)」、メガロサミアは優越願望で、「ほかより優れた存在と認められたいという欲望(desire)」だ。
これは哲学的な分類だが、進化心理学でも「徹底的に社会的な動物であるヒトは評判にきわめて敏感になるよう進化してきた」と繰り返し指摘されてきた。わたしたちは、自分がいわれなく劣った者として扱われると強い怒りを感じ(アイソサミア)、仲間(共同体)から称賛されると強い悦びを感じる(メガロサミア)。これはチンパンジーのような類縁種も同じで、進化による「設計」だ。
しかし、たんにこれだけでは「アイデンティティの政治」は起動しない。中世や古代世界だけでなく、人類が進化の歴史の大半を過ごした旧石器時代にすらアイソサミアとメガロサミアはあったはずだからだ。
フクヤマは、第一の転機は「内なる自己」の発見だとする。宗教改革でルターは、「内面の精神的な本性」はカトリック教会の形骸化した儀式ではなく、個人が聖書を通じて神と直接対面したときにはじめて明らかになると論じた。次いで啓蒙主義の時代にルソーが、「内なる自己」とそれを抑圧する「社会」という図式を唱えた。それがカントを経てヘーゲルに受け継がれ、「人間の歴史は承認をめぐる闘争によって動かされてきた」との理解に至ったとされる。
こうした哲学の系譜は興味深いものの、フクヤマも述べているように、決定的な第二の転機は1960年代に訪れた。第二次世界大戦が終わり、人類史上もっともゆたかで平和な時代が到来したことで、生存への不安から解放されたひとびとが自らのアイデンティティに目を向けるようになったのだ。
「自分のなかに“真の自己”があり、発見されることを待っている」という(人類史的には)きわめて奇矯な思想は、アメリカ西海岸のヒューマンポテンシャル・ムーブメント(人間性回復運動)やポジティブ心理学から始まり、たちまち社会に受け入れられて、ヨーロッパから世界の先進国、そして新興国へと燎原の火のように広がっていった(もちろん日本も例外ではない)。
若者たちは、「自分は偽りの人生を生きることを強いられている」と感じるようになり、「ほんとうの自分は何者なのか」という問いに強いこだわりをもつようになった。これがアイデンティティの危機で、主に2つの方法で解決を目指された。ひとつは「ほんとうの自分」を探す内面への旅(自分さがし)で、もうひとつは「ほんとうの自分」を抑圧する社会を変えていくこと(社会改革)だ。
そのどちらにも共通するのは、「ほんとうの自分」にこそ至高の価値があるという思想だ。こうして、「アイデンティティをめぐる戦争」が勃発する下地が整った。
「尊厳の民主化」という価値観の大変動
アイデンティティというのは、「自分の尊厳を認めてもらいたい」という欲求のことだ。フクヤマは、「貴族政治(aristocracy)」では尊厳は貴族=騎士にしか与えられなかったと指摘する。身分制だから当然だと思うだろうが、本来は、騎士は「公共の善のためにみずからすすんで命を危険にさらす」特別な使命を帯びているという意味で、尊厳はその代償だった。
ところが「民主政治(democracy)」になると、あらゆる権利が国民に平等に与えられるのと同様に、すべての国民が尊厳をもつべきだとされるようになった。いわば「尊厳の民主化」だ。
とはいえ、すこし考えればわかるように、尊厳=評価というのは傑出した人物に与えられるものだから、「すべての人間が平等に傑出している」というのは定義矛盾だ。そこでリベラルデモクラシーの国家は、「個人の自律(autonomy)を平等に保護する」ことになった。「尊厳=評価を獲得できるかどうかは個人の才能と努力によるが、そのための機会は平等に与えられるべきだという」という価値観で、これが近代国家の道徳的な核心にある。
ここまではほとんどのひとが同意するだろうが、問題は、尊厳の承認に大きく2つのカテゴリーがあり、それが絡みあっていることだ。それが「個人の尊厳」と「集団の尊厳」だ。
すべてのひとが完全に平等であれば、一人ひとりが「尊厳の自由市場」のなかで、自らの評価を最大化するよう努力すればいい。「個人の尊厳」はあくまでも自助努力によるもので、それを国家が支援しなければならない理由はどこにもない。
だが、社会のなかに尊厳を認められない集団があり、それが個人の尊厳とリンクしていたらどうだろう。アメリカの黒人は、個人としての尊厳を求めようとすると、集団(黒人)としての尊厳の壁にぶつかる。「黒人だというだけで低い評価しか得られないとしたら、一人ひとりの黒人がどうやって尊厳をもてるのか」というのは、「尊厳の民主化」にとってきわめて重大な異議申し立てなのだ。
このことは人種問題だけでなく、女性、LGBT、外国人(移民)、被差別民などさまざまなマイノリティ集団にあてはまる。こうして、「あらゆる差別をなくすこと」が近代国家の喫緊のミッションとなった。この運動(文化相対主義)は主に左派(リベラル)によって担われてきた。――ただしリベラルのこの戦略転換については、「予算を獲得したり、懐疑的な議員たちを説得して政策を変更させたりするよりも、エリート制度内で文化の問題について論じるほうが簡単だ」とフクヤマは手厳しい。
マイノリティ集団がアイデンティティ(尊厳)を獲得するようになると、こんどはマジョリティのアイデンティティが揺らぐようになってきた。彼ら/彼女たちの不安に手を差し伸べたのが右派(保守派)で、人種、民族、宗教などと明確に結びついたナショナル・アイデンティティ(国民意識)を守る愛国者として自分たちを再定義した。右派が移民を「文化的な脅威」としたことは、移民マイノリティのアイデンティティをさらに刺激することになった。
こうして2010年ごろから、多様なマイノリティのアイデンティティを主張するリベラルと、不安定化するマジョリティのアイデンティティを擁護する保守派が対立するようになり、さらにマイノリティのあいだでも利害の対立が生じて収拾が難しくなってきた。その結果現在では、「左派から右派までイデオロギーを横断して、「アイデンティティの政治」というレンズを通してほぼすべての社会問題を理解するようになった」とされる。
中国とアメリカ、2つのディストピア
「尊厳の民主化」が進み「自分らしさ」が神聖視されるようになった現代社会では、「心から信じられている意見が、それを放棄するよう強いかねない理性的な討議よりも優先される」ようになり、「ある主張が誰かの自尊心を損ねるのなら、それだけでその主張は不当だとみなされる」ことになった。
これは主にリベラルの論理だが、皮肉なことに、これがトランプを支持する理由に転用されている。トランプは「嘘つきで意地悪で大統領らしくないかもしれないが、少なくとも自分が思うことをありのまま口にしている」。すなわち、「ほんとうの自分」を生きているのだ。
これだけでもじゅうぶんやっかいな事態だが、問題をさらに複雑にするのが、経済的な動機とアイデンティティの問題が複雑に絡みあっていることだ。「物質的なニーズや欲求に駆り立てられた経済的動機と通常考えられているものは、実は尊厳や地位の承認を求めるテューモスの欲求」なのだ。
幸福度の調査では、所得の高いひとは幸福度も高いことがわかっているが、これは単純に「金持ちほど幸せだ」という話ではない。ドイツとナイジェリアでは生活水準が大きく異なるが、高所得層のナイジェリア人は高所得層のドイツ人と同じくらい幸せだという。重要なのは所得の絶対額ではなく隣人や知り合いとの比較で、相対的にゆたかな者は、相対的に貧しい者よりも大きな尊厳をもてるのだ。
このことは、現代社会において政治的にもっとも不安定な集団が貧困層ではなく、「ほかの集団との関係で自分たちの地位を失いつつあると感じている中間層」であることをうまく説明する。ナショナリストは、「経済的地位の相対的喪失をアイデンティティの問題に翻訳する」ことで彼らを惹きつけている。
ここからフクヤマは、ベーシックインカムはたとえ実現できたとしても、社会問題の解決には役に立たないという。たんにお金を配っただけでは、社会的な承認を与えることはできない。無職のひとたちは自尊心の土台を欠いており、なにもしないでお金を受け取るのはアイデンティティをさらに傷つけるだけだ。
経済問題は限られた資源をどのように分配するかという話だから、通常、交渉の余地がある。日本にかぎらず世界のどこでも、経済発展期の政治家の役割は、利害が衝突する集団のあいだに入って「落としどころ」を探ることで、利害調整の得意な政治家が大きな影響力をもった。
それに対して「アイデンティティの政治」の本質的な困難は、アイデンティティの主張には通常、交渉の余地がないことだ。黒人と白人がアイデンティティをめぐって対立した時に、「尊厳」を双方に分配して解決することはできない。「社会的承認の権利は、ほかの何かと交換することはできず、いかなるかたちでも縮小することができない」のだ。
こうして「アイデンティティの政治」が深化するほど社会は分断されていく。そんな負の連鎖を断つには、マイノリティ集団のアイデンティティを擁護すると同時に、すべての国民を包摂するナショナル・アイデンティティ(国民の物語)をつくる必要があるとフクヤマはいう。
これはもちろんきわめて困難な試みだろうが、それに成功できなければ「最終的に国家の崩壊と破綻が待ち構えている」。本書の最後でフクヤマは、中国とアメリカを念頭において、「現在の世界は、過度の集権化と果てしない分裂という相反するふたつのディストピアに同時に向かっている」と述べている。
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