アメリカや欧州の右派ポピュリズムの背景にあるのは移民問題

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2017年2月2日公開の「現代のポピュリズムは「原理主義的なリベラル」。 トランプ大統領は「公約を守り巨悪と戦うヒーロー」を演じつづけるだろう」です(一部改変)。

DIAMOND Onlineにアップした「米大統領選でのトランプの圧勝には、有色人種や白人との混血人種が「白人化」した「ホワイトシフト」の影響があった」も合わせてお読みください。

SibRapid/shutterstock

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トランプ大統領が(2017年の)就任直後に出した、中東・アフリカ諸国のイスラーム圏出身者や難民の入国禁止令が、アメリカはもちろん世界じゅうで抗議行動を引き起こしている。それ以外にもメキシコに「国境の壁」の費用を求めるとして首脳会談を中止したり、日米の自動車メーカーにメキシコでの工場の建設中止や米国内での雇用への貢献を求めるなど、予測不能の“暴走”は止まりそうにない。

それに加えてヨーロッパでも、イギリスのEU離脱交渉開始が迫り、オランダやフランス、ドイツなどで重要な選挙が目白押しになっていることで、あらためてポピュリズムに注目が集まっている。これまで「リベラリズム」を牽引してきた欧米の先進諸国でいったいなにが起きているのだろうか。

あまり指摘されないが、ここでのポイントは、現代のポピュリズム(右派ポピュリズム)がリベラズムと親和性が高いことだ。欧米では人種主義の「極右」は後景に退き、移民排斥を掲げる政治集団は人種差別(レイシズム)から距離を置いて、自らを「リベラル」と位置づけている。――トランプの言動も、きわめてあやういものの、かろうじてリベラルの枠内に収まっている。

「右翼のリベラル化(あるいは「リベラルの右傾化」)」というこの奇妙な反転を指摘したのはヨーロッパ政治史を専門とする水島治郎氏で、私はこれを『反転する福祉国家 オランダモデルの光と影』(岩波現代文庫)で教えられのだが、水島氏は近年の状況を新刊の『ポピュリズムとは何か 民主主義の敵か、改革の希望か』(中公新書)でまとめているので、これに基づいてリベラリズムとポピュリズムの親和性を考えてみたい。

暗殺された地域政党の星

水島治郎氏は『反転する福祉国家』で、2000年代に彗星のようにオランダ政界に登場したピム・フォルタインというきわめて興味深いポピュリストについて書いている。それは次のような物語だ。

1948年、オランダの田舎町の敬虔なカトリック教徒の家に生まれたフォルタインは、日本でいう全共闘世代で、60年代の学生運動に大きな影響を受け、マルクス主義社会学を学び、卒業後は大学で教鞭をとりながら社会主義政党である労働党の活動家になった。

だがその後、フォルタインは40代で思想的に大きく転向し、「右翼」と呼ばれるようになる。大学教授の職を辞した彼は、ベンチャー企業の経営などを経て政治コラムニストの道を選んだ。フォルタインの政治的主張のなかでもっと議論を引き起こしたのは、イスラームへの歯に衣着せぬ批判だった。当時のオランダは宗教批判や移民問題はタブーとされており、フォルタインは一躍、社会的な注目を集める存在となった。

オランダでは90年代以降、都市部の治安悪化を受け「すみよいユトレヒト」など、「すみよい」を名乗る地方政党が躍進するようになった。こうした市民参加型の地方政党は、中央集権的な既成政党を批判し、住民の声に耳を傾けながら地域固有の課題を大胆に改革する手法で人気を博した。「すみよい」を掲げる政党のなかには地方選挙で30%を超える得票率を獲得するところもあり、99年には地方政党を統合した国政政党「すみよいオランダ」が結成された。フォルタインは、この「すみよいオランダ」の筆頭候補者として政界へのデビューを飾ることになる。

フォルタインの戦略は、「地方から中央を変える」ことだった。

2001年、フォルタインは自分が住むロッテルダムに地方政党「すみよいロッテルダム」を設立し、治安問題を中心に大胆な市政改革を訴えた。この作戦は大成功し、フォルタインを看板とする「すみよいオランダ」はたちまち翌年の国政選挙の台風の目となった。

だがその直後、フォルタインは難民の受入れやイスラーム批判で党の執行部と対立し、「極右」のレッテルを貼られて「すみよいオランダ」を脱党する。失意のフォルタインは自らの名を冠したフォルタイン党を設立するが、それは当初、友人たちを含むわずか4人の弱小政党だった。

ところがここから、事態は思わぬ方向に動き出す。

一連の騒動でも地方政党「すみよいロッテルダム」はフォルタインへの支持を変えず、02年3月のロッテルダム市議選で、フォルタイン率いる同党は34.74%という驚異的な得票率で地滑り的な勝利を収め、総議席45議席中17議席を獲得した。また同じ日に全国で行なわれた統一自治体議会選挙でも、「すみよい」を冠する地方政党は17の自治体で最大政党に躍り出た。

ロッテルダム市議会の第一党となったフォルタインは、保守政党や自由主義政党と連立して執行部を組閣することに成功する。既成政党がフォルタインにすり寄ったのは、いうまでもなく、次回の国政選挙でその人気にあやかるためだ。

フォルタイン党の躍進によって、候補者リストに名を連ねたいという志願者が殺到した。その中には既成政党の党員も多く、もっとも大きな被害を受けたのが政策の重なる「すみよいオランダ」だった。フォルタインは「すみよいオランダ」を除名同然の扱いで放り出されたが、わずか数カ月で形勢は逆転し、いまやフォルタイン党が「すみよいオランダ」を吸収しようとしていた。

総選挙が10日足らずに迫った同年5月6日、フォルタイン党の予想獲得議席は、(日本の衆議院にあたる)下院定数150のうち25%の38議席に達し、連立政権を組めばフォルタインが首相となることさえ夢ではなくなった。

だがこの華やかな政治ドラマは、その日の夕刻に劇的な終幕を迎える。ラジオ番組の出演を終えたばかりのフォルタインは至近距離から銃撃され、54歳の生涯をあっけなく終えたのだ。

銃撃犯は32歳の白人男性で、環境保護団体の熱心な活動家だった。裁判で彼は、フォルタインに「社会に対する危険」を見出したことが殺害の理由だと述べた――。

同性愛者の「リベラルな極右」

フォルタインの波乱万丈の政治キャリアが注目されたのは、彼がまったく新しい政治手法を生み出したからだった。だがそのことは当初、オランダ政界でも理解されず、彼は極右=人種差別主義者として放逐された。

だがここで、「フォルタインを熱狂的に支持したオランダ人はレイシストだ」と短絡してはならない。よく知られているように、オランダは大麻、売春、安楽死を合法化し、「自分の人生は自分で決める」という自己決定権を極限まで追求する“超リベラル”な社会だ。だとすれば問題は、このリベラルなひとたちがなぜ“極右”と見紛うフォルタインに票を投じたのか、だ。

その謎を解く鍵は、フォルタインの性的指向にある。

フォルタインは大学時代から同性愛者でることをカミングアウトしており、同性愛者の権利を積極的に擁護し、妊娠中絶などの女性の権利を認め、安楽死や麻薬を個人の自由として容認した。こうした政治思想は、自由原理主義者(リバタリアン)にきわめて近い。

フォルタインは、人種差別や民族差別によってムスリムを排除するのではなく、同性愛者という「差別される少数派(マイノリティ)」の立場から自由や人権といった近代の普遍的価値を称揚し、「前近代的」で「差別的」なイスラームを批判したのだ。

「(ムスリムの)女性は自らの意思でベールをかぶり、全身を覆っているというのか……そのような女性たちの住む(オランダの)遅れた地域に対しては、全面的な差別撤廃政策を進めたい」

「(イスラーム社会で同性愛者であることを)公言する勇気を持つ者には、社会的にも、家族からも完全に孤立する状態が待っている。これほど野蛮なことはない!」

このようにフォルタインはムスリムの移民に対しても、「自由の国」オランダで一般市民が享受しているのと同じ自由や人権が完全に認められることを求めた。それまで西欧の移民問題は、キリスト教とイスラームの宗教的な対立か、あるいは貧しいムスリム移民への白人主流派の差別問題だと考えられてきたが、フォルタインはそれを、近代の普遍的な価値(自由と人権)と、それを受け入れない頑迷固陋な前近代的風習との対立へと「反転」したのだ。

ムスリム移民をイスラームという「遅れた宗教」の檻から解放すべきだというフォルタインの啓蒙主義的な批判は、オランダ社会に大きな衝撃を与え、急速に支持者を増やしていった。そしてこれが、フォルタインの死後、ヨーロッパの政治地図を大きく塗り替えることになる。

フォルタインの政治的な成功を目にしたことで、旧態依然とした“極右”勢力は続々と「リベラル化」し、右派ポピュリズムへと鞍替えしていった。その代表が2017年と22年のフランス大統領選で決選投票に残った国民戦線のマリーヌ・ルペンだ。

「移民・治安・失業」というポピュリズムの“黄金の三角形”

1972年に国民戦線を創設したジャン=マリー・ルペン(マリーヌ・ルペンの父親)は極右系学生自治体の活動家で、1950年代にプジャード運動という農民の反税ポピュリズム運動に参加したことで頭角を現し、アルジェリア独立に反対して従軍したのち、60年代は街頭で左翼団体と暴力的な衝突を繰り返す筋金入りの反共右翼だった。

フランスの右翼勢力に詳しい畑山敏夫氏によると、国民戦線は1980年代に「反共」から「反移民」へと路線を変え、それまで得票数が1%を超えることがなかった泡沫政党から脱皮し、2002年の大統領選ではジャン=マリーが社会党のリオネル・ジョスパンを上回る得票を得て、保守系のジャック・シラクとの決選投票にまで進んだ(「マリーヌ・ルペンと新しい国民戦線」高橋進・石田徹編『ポピュリズム時代のデモクラシー ヨーロッパからの考察』〈法律文化社〉所収)。

畑山氏によると、このとき国民戦線は「移民・治安・失業」というポピュリズムの“黄金の三角形”を発見したが、極右から完全に脱却するには至らなかった。彼らの移民排斥の主張は「自国民優先(フレンチ・ファースト)」で、それは主流派であるフランス白人の既得権を守り、「フランス人」としてのアイデンティティや文化を防衛しようとするものだった。

それに輪をかけて問題視されたのが、ナチスのユダヤ人強制収容所のガス室を「第2次大戦史の末梢事」と述べるなど、ジャン=マリーの反ユダヤ主義的な言動だった。ジャン=マリー時代の国民戦線が掲げる「民族主義的ポピュリズム」は、「レイシズム(人種差別主義)」との批判を避けることができなかった。

それに対して国民戦線を父から譲り受けた三女のマリーヌは、「フランスの文化や伝統を守る」という組織のアイデンティティを維持し、「外国人嫌い」の支持者の心情に寄り添いながらも、「脱悪魔化」という新たな政治的プロジェクトに乗り出した。

2011年に国民戦線の第2代党首となったとき、マリーヌはまだ43歳で、「3児の母親で2回の離婚経験があり、現在は事実婚の生活を送っているというモダンな女性のイメージ、弁護士から政党の党首に転じたキャリアウーマンのイメージ、お酒やダンスが好きで若手幹部とのパーティを好むくだけたイメージといった父親とは大きく異なった指導者像」を演じることができた(畑山氏、前掲書)。

マリーヌたち若手幹部の目論みは、国民戦線の党勢をさらに拡大するために「極右」「レイシスト」といった“悪魔化”から脱し、「反EU、反グローバリズム、反イスラーム」の世俗的で民主的な国民政党に脱皮することだった。

伝統的なカトリック勢力を基盤とする国民戦線は、世俗的な共和主義(フランス革命の理念)やライシテ(政教分離)を否定してきたが、マリーヌは大きくリベラルに舵を切って、「私は超確信的なライシテ支持派」と宣言し、同性愛者の権利を擁護した。そして返す刀で、「宗教の戒律が共和政の法にとってかわる」とイスラームを批判し、「自由・平等・博愛はキリスト教の価値観であり、それを守るためにはフランスがキリスト教国家としてイスラームに対抗しなければならない」と主張したのだ。

2015年8月、マリーヌは父のジャン=マリーを、長年のホロコースト否認を繰り返したとして党から追放した。こうして国民戦線は、「反移民=反イスラーム」を掲げながらも、レイシズムから近代主義的なリベラリズム政党へと反転を遂げたのだ。

リベラルなオランダでついに「極右」政権が誕生

それでは、フォルタイン亡きあとのオランダはどうなったのだろうか? 水島氏は『ポピュリズムとなにか』で、右派ポピュリズムを牽引するヘールト・ウィルデルスという、同じく興味深い政治家を紹介している。

1963年、ドイツ国境に接する小都市に生まれたウィルデルスは、大学に進学せずに10代の後半をイスラエルのキブツ(集産主義の協同組合)で過ごし、中東を旅行して見聞を広めた。その経験からイスラエルを「第2の祖国」と呼ぶとともに、イスラーム諸国の生活水準の低さを目の当たりにし、それが後年の政治的主張へとつながっていく。

30代後半で保守系政党の政策スタッフとして採用されたウィルデルスは猛勉強を重ねて各種の政策に通じ、その能力を認められて1998年に保守系の自由民主人民党から下院議員に当選する。その後も休日もなく議員活動に勢力を注ぎ、議会運営について詳細な知識を得るとともに、1999年にイスラーム急進派の危険性を指摘する報告書を作成した。これが2001年の同時多発テロを予言したものとして評判を呼ぶが、やがてその激烈なイスラーム批判が党内で問題になり、ウィルデルスは離党して個人政党「ウィルデルス党」を設立する。

ウィルデルスが一躍注目を集めたのが2005年に行なわれたEU憲法批准をめぐる国民投票で、主要政党がほとんど賛成に回り批准は確実とみられるなか、ウィルデルスは巨大化・官僚化するEUの問題を指摘し、トルコのEU加盟の脅威を訴え、EUに追随するオランダの政治エリートを批判した。そしてオランダ国民は、「NO」が6割に達するという圧倒的な票差でEU憲法を葬り去ったのだ。

翌2006年、ウィルデルスは自由党を設立し、同年の総選挙では9議席(得票率5.9%)を獲得、2010年選挙で24議席(同15.5%)、2012年選挙で15議席(同10.1%)とその後も安定した議席を確保した。欧州で頻発するイスラーム過激派のテロを受け、最近では世論調査で第一党となることもしばしばだという。――2023年の総選挙で第1党となり、ウィルデルスは首相には就任しなかったものの連立政権を樹立、ついにオランダの政権を獲得した。

ウィルデルスは2012年に『殺害の標的にされて――西洋文明と私による、イスラムとの闘い』という著書を刊行し、「西洋文明の基本的価値を守るため、死をも厭わずイスラムとの闘いに身を投ずる英雄的存在」との自画像を描いた。彼は「自由」を至上の価値とし、「イスラム化を阻止しなければ……われわれは自らのあらゆる自由を失うだろう」と述べ、「イスラム版の『わが闘争』」と呼ぶコーランの禁止、ヘッドスカーフへの課税、ブルカの禁止などの急進的な政策を主張する「リベラルの闘士」なのだ。

ウィルデルスのもうひとつの際立った特徴は、自由党を徹底した「一人政党」にしていることだ。

水島氏によれば、自由党の正式の党員はウィルデルス1名のみで、党大会や党支部などの公式機関はいっさい存在せず、党員集会や機関紙もない。支持者はボランティアとして選挙に協力したり、「自由党友の会」に寄付を行なうことはできるが、入党することは制度上できず、党の人事や政策に影響を与えることもできない。自由党の党職員はもちろん、国会議員や全国に多数いる地方議員も党員ではなく、公式の権力はウィルデルスただ一人が握っているのだ。

ウィルデルスの側近はこれを「未来の政党モデル」として自賛する。「インターネットの発達した現代においては、市民と直接コミュニケーションをとり、その意見を吸い上げることが可能であり、党員や党支部といった中間的存在は無用の長物」「党組織をつくることはむしろ、自由党の官僚制化や硬直化を招く危険がある。自由党の提示する政党モデル、すなわち党員不在の『ヴァーチャル政党』こそ、『オランダで最初の近代的政党』であり、今後はほかの政党も見習うべきモデル」だというのだ。

「一人政党」では政党助成を受けられないが、党組織が公式に存在しない以上、党を維持するための費用も少ない。メディアがウィルデルスと自由党を絶えず話題にすることで宣伝広告費用も少なくてすむ。ウィルデルスのTwitterは、人口1600万人強のオランダで70万人強のフォロワーを持っているという。

だがだからといって、自由党議員の質が低いというわけではない。ウィルデルスは自党議員の質を維持するために細心の注意を払い、初期には選挙に出馬する議員全員と面接してふるいにかけ、極右系の志望者を排除したうえで、能力と忠誠心のある人物を慎重に選定した。結果として警察や軍、司法、教育などの公共部門出身者が多く選定されたことで、あらかじめ一定の政策知識を備えた候補者が揃うことになったという。

このようなきわめて特異な党運営では、自由党議員のなかから「民主化」を求める声が出るのは避けられない。だが2011年に党内民主化と党員加入を求める「自由党協会」が結成されたとき、参加者はわずか30名程度に過ぎなかった。自由党支持者も議員たちも、自分たちの組織の「民主主義」にはなんの関心もなかったのだ。

現代のポピュリズムとは「原理主義的なリベラル」

水島氏は『ポピュリズムとは何か』で「現代のポピュリズムにおける「リベラル」な「デモクラシー」との親和性」を指摘しているが、これはトランプにも当てはまる。

「アメリカ・ファースト」を掲げるものの、トランプはアメリカを白人国家として純化すべきだと唱えているわけではない。イスラーム諸国からの入国を禁止するのは、ヨーロッパの右派ポピュリストが主張するように「イスラームが近代の理念に反しているから」ではなく、あくまでもテロ対策(治安維持)が名目で「(イスラームという)宗教を信じる権利」を否定しているわけでもない。

保守的な白人や共和党右派はアファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)を、「手厚い社会保障によって働かずに生活できるようになったことで黒人を堕落させた」と全否定するが、トランプは大統領選から一貫して人種問題や“福祉漬けの黒人”について口にすることはない。「アメリカ人の職を奪い、治安を悪化させる」不法移民を口汚く攻撃するものの、アメリカ市民権を取得していたり、合法的な滞在資格を持つヒスパニックへの批判は慎重に避けている。「性差別主義者」と嫌われているが、共和党主流派とは異なって中絶には寛容だ。

共和党右派が掲げるのは、「偉大な国」アメリカを生み出した独立宣言の時代のリベラリズムに戻ることだ。そこでは「自由、平等、人権」の理念が高らかにうたわれている。トランプはそれを、「アメリカ人の自由、平等、人権」へと巧妙に反転させた。

入国禁止の大統領令を人権侵害と批判すれば、トランプの支持者は「テロリストに殺された9.11の被害者の人権はどうなのるか」と反論するだろう。そしてこうつけ加える。――テロリストを自由を入国させてもいいのか。

こうした状況について、水島氏は次のように書く。

 現代のポピュリズムは、「リベラル」や「デモクラシー」といった現代デモクラシーの基本的な価値を承認し、むしろそれを援用して排除の論理を正当化する、という論法をとる。すなわち、政教分離や男女平等、個人の自立といった「リベラル」な価値に基づき、「政教一致を主張するイスラム」「男女平等を認めないイスラム」「個人の自由を認めないイスラム」を批判する。そしてエリート支配への批判、民衆の直接参加といった「デモクラシー」の論理に基づき、国民投票や住民投票に訴え、既成政治の打破を訴えるのである。そうだとすれば、現代のデモクラシーが依拠してきた「リベラル」かつ「デモクラシー」の論理をもってポピュリズムに対抗することは、実はきわめて困難な作業ではないか。「政教分離」「男女平等」に基づき反イスラムを訴えるポピュリズム、「真のデモクラシー」を訴えて国民投票、住民投票で少数派排除やEU脱退を決しようとするポピュリズムの主張を、正統化することになるからである。

すなわち現代のポピュリズムとは、「原理主義的なリベラル」のことなのだ。ポピュリストに「極右」「女性差別主義者」「レイシスト」のレッテルを貼ったとしても、彼らはリベラルの論理によっていくらでも反論できる。――「だったら女性の人権を抑圧するイスラームを認めるのか」というように。

「リベラル右翼」である右派ポピュリズムの戦略は、自分にとって都合のいい「半分の事実(ハーフ・トゥルース)」に基づいて善悪二元論のわかりやすい物語をつくることだ。それをSNSやインターネットが瞬時に、広範囲に拡散させていく。そしてこの手法は、トランプを大統領の座に押し上げたことからわかるように、きわめて効果的なのだ。――入国規制の大統領令について、全米50州の世論調査では「支持」が49%、「支持しない」が41%となっている。アメリカ国民は、移民の人権よりも自分たちの安全を優先している。

こうした現代の政治の特徴をトランプは熟知しており、コアである(中流から脱落しつつある)白人主流派の熱狂的な支持がつづくかぎりは「暴走」を止めようとはしないだろう。逆にいえば、彼らの支持をつなぎとめるためにも「公約を守り、巨悪と戦うヒーロー」を演じつづけなくてはならないのだ。

そう考えれば「トランプ劇場」はまだまだつづき、世界はとうぶんのあいだに振り回されることになるのだろう。

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