安楽死の「先進国」だった日本で、なぜ安楽死の議論がタブーになっているのか

WEBメディアの依頼で2017年2月に書いた原稿ですが、現在は読めなくなっているようなので、後半部分をブログにアップします。前半はオランダの事情で、その後、状況はかなり変わってきている(より幅広く安楽死を認めるようになっている)ので、あらためて論じたいと思います。参考文献は三井美奈氏(産経新聞記者・執筆当時は読売新聞記者)の『安楽死のできる国』(新潮新書)です。

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じつは日本は安楽死の「先進国」で、早くも1961年、安楽死を容認する6つの要件を名古屋高裁が示している。愛知県の20代の長男が、脳溢血で倒れ5年間寝たきりの父親が発作に苦しみ、「早く死なせてくれ」と悶絶するのを見るに忍べず、農薬を飲ませて死亡させるという事件だった。

その後も家族による「安楽死」がつづいたが、1991年、神奈川県の東海大学医学部付属病院で、末期がんで昏睡状態にある患者に対し、家族の強い求めによって医師が塩化カリウムを注射させて安楽死させ、殺人罪で起訴されるという事件が起きた。

この事件で横浜地裁は、積極的安楽死には「患者本人による意思表示」が前提になるとしたうえで、

  1. 患者に耐え難い苦痛がある
  2. 死が避けられず死期が迫っている
  3. 肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし、ほかに代替手段がない
  4. 患者が意思を明示

という四要件を満たせば、医師の行為を罪に問わないとした。それと同時に、延命のための人工呼吸器や点滴を外す「治療行為の停止」や、死期を早める可能性を知りながらモルヒネなど強い鎮痛剤を投与する「間接的安楽死」は、患者が昏睡状態で意思表明できない場合、家族の意向を尊重してよいと判断した。

こうした「先進的」な司法判断の背景には、日本がもともと自殺に対して寛容な社会だということがある。オランダのようなキリスト教国では、安楽死を認めるには「自殺は神への冒瀆」という信仰を乗り越えなければならない。それに対して日本では、切腹が武士の名誉ある死とされ、心中は究極の愛で、子連れの無理心中は子どもへの思いやりだとされてきた。ベストセラーになった『永遠のゼロ』を挙げるまでもなく、特攻は愛国的な(もしくは愛する家族を守るための)崇高な死として称賛され神聖化されている。

自殺を容認する文化によって、日本は韓国やロシアと並び先進国のなかでもっとも自殺率の高い社会になっているとの批判は根づよいが、それは同時に、安楽死に対する寛容さにもつながっている。司法が「積極的安楽死」の要件を示したのは、「病気で苦しむ親や患者を安楽死させることを殺人罪で罰するのはかわいそうだ」という強い世論があったからだろう。

2010年に朝日新聞が死生観についての世論調査を行なっているが(2010年11月4日朝刊)、そこでの安楽死についての質問と回答は以下のようになっている。

・自分が治る見込みのない末期がんなどの病気になって苦痛に耐えられなくなった場合、投薬などで「安楽死」が選べるとしたら、選びたいと思いますか、選びたくないと思いますか。
 選びたい 70         選びたくない 22
・「安楽死」は現在の日本では法律で認められていません。「安楽死」を法律で認めることに賛成ですか。
 賛成 74         反対 18

これを見てもわかるように、日本人の7割以上が安楽死の合法化に賛成で、最期は安楽死で逝きたいと思っている。

だとすれば逆に不思議なのは、これほどまでに自殺に寛容で、国民の多くが安楽死を求めている国で、法制化が一向に進まないことのほうだろう。日本とオランダではいったいなにがちがうのだろうか。

これは『安楽死のできる国』で三井氏も指摘するように、「自分の人生を自分で決める」という覚悟だろう。日本人は、「安楽死が法制化されるなら自分も安楽死したい」と考えるものの、その実現のために周囲から批判されてまでなにかをしようという気はないのだ。

じつは日本でも、元衆議院議員・太田典礼氏を中心に発足した日本安楽死協会が1979年に「末期医療の特別措置法案」を作成し、国会への提出を目指したことがある。だがこの法案は「人権派」や身障者団体から「ナチスの優生思想と同じ」と猛烈に批判され、断念せざるを得なくなった。こうして日本の政治で「安楽死」はタブーとなり、団体は「日本尊厳死協会」と改名して「安らかな死」を求めるリビング・ウィルの普及を目指すようになった。

けっきょくのところ日本人は、死という人生の重要な決断を自分で決めるのではなく、家族や医師という「他人」に任せたいのだ。こうして日本の病院では、家族の合意のもと暗黙の「安楽死」が密かに行なわれることになる。

だがこうした曖昧な状況は、それほど長くはつづかないだろう。

日本はこれから人類史上未曾有の超高齢化時代を迎え、2020年には人口の3分の1、50年には約4割を65歳以上が占める。どこの家にも寝たきりや認知症の老人がいるのが当たり前の社会が間違いなくやってくる。

それにともなって、高齢者の医療費が社会保障費を膨張させ、日本の財政を破綻させるというシナリオが現実のものになってきた。日本経済新聞の連載「砂上の安心 2030年 不都合な未来」(2016年12月19日)によれば、西日本の病院で死亡した80歳の男性の場合、弁膜症の術後の経過が悪く、感染症を繰り返して透析や胃ろうなどあらゆる医療行為を受けた結果、3年半の医療費は約7400万円。そのうち男性の負担は約190万円で、残りの大半は税金と現役世代の支援金だという。

取材班が全国約1740市区町村の75歳以上の後期高齢者1人当たり医療費を調べたところ、1人につき100万円以上の医療費を使っている市区町村は14年度分で347に及んだ。2030年の人口推計などから試算すると、社会保障給付はいまより30兆円増えて170兆円に達し、後期高齢者医療費は約1.5倍の21兆円に達する公算が大きいという。

こうした巨額の支出を賄うことができなければ、いずれ高額の医療費は自己負担とされ、高齢者の安楽死が国家の主導で進められることになるだろう。そのような事態になる前に、国民が自らの意思で「人生の自己決定」のルールを決めるべきだろうが、話題になるのはエンディングノートや遺言の書き方、相続を争続にしないための財産分与、葬儀や墓、戒名を自分で決める方法などの「終活」ばかりだ。

日本社会はずっと、安楽死というやっかいな問題から目を背け、縊死や墜落死、二酸化炭素中毒死などのむごたらしい死に方しかできない現実を放置してきた。そしてひとびとはいまも、お上が「まわりの迷惑にならないよう」いかに死ぬかを決めてくれるのを待ちつづけているのだろう。