戦後日本のリベラルは民族主義の一変種 週刊プレイボーイ連載(614)  

原爆投下から79年目となる平和祈念式典で、長崎市長は被爆した詩人の「原爆を作る人々よ! 今こそ ためらうことなく 手の中にある一切を放棄するのだ」を引用し、核兵器廃絶を訴えました。

ところがその場には、原爆を投下したアメリカや核保有国である英仏など主要国の大使の姿はありませんでした。ロシア、ベラルーシとともにイスラエルを招待しなかったことが理由で、米大使は「ロシアの侵略と、ハマスのテロの犠牲となったイスラエルを同列に扱う式典には出席できない」と述べました。長崎市長は「政治的な判断ではない」と繰り返していますが、紛争の一方の当事者であるパレスチナを招待しているのですから、「政治的」と見なされても仕方ないでしょう。

それに対して広島市は、例年どおりイスラエルを招待し、米英などの大使も式典に出席しました。長崎と広島の対応のちがいの背景には、ホロコーストへの距離がありそうです。

1963年、日本の平和活動家4人が、広島からアジアと欧州23カ国を経由する3万3000キロを8カ月かけて歩いて、アウシュヴィッツ解放18周年記念式に参加しました。この式典で、日本から持参した被爆時に溶けた瓦と、アウシュヴィッツの犠牲者の遺灰を込めた壺が交換されました。

この「広島・アウシュヴィッツ平和行進団」以降、ヒロシマ(原爆)とアウシュヴィッツ(ホロコースト)が「人類の悲劇」として重ね合わされ、現代史におけるもっとも強力な「犠牲の物語」になっていきます。そのため広島には、式典にイスラエルを招待しないという選択肢はなかったのでしょう。

日本では毎年8月になると、広島・長崎の原爆投下や沖縄戦の「犠牲の物語」を各メディアが特集し、「八月ジャーナリズム」と揶揄されます。これらの記事に共通するのは、“庶民”は戦争の被害者で、その責任は「戦前の軍国主義」にあり、戦争が迫っている(いまは「新しい戦前だ」)と警告して終わることです。

戦争の「被害体験」ばかりを強調することに対して、中国や韓国、東南アジアの国々は「戦前の植民地支配や日本軍がアジア各地で行なった加害を無視している」と感じるでしょうが、自称「リベラル」のメディアも含め、そうした声を徹底して無視するのも“夏の風物詩”です。

日本の反核平和運動は、アメリカやソ連(ロシア)、中国などの核保有国を名指しで批判するのではなく、「核のない世界」という抽象的なメッセージを飽きもせずに繰り返してきました。この国の左派・リベラルは、「世界で唯一の被爆国」と「世界で唯一、戦争を放棄した憲法」を方便として、不愉快な「加害の歴史」から目を逸らせてきたのです。

自分たちは「犠牲者」だと言い立て、「加害」を否認するのは、民族主義者(ナショナリスト)の特徴です。だとしたら絶対平和を唱える戦後日本のリベラルは、民族主義の一変種なのです。――というような不都合な話を、新刊の『DD(どっちもどっち)論 「解決できない問題」には理由がある』(集英社)で書いています。

参考:林志弦『犠牲者意識ナショナリズム 国境を超える「記憶」の戦争』澤田克己訳/東洋経済新報社

『週刊プレイボーイ』2024年8月26日発売号 禁・無断転載