ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。
今回は2017年10月12日公開の「デンマークの白人男性・モーテンがイスラム教に改宗し、 やがてスパイとなった理由」です(一部改変)。
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アンナ・エレルの『ジハーディストのベールをかぶった私』(本田沙世訳/日経BP)は 、フランス人の女性ジャーナリストがジハーディストとの結婚に憧れる若い(白人)女性に扮し、インターネット上でIS(イスラム国)幹部と接触を試みた稀有な記録だ。
それに対してモーテン・ストームの『イスラム過激派二重スパイ』(庭田よう子訳/亜紀書房)は、デンマークの地方都市に生まれた白人男性がイスラーム原理主義に傾倒し、ウサーマ・ビン・ラーディンとつながるアルカーイダ幹部と接触をもち、その結果、イギリスの情報機関MI5(軍情報部第5課)やアメリカのCIA(中央情報局)にスパイとして雇われることになった経緯を語った、これもまた稀有な証言だ。
13歳で拳銃強盗
モーテンは1976年にデンマーク、シェラン島の西端にある人口2万5000人ほどのコアセーで生まれた。労働者階級の父親はアルコール依存症で4歳のときに家を出てしまい、母親の再婚相手は陰気な男で、妻や義理の息子モーテンに繰り返し暴力を振るった。
13歳のとき、モーテンははじめて強盗を試みた。友人が父親の22口径のリボルバーを持ち出し、目出し帽をかぶって、安煙草を売る老人の店を襲ったが抵抗されて失敗し、近くのテイクアウトの料理店に押し入ったところ、カウンターにいたのは家族ぐるみでつきあっていた女性だった。たちまち「モーテンなの?」と見破られ、慌てて逃げ出した腹いせに道端にいた年配女性のハンドバッグをひったくったところ、女性は転倒して腰の骨を折った。
それが悪循環のはじまりで、学校でも問題児だったモーテンはADHD(多動性障害)の子どものための「特別支援学校」に送られた。教室での授業は1日2時間だけで、あとはチェーンソーで森の木を切ったり、へとへとになるまでサッカーさせたりして「障害のある」子どもを健全な市民に育てようとする施設だが、そこですら廊下にホースを引き込み放水するような悪行を繰り返すモーテンをもてあまし、生徒を退学処分できないはずの学校を退学させられることになる。
16歳で学校から路上に生活の場を移したモーテンは、「レイダーズ」という不良グループに加わった。アメリカンフットボールのオークランド・レイダーズのロゴ入り帽子かぶったグループのメンバーは、主にパレスチナ人、トルコ人、イラン人などのムスリムだった。モーテンは彼らとつるんで、ありあまる時間を安ビールを飲むことと手当たり次第女の子をモノにすることに注いだ。ムスリムの友人たちは、反移民や反イスラームの主張には反発したが、戒律にはしばられていなかった。
アマチュアのボクシングクラブに通っていたモーテンは、トレーナーから将来性を見出されたものの、女の子をめぐるトラブルで相手の男性を暴行したことで警察に捕まり、少年院に4カ月送られることになる。
少年院で18歳の誕生日を迎え、出所すると運転免許が取得できるようになっていた。するとボクシングジムのトレーナーは、煙草の密輸ビジネスをやらないかとモーテンを誘った。デンマークは消費税率が高いので、税率の低いポーランドで3分の1に価格で購入した煙草をドイツやデンマークで売りさばくだけでかんたんに儲かったのだ。
こうして金回りがよくなったのも束の間、バーで絡んできた酔っ払いを殴り倒したことでまたしても逮捕され、暴行で半年間、刑務所に服役することになる。服役中、モーテンはバンディドスという地元の暴走族の幹部と知り合い、出所後は地元コアセーの支部リーダーとなって、毎日のように路上やナイトクラブで乱闘沙汰を繰り返した。
拘置所でイスラーム原理主義にスカウトされる
絵に描いたような犯罪者への道を歩んでいたモーテンがなぜイスラームに改宗したのかは、じつはあまりはっきりと述べられてはいない。あるときから暴力を振るうことに罪悪感を覚えるようになった。かつての友人たちが大学を卒業し、定職につき、恋人をつくるのを目にするようになった。新しい恋人(パレスチナ出身だがキリスト教徒)ができて結婚を約束した、などの出来事があって、ある日、町の図書館に行った。歴史と宗教のコーナーで預言者ムハンマドの生涯にについて書かれた本を手に取ったモーテンは、たちまち引き込まれ、閉館まで6時間も読みふけった、のだという。
ほんとうにこんなわかりやすいきっかけがあったかは別として、モーテンは21歳のときに地元のモスクでイスラームに改宗した。しかしそれは、戒律を守る敬虔なムスリムのイメージとはまるでちがっていた。モーテンの仲間たちは、アパートに集まって、何十本ものビールを空にして改宗を祝ったのだ。
「家の前に川が流れており、1日に5回、その川で体を洗うとする。すると、そのあとに体にほこりや汚れがついているだろうか? 日々、1日5回礼拝することは、これと同じように、罪を洗い流す」
ムスリムの不良たちは、こうした理屈で、アルコールやドラッグ、セックスを好きなだけ楽しんでいたのだ。
だがそこで転機が訪れる。身に覚えのない銀行強盗未遂容疑で逮捕されてしまったのだ。
新米のムスリムとして、モーテンは拘置所で豚肉を食べることを拒否した。するとそれを知って、同じ拘置所にいる、スレイマンというムスリムの改宗者が近づいてきた。
「選ばなくちゃいけない」2人で運動場を歩いているとき、スレイマンはモーテンにいった。「アルコールを飲んだり、ドラッグをやったり、善意を持たずに人生を送るようならば、アッラーはおまえを真のムスリムとは認めてくださらない。心はアッラーのおられる聖域だ。だから、アッラー以外の何者も己の心に住まわせてはならない」
銀行強盗での告発が見送られ、拘置所を出ると、モーテンは暴走族から足抜けするために、スレイマンとともにイギリスに渡ることにした。スレイマンの妻はパキスタン出身で、実家の家族がイギリス中部のミルトン・キーンズで暮らしていたのだ。
渡英して数週間たった頃、モーテンは勇気をふるって、デンマークにいる恋人に電話をかけた。「いい仕事が見つかった。貯金もしている。きちんとした住まいもある」というモーテンをさえぎって、彼女が叫んだ。「あんたもイスラムもくそ食らえよ。イギリスなんかに住みたくないし、あんたと暮らしたくもない」
呆然として電話ボックスを出ると、通りの向こうから「アッサラーム・アライクム(あなたに平安あれ)」と声をかけられた。近くで売店を営んでいる中年のパキスタン人で、帽子でモーテンがムスリムだと気づいたのだ。婚約が解消されたことをすこしだけ話すと、男は同情して、「わたしの仕事を手伝ってくれないか。わたしもあんたに手を貸そう。もう若くないので、店の商品や荷物のことで手を貸してもらいだいんだ」といった。
親切な男の売店で働くことになったモーテンは、ある日、休みをもらってロンドンのリージェント・パークの端にある有名なモスクを訪れた。そのモスクの本屋で、サウジアラビア人が声をかけてきた。彼はヨーロッパ人の改宗者が現われたことを喜び、「イスラムを学びたいなら。イスラムの国に行ってみてはどうかね?」とモーテンに勧めた。
「イエメンに行かせてあげよう。イスラム諸国でも、学生ビザが一番取得しやすい国だ。パスポートは?」
あとでわかったが、この男はサウジアラビアの国王一族であるサウード家から世界中に派遣された使者の一人で、(サウジアラビアの国教である)ワッハーブ派にムスリムを引き入れる役目を任されていたのだ。
こうしてモーテンは、イスラームに改宗して1年もたたないうちに、イエメンの神学校で厳格なスンナ派のイスラームを学ぶことになった。
ロンドニスタンのジハード主義者ネットワーク
デンマークの地方都市で手のつけられない不良だったモーテンがイスラームに改宗したあとの経緯はきわめて明快だ。ヨーロッパ系白人がイスラームに改宗するのは珍しいので、モーテンがムスリムだとわかると、デンマークの拘置所でも、イギリスの地方都市の路上でも、モスクの書店でも次々と声をかけられ、ベルトコンベアーに乗せられたように「ほんとうのイスラーム」へと誘導されていくのだ。
イエメンの神学校で1年を過ごしたモーテンは、1998年、イスラーム原理主義のサラフィー主義者としてイギリスに帰還することになる。
ロンドンのモスクに出入するようになったモーテンのまわりに、たちまち熱心なムスリムの若者たちが近づいてきた。とりわけ下町のブリクトンや北部のフィンズベリー・パークにあるモスクは、サラフィー主義者が集まることで知られていた。
1990年代のイギリスはアラブ諸国のジハード主義者に対して寛容な受入れ政策を採っており、ロンドンは「ロンドニスタン」と呼ばれるほど、過激な思想を抱くムスリムが「亡命」してきていた。彼らはみな、ムスリムを迫害する欧米に恨みを晴らしたいと怒りに燃えていた。
モロッコ系フランス人のザカリアス・ムサウィは、友人と2人でフランス当局の追及から逃れてロンドンに渡ってきた。30歳になったばかりで、ロンドン・サウスバンク大学で修士号を取得していた。寡黙で控えめで、自分のことはめったに話さず、家族の話はけっしてしなかった。
当時はネット動画の黎明期で、ロシア軍がチェチェンの首都グロズヌイで民間人に残虐行為を行なう映像をみんなで見た。ムサウィは目を輝かせ、頭を横に振りながら画面にじっと見入り、「不信心者(カーフィル)のロシア人め」とつぶやいた。「グロズヌイでロシア軍一個小隊を道連れにできるなら、喜んで死ぬよ」
1999年10月、ロシアがグロズヌイで地上戦を開始し、焦土作戦によって何万人もの市民が家を捨てて逃げることを余儀なくされた。それにもかかわらず、ロンドンのモスクの説教師は、チェチェンの抵抗への支援活動はおろか、彼らのために祈ろうと呼びかけることさえしなかった。ムサウィは怒りをあらわにし、戦闘服を着てブリクストンのモスクに現われ、さらに過激な北ロンドンのフィンズベリー・パークのモスクに通うようになった。
そんなムサウィに畏敬の念を抱いていたのがジャマイカ系イギリス人のリチャード・リードで、軽犯罪の前科があり、キリスト教からイスラームへの改宗者だった。
1999年末頃、ムサウィとリードとの連絡が途絶えた。2人がアフガニスタンに行き、アルカーイダの軍事キャンプで訓練を受けているという噂が流れた。
2001年9月11日の同時多発テロのすこし前、ムサウィはミネソタで逮捕された。彼は飛行機の操縦訓練を受けるためにアメリカに入国しており、事件後に「二十人目の実行犯」として知られることになる。
2001年11月22日、リードは靴に爆薬を仕込んでパリ発マイアミ行きの便に搭乗し、靴に隠した導火線に火をつけようとしたとき、客室乗務員と乗客に取り押さえられた。その後リードは「シュー・ボマー」と呼ばれるようになった。
気づかないうちに、モーテンは「ロンドンニスタン」のジハード主義者ネットワークの中心にいたのだ。
モロッコの娘との結婚と破綻
2000年はじめにモーテンはデンマークに帰国し、数カ月の刑に服することになる。旅行中にパスポートが破損していたためで、再発行するにはデンマーク大使館に行かなくてはならなかったからだ。パスポートが必要なのは、敬虔なイスラームの国で暮らしたかったからだという。
しかしそこには、もうひとつ理由があったようだ。
その頃、モーテンはネットでムスリムの“婚活”サイトをよく閲覧していた。ヒジャブを着用し、かしこまった表情の写真をアップする女性たちは、敬虔で従順な良き妻になると約束していた。
そのなかでモーテンは、モロッコの首都ラバトに住むカリーマという女性に目を引かれた。カリーマは英語を話し、教養があり、戒律を重んじる女性だった。彼女はモーテンにひと言、「わたしと結婚するつもりはありますか?」という質問を投げかけてきた。
ここからわかるのは、イスラーム諸国には、結婚によってヨーロッパに移住することを夢見る若い女性がたくさんいるということだ。だが彼女たちは、ムスリムの男性としか結婚することができない。それが白人であれば、なおさら都合がいいだろう。
パスポートを手に入れたモーテンはすぐにモロッコに飛び、カリーマの兄弟の事前審査を受けた。イエメンの神学校で学んだことが好印象を与え、結婚の許可はかんたんに下りた。
カリーマは小柄で、オリーブ色の肌にアーモンド形の目をしていた。慎み深い態度から、深い信仰心をもっていることがわかった。数日後、2人は結婚した。
同時多発テロの翌年、カリーマはモロッコで男児を出産し、モーテンは息子をウサマと名づけた。名前を知らせると、母は電話の向こうで「ダメよ、そんな名前。気は確かなの?」と叫んだ。
それでも2002年の夏、生後3カ月の孫を見せにモーテンは妻とデンマークに帰郷した。最初の歓迎の時期が過ぎると、この奇妙な家族は近所から疑いの目で見られるようになり、アラビア語が飛び交う地区の3LDKのアパートに引っ越すことにした。
この頃から、夫婦関係はうまくいかなくなった。
ヨーロッパでの快適な生活に憧れていたカリーマには、みすぼらしいアパートは意に染まなかった。じゅうぶんな生活を送れないことで夫をなじるようになり、モーテンがイギリスに仕事を探しにいっているあいだにモロッコに帰ってしまった。カリーマは第二子を妊娠していて、2003年8月にラバトで娘のサラが生まれた。
モーテンはイギリスの地方都市で倉庫のフォークリフトを運転する仕事を見つけ、カリーマが2人の子どもを連れてモロッコからやってきた。しかしイギリスに移っても夫婦関係は冷え切ったままで、カリーマは感情の起伏が激しくなり、子どもの世話にも手を焼いた。あるときなど、長いあいだ家に帰らなかったことで口論になり、カリーマはモーテンの顔につばを吐きかけた。
2004年の秋、カリーマはいった。「出ていってもらえない? 家にいてほしくないの」
カリーマが求めたのは“イスラム式離婚”で、しかも新しい夫探しを手伝ってほしいという。見ず知らずの男を子どもたちの住む家に入れるよりはましだと思い、モーテンはトルコ人の友人を妻に紹介した。
その友人も「彼女には我慢ならなかった」と3日で家を出て、けっきょくモーテンが家に戻ることになった。イギリス情報機関のロバートが家を訪ねて来たのは、ちょうどその頃だ。
「エゴイストのジハーディスト」がスパイになった理由
MI5がモーテンに目をつけたのは、ロンドンのジハーディスト・ネットワークとのつながりに気づいたからだ。そのときは玄関口の会話だけで終わったが、近くに停めた車ではデンマークの情報機関の人間がモーテンを監視していた。
その後、モーテンの結婚生活はかんぜんに破綻した。カリーマが親友のモロッコ人女性の夫と不倫したばかりか、密かにイスラム式の結婚式をあげていたのだ。モーテンが3歳になる息子のウサマを連れて家を出ると、カリーマは警察に誘拐だと通報し、調停を申し立てる前に娘のサラを連れてモロッコに戻ってしまった。
傷心のモーテンはウサマを連れてイエメンに行き、そこでファディアという女性と出会って再婚する。ヨーロッパ系白人のムスリムは、イエメンのような「発展途上」のイスラーム諸国ではかんたんに結婚相手を見つけることができるのだ。
新しい妻を連れてデンマークに戻ったモーテンに、こんどは警察の一部門である情報機関PETが接触してきた。イェンセンと名乗る男は、「我々はとしてはただ、あなたも、あなたの友人たちも、デンマークの安全に危害を加える意図をお持ちでないことを確認したいのです。できたら、ご協力いただけませんかね」といった。
そのときモーテンは、ジハードのためにソマリアに渡るつもりだった。だがヨーロッパに着いたばかりの妻に反対され、ソマリアの情勢も変わって渡航が不可能になったことで、モーテンの気が変わりはじめる。このあたりの心情もはっきりとは述べられていないのだが、いずれにせよ、「アッラーなんかくそくらえ、預言者ムハンマドもくそくらえ」と思うようになる。イスラームを棄教したモーテンは情報機関に寝返り、ジハーディストのネットワークに潜入するスパイになるのだ。
その後、モーテンはロンドンに渡ってMI5にテロ情報を提供し、次いでCIAが接触してきて、アルカーイダの幹部の所在を知るためにイエメンに行くよう要請される。このあたりの波乱万丈の展開が本書の読ませどころなのだが、モーテンによれば、MI5は紳士的で約束を守るもののカネがなく、CIAは目的のためならカネは惜しまないがスパイの生命などどうでもいいと思い、デンマークの情報機関PETはモーテンを使っておいしい思いをすることだけを考えていた。
本書はモーテンの自伝で、当然のことながら彼はつねに“正義”の側にいる。しかしその装飾を差し引けば、デンマークの地方都市の不良がイスラーム過激派になった理由は明らかだ。
このままではチンピラとして一生を終えるほかないと気づいたとき、誰かから「ひとかどの男」と認められるためにモーテンに残された選択肢は、もはや「宗教」しかなかった。おまけにイスラームに改宗すれば、ヨーロッパに憧れるアラブの若い女性をかんたんに妻にすることができる。
同様に、モーテンが情報機関に寝返ってスパイになった理由もとてもわかりやすい。ジハーディストとして当局に監視され、いずれ刑務所に送られるより、彼らに協力してカネと名誉を手にしたほうがずっといいに決まっているのだ。
アフガニスタンでジハード戦士がソ連軍を撤退させ、「悪の帝国」ソ連を崩壊に追い込むという「偉大な勝利」を達成したあと、ヨーロッパで新たなジハード主義が勃興し、多くの白人の若者がイスラームへと改宗した。彼らのなかにはドロップアウトした不良もたくさんいたから、モーテンのケースはけっして特別なものではない。風刺雑誌シャルリー・エブド襲撃事件以降、フランスにおいては、刑務所がイスラーム過激思想を洗脳する「孵化装置(インキュベーター)」になっていると指摘されるようになるが、これもモーテンの体験と同じだ。
唯一ちがいがあるとすれば、白人改宗者の多くが自らのイスラーム・アイデンティティを証明するためジハードにのめりこんでいくのに対し、モーテンは自死するには賢すぎ、かつ自己中心的だったことだろう。
わたしちはこの「エゴイストのジハーディスト」によって、イスラーム過激派ばかりでなく、CIAやMI5の内幕まで教えてくれる貴重な記録を手にすることができたのだ。
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