イスラム国はいかにして生まれたのか

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2016年9月29日公開の「アメリカの素朴な「民主主義」への幻想が 「イスラム国」を生み出した」です(一部改変)。

Mohammad Bash/shutterstock

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イギリスの国際政治学者トビー・ドッジの『イラク戦争は民主主義をもたらしたのか』( 山尾大解説、山岡由美訳/みすず書房)は、タイトルで損をしている本の典型だろう。誰だってその答えは知っている。いまのイラクには「民主主義」のかけらもないのだ。

しかし、これは仕方のないことでもある。原著が刊行されたのは2012年で、そのタイトルは“IRAQ: From War To A New Authoritarianism(イラク 戦争から新たな権威主義へ)”とされていた。

「新たな権威主義」とは、2008年にシーア派などの支持でイラク首相となったヌーリー・マーリキーのことだが、邦訳が刊行された2014年6月にはマーリキー政権は末期を迎えており、8月には政権の座を追われてしまった。「新たな権威主義」が崩壊したのは、シリア国境から勢力を伸ばしてきたIS(イスラム国)によってイラク北部の都市が次々と陥落したためだ。周知のように、その後ISは国際社会の最大の脅威になるが、この時点ではそこまで予測するのは困難だった。

だがいまなら、もっといいタイトルをつけることができる。たとえば、『イスラム国はいかにして生まれたのか』のように。

ISの前身は「イラク(ないしはメソポタミア)のアルカーイダ」で、それが2006年に「イラク・イスラム国(ISI)」、2013年に「イラクとシャームのイスラム国(ISIS)」を名乗るようになる。

シャームはシリア、レバノン、ヨルダン、パレスチナを含む東地中海沿岸地域を指すアラビア語で、英語では「レバントThe Levant」に相当する。こちらを使うとISIL(イラクとレバントのイスラム国)になるが、「レバント」は西欧の呼称で植民地主義の残滓として嫌われるため、「ISIS(アイシス)」の呼称が一般的になった。それが2014年6月に「国家」の樹立と「カリフ制」を宣言し、「イスラム国(Islamic State)」を名乗るようになったのだ。

もっとも、欧米はもちろんアラブ諸国もこれを国家と認めていないため、日本では「IS」、CNNなど欧米メディアは「ISIS」、アラブ圏ではアラビア語の頭文字をとって「ダーイシュ」と呼ばれている。こうした来歴を見ても、「イスラム国」がイラクに起源を持つことは明らかだ。

ドッジがこの本を執筆したときはまだアラブの春がシリアを崩壊させることは予測できなかっただろうが、2003年3月のイラク戦争からアメリカによる占領、11年12月のオバマ大統領の「終結宣言」までを冷静に評価することで、イラクでなぜ「イスラーム原理主義の暴力的カルト集団」が育っていったのかが鮮やかに描写されている。

暴力の前史

ドッジはまず、イラクにおける「暴力の前史」から話を始める。

イラクはサッダーム・フセインのもと、1980年から88年まで“革命”イランと戦い、1991年にはクウェート侵攻でアメリカを中心とする連合軍に「懲罰」され、その後も大量破壊兵器保有の疑いで経済制裁の対象となったことで高度に軍事国家化していた。

1989年には、この国の常備軍は兵力100万、備蓄兵器(火器)420万という規模になり、同時に民間人による銃砲の所有件数も跳ね上がって、320万の銃がふつうの人々の手に渡ったとされる。

9.11の同時多発テロを背後で操ったとして、2003年、アメリカとイギリスの連合軍がイラクへの開戦を宣言すると、国軍はあっけなく崩壊して武器庫は民衆の略奪にあい、治安機関が管理していた420万の銃砲が社会の隅々にまで出回った。2003年5月1日の「戦闘終結宣言」で連合国暫定当局による統治と復興事業が始まるが、その時点ではイラクは完全な銃社会になっていた。

略奪の対象になったのは、銃などの武器にとどまらなかった。バアス党政権が倒れると、最初の3週間でバグダードにあった23の官公庁施設のうち17が、がらんどうと化した。はじめはコンピュータなど持ち運びが容易なものが狙われたが、そのうち家具調度類、さらには壁に配線されていたケーブルまでが取り除かれ、銅とアルミニウムの価格を大幅に押し下げるにいたった。

この混乱に輪をかけたのがアメリカの占領政策だった。米政府が派遣した文民行政官ポール・ブレマーは就任するやいなやイラク軍の解体を決定した。訓練を受けた40万もの元国軍兵は武装した状態で街頭に放り出され、失業の憂き目にあった。

ブレマーはさらに脱バアス党政策を推し進め、旧政権の幹部や行政官が大量にパージされ、公務員の上層を占めていた2万から12万人が職を失ったとされる(数字に大幅な開きがあるのは信頼できる統計がないからだ)。

アメリカは占領軍として、フセイン政権時代の軍、警察、行政機構をほぼ完全に解体したが、それを補完するだけの要員をイラクに留めておこうとはしなかった。そうなれば、権力の空白は旧政権とつながりのない者が埋めるしかない。

フセイン政権の母体だったバアス党はアラブ民族主義の政党だが、イラクでは少数派のスンナ派が上層部を占めていた。アメリカが信奉する「民主主義」からしても、新生イラクは多数派のシーア派が中心になるのが当然だった。こうして、アメリカの肝煎りで設立された統治機構「イラク統治評議会」はシーア派13人、スンナ派5人、トルコマン人とキリスト教徒がそれぞれ1人という構成になった。そのシーア派も亡命者が中心で、国外でイラク侵攻を積極的に支持した彼らは、バグダードに戻っていち早くイラクの政治機構を独占することに成功したのだ。

アメリカ占領軍の政策は、イラク国内の既存の政治エリートに統治機構内のいかなる役割も与えないというものだった。それは結果的にシーア派を一方的に優遇し、スンナ派を徹底して排除することになった。こうしてイラク社会に潜在していた宗派対立を目覚めさせることになったのだ。

ファルージャ攻撃

ドッジは、イラク社会が暴力によって崩壊するきっかけをつくったのは、米軍によるファルージャ攻撃だという。

「モスクの街」とも呼ばれるファルージャはイラク中部の都市で、住民の多くはスンナ派でバアス党幹部を多く輩出していた。占領後は治安維持をアメリカ海兵隊が担当していたが、2003年4月、学校に米軍が駐留していることに抗議していた住民に米軍が発砲し、17名が死亡する事件が起きた。

この「虐殺」への報復として04年3月、アメリカの民間警備会社に勤める4人が現地武装勢力によって殺されると、海兵隊はファルージャをテロリストの巣窟として4月に包囲掃討作戦を開始し、3日間で住民・武装勢力600人が死亡する大きな被害を出した。9月にはアルカーイダ系の武装勢力の掃討を目的に連日空爆を行ない、11月には米海兵隊とイラク治安部隊(シーア派)の合同軍が大規模な攻撃を仕掛け、1週間の攻撃で武装勢力1000人以上を殺害したが、これによってファルージャの街は灰燼に帰し、30万の住民の大半が避難民になった。

ファルージャを逃れて過激化したスンナ派避難民は、スンナ派が多く住むバグダード西部に流れ込み、それまで複数の宗派が共存していたこの地域からシーア派住民を追放した。こうして05年5月には、バグダードとその近郊は内戦の渦中に投げ込まれることになったのだ。

スンナ派の武装組織で主導的な役割を果たしたのはイラク・イスラーム軍、アンサール・スンナ、イラク・イスラーム抵抗戦線、イラクのアルカーイダなどの集団だが、その名前からわかるように、この時点で抵抗のイデオロギーはイラク民族主義から宗派主義(スンナ派のシーア派に対する戦い)に変わっていた。なかでももっとも凶悪なのはイラクのアルカーイダで、ウサーマ・ビン・ラーディンの側近であったヨルダン生まれのザルカーウィーは、米軍施設やシーア派モスクへの自爆攻撃によってイラクを血なまぐさい内戦の泥沼に引きずり込むことを目論んだ。

「壁に囲まれたゲットーの寄せ集め」と化したバグダード

スンナ派武装組織が自動車爆弾や自爆テロといった手段でシーア派モスクを攻撃し、多数の犠牲者を出すと、こんどはシーア派社会の代弁者を標榜する民兵組織がスンナ派ムスリムに対する報復に出て、誘拐や殺害を繰り返した。05年1月から6月までのあいだに130件の自爆テロが起きたが、その大半は他の宗派を狙ったものだ。

06年2月22日、シーア派にとってもっとも神聖な聖廟とされるサーマッラーのアスカリー廟モスクが爆破され、多数の信徒が死傷したことで宗派間の暴力はさらに激しさを増した。イラク最高位のシーア派ウラマーであるアリー・シスターニー師はそれまで宗派主義的な暴力行為を禁じていたが、この爆破事件を受けて1週間の服喪と抗議行動を呼びかけた。さらに、政府が信仰の場所を守ることができないのであれば、「神の助けを借り、信徒が守る」と付け加えた。これによって、バグダード内のスンナ派モスクが次々と報復の対象とされた。

だがそれよりも深刻なのは、宗派主義に基づく暴力を恐れ、あるいは脅迫を受けたために避難するひとびとの大規模な人口移動が生じたことだった。イラク政府の推計では、この爆破事件後に発生した避難民は36万5000人にのぼり、そのほとんどはバグダードおよびその近郊の者だった。また軍関係者によると、バグダードの殺人発生状況は深刻の度を増し、1日平均11件から33件に増えた。国連の統計は、2006年だけで3万4452人の民間人が殺害されたことを示している。

憎悪と暴力の連鎖が止められなくなると、どの宗派に属するひとも、自らを犠牲者と考えるようになった。バグダード市民は自分たちの居住区にこもり、暗殺集団や自爆テロリスト集団から身を守るために遮蔽物を設けた。民兵組織が常駐していない地区では、住民が武装集団を結成したり、金銭(みかじめ料)を払って民兵組織に警備を依頼するなどの対策をとらざるをえなかった。暴力の激化によって宗派ごとに市民が分断され、06年が終わるころには、バグダードは壁に囲まれたゲットーの寄せ集めと化していた。

シーア派政権による戦争犯罪

このように経緯をまとめると、イラクのアルカーイダなどスンナ派の武装組織が暴力の引き金を引いたように思えるが、事実はそう単純ではない。それ以前のアメリカの占領政策が、既存の支配エリートと、その出身母体であるイラクのスンナ派全体を意図的に排除し、悪者に仕立てあげるものだったからだ。

これまで「二級市民」として冷遇されていたシーア派が権力を掌握すると、早くも2003年からバグダード市内および近郊でバアス党の旧幹部を標的とした粛清が始まった。やがて米占領当局は、政権与党がこの攻撃作戦を支援していることに気づく。シーア派政権は、バグダードからスンナ派住民を放逐するために警察・軍事機関を利用したのだ。

イラク駐留米軍の顧問を務めたマクマスター准将は06年当時を振り返って次のように語る。

こうした活動(バアス党旧幹部への暗殺作戦)のほとんどは戦争犯罪だ。イラク政府と治安機関のなかにいる指導的人間が計画・組織した戦争犯罪なのだ。

スンナ派弾圧の先頭に立ったのは内務省特別警察突撃隊(後に国家警察に改称)で、内務相のバヤーン・ジャブルは、それ以前はシーア派の暴力的な民兵組織バドル軍団を率いていた。治安機関を掌中に納めたジャブルは「徹底的に浄化」するため、手始めに解雇の対象を大幅に拡大し、その代わりにバドル軍団の構成員を可能なかぎり雇い入れた。彼ら「制服を着た民兵」によって、内務省傘下の特別警察突撃隊(国家警察)は暗殺集団と化した。

米軍部隊の指揮官ジェームズ・ダンリーが、特別警察突撃隊の作戦行動を目撃している。

国家警察は宗派に基づいて人を殺害していた。彼らがそこにいたのは住民を殺すためだ。あれは掃討作戦以外の何物でもないと思う。国家警察の部隊はスンナ派の地区、ちょうどアメリカにあるのと同じような住宅地区だが、そこに侵入して銃を乱射する。手当たり次第に射撃するのだ。建物に押し入って無差別に撃つ……我々はこれをデス・ブロッサムと呼んでいた(Death Blossomは1984年製作の米映画『スター・ファイター』のなかで使われる秘密兵器。主人公はこれを使って敵を全滅させる)。

05年11月 内務省の拘禁施設にようやく米軍の捜索が入り、「言語を絶する劣悪な環境で」収監されていた170人を発見した。うち166人はスンナ派のムスリムだった。

だがこの不祥事が表沙汰になり拷問の横行が暴露されても、内相のジャブルが責任をとって辞任することはなかった。06年に新政権が誕生するとようやく内相を辞したが、その代わりさらに大きな影響力を行使できる財務相に就任した。

サドルとマフディー軍

米軍占領時代、シーア派民兵のなかで最大の組織はムクタダー・サドル率いるマフディー軍で、国軍よりはるかに多い6万人を動員できるとされた。反フセインのシーア派政治組織を設立して暗殺された父の跡を継いだサドルは、バアス党政権崩壊後に急速に勢力を伸ばし、バグダッド東部にあるシーア派のスラム地区を完全に掌握して200万の住民を支配下に入れた。この地域はバアス党政権時代はサッダム・シティと呼ばれたが、2003年にはサドル・シティに改称された。

バグダード東部を支配したサドルとマフディー軍の次の目的は、宗派混在地区からスンナ派を追放することだった。サドルの民兵は夜陰に乗じてサドル・シティを出発し、チグリス川を渡ってバクダード北部および西部で討伐作戦を展開するようになる。

部隊は宗派混在地区やスンナ派集住地区に侵入して、1回の攻撃で60人もの住民を捕捉し、車のトランクに押し込んだ。翌朝には、サドル・シティのはずれに拷問の痕跡が残る遺体が打ち捨てられていた。

スンナ派住民を弾圧するのは、武装警察やシーア派民兵組織だけでなかった。財務省はバグダード最大のスンナ派集住地区の銀行業務を組織的に停止させた。バグダード西部に閉じ込められたスンナ派住民の居住区は徐々に狭まり、首都の西部から北部に広がるアンバール県に避難する動きも生まれた。

2005年と06年には、経済的に豊かな層が住んでいたマンスールやヤムルークなどチグリス川以西の地区が狙い撃ちにされ、暴力的な強制移住が強行された。07年初頭にはこの地区はすっかり荒れ果て、市場も商店も閉鎖され、取り残された住民は軟禁同然の状態で家にこもっていた。民兵による殺人と脅迫だけでなく、スンナ派居住地区では銀行も開いておらず、医療サービスも停止していた。

サドル自身は粗暴な反米強硬派で、連合国暫定当局のイラク占領を公然と批判するなど穏健派のイマーム(法学者)やアメリカ占領当局とも衝突したが、2005年12月の全国選挙でマーリキーが首相になると、一転して権力の一翼を担うことになる。マーリキーが首相の座を射止めたのは、サドル一派が支持に回ったからだった。

論功行賞でサドル一派は厚生相や運輸相といった閣僚ポストを獲得し、その利権でますます肥え太っていく。それだけなら他の有力者もやっていることだが、問題になったのは、厚生省管轄の施設警備隊にマフディー軍が大量に採用されたことだった。病院をはじめとする医療施設はシーア派民兵の監視哨と化し、サドル一派に反対する医師や幹部職員は殺され、あるいは追い出された。スンナ派の病傷者の殺害を裏付ける情報も流れている。

宗教浄化(レリジャスクレンジング)

イラク戦争後の占領時代とはいったい何だったのか。それは次の3つの数字に象徴されている。

2003年から11年にかけて、アメリカ政府はおよそ610億ドルをイラクの行政および軍事機構の再建のために投入した。これは、「一国に対して行なわれた救援・復興事業としてはアメリカ史上最大の規模」とされる。

それにイラク政府が国家再建のために投じた金額を加えると、12年3月までの時点でその総額は2000億ドルにのぼる。

その結果、05年に120万人だった公務員の数は08年には230万人に膨れあがった。06年の試算では労働人口の31%が政府で公務に従事し、08年には35%に達する見通しだとされた。

占領治下のイラクで起きたのは、要するに、日本円で20兆円を超える巨額の利権の帰属をめぐる争いだった。そのとき敵と味方を分けるもっともわかりやすい指標は、イラクの場合、人種でも民族でもなく宗派だった。

冷戦終焉後の最大の悲劇となったユーゴスラヴィア内戦では、セルビア人、クロアチア人、ボスニア人が三つ巴で殺しあった。しかし歴史的には彼らはもともと同じ民族で、それがさまざまな偶然から(セルビア)正教、カトリック、イスラームの3つの宗教に地理的に分かれたにすぎない。

しかしユーゴスラヴィアが解体し、秩序と治安を守ってくれる国家権力が消滅すると、彼らは悪魔にとりつかれたかのように隣人たちを殺しはじめた。そこにあるのは善と悪の対立でも、加害者と被害者の関係でもなく、「殺さなければ殺される」という恐怖心だけだった。その恐怖を過激な民族主義者が煽ったのも、イラクの状況と酷似している。ユーゴスラヴィアの惨劇を「民族浄化(エスニッククレンジング)」と呼ぶならば、イラクで起きたのは「宗教浄化(レリジャスクレンジング)」だ。

「希望と進歩」の結果

ドッジの『イラク戦争は民主主義をもたらしたか』は、腐敗にまみれたマーリキー政権が「新たな権威主義」を確立するところで終わっている。アメリカが目指した民主化は失敗に終わったものの、その一方でバグダードの死者は07年後半から減少に転じた。

これは07年1月にブッシュ政権がサージ(大規模派兵)を決め、最終的に2万8000人もの増援部隊をイラクに送り込んだ効果が大きい。米軍は増強した勢力でスンナ派地区の掃討作戦を行なっただけでなく、現地のスンナ派住民や指導層の取り込みもはかった。とりわけ重要なのは、部族勢力や旧軍人からなる自警団を「イラクの息子」として組織させ、マーリキー政権に要求して、政府系民兵として雇用して現地の同盟勢力にしたことだ。

だがスンナ派の武装勢力が権力の内部に組み込まれることをシーア派は強く警戒した。サージの成果を受けてオバマ政権が11年末に米軍を完全撤退させると、マーリキーはそれまでの約束を反故にし、「イラクの息子」への給与支払いを止めただけでなく、政権内のスンナ派幹部にテロ支援の嫌疑をかけて訴追や追放を行なった。その結果、スンナ派勢力は米軍増派以前にも増した敵意と憎悪をイラク政府に抱くことになった。

11年3月、「アラブの春」の反体制活動がシリアに及ぶと、イラクのスンナ派武装民兵組織はシリアを拠点に息を吹き返した。石油の密輸や人質の身代金で得た豊富な資金で組織を拡大し、イラクやシリアの政府軍から最新鋭の武器を捕獲したことで戦況は一気に優勢に転じ、イラク国内のスンナ派住民の暗黙の支持もあって、電撃的に「国家」として必要な領土を確保したのだ(池内恵『イスラーム国の衝撃』文春文庫)。

イラク戦争開戦前の2003年2月、ジョージ・W・ブッシュ大統領は次のように世界に宣言した。

イラクが解放されれば何百万人もの人のもとに希望と進歩が訪れ、自由というものにこの重要な(中略)地域を変える力があることを証明できる。

世界はいま、この「民主主義」への素朴な幻想がなにをもたらしたのかを目の当たりにしている。

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