「イスラム国」の首都モースルでジャーナリストが見たものは?

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2017年8月17日公開の「IS(イスラム国)に潜入したドイツ人ジャーナリストが 見た衝撃の内実とは?」です(一部改変)。

Mohammad Bash/Shutterstock

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米軍の支援を受けたイラク軍が、IS(イスラム国)に支配されていたイラク北部の主要都市モースルを奪還したことで、次の焦点はシリア側にある「イスラム国の首都」ラッカへの攻撃に移っている。すでに各国のメディアがモースルから報道をはじめているが、「イスラム国」への潜入を試みたジャーナリストはそれ以前にもいた。その興味深い記録のひとつとして、ここではドイツ人のジャーナリスト、ユルゲン・トーデンヘーファーの『「イスラム国」の内部へ 悪夢の10日間』(津村正樹、カスヤン、アンドレアス訳、白水社) を紹介したい。

話の前提として、イラクはシリアとともに、植民地時代にイギリスとフランスの領土分割によってつくられた「人工国家」で、イスラームのスンニ派とシーア派、およびクルド民族という異なる宗派・民族、異なる利害集団がひとつの「国家」に押し込められていることを確認しておこう。

フセインの独裁政権では少数派のスンニ派が多数派のシーア派や北部のクルド民族を抑圧することで平和が保たれていたが、2001年の9.11同時多発テロを口実に米ブッシュ政権がフセイン政権を崩壊させイラクを「民主化」した結果、多数派のシーア派が権力を握り、クルド民族と共闘してスンニ派への徹底した報復を始めた。モースルなどイラク北部はスンニ派が多数を占めており、この報復に反発した住民たちが率先してISを受け入れたことで、イスラーム原理主義カルトが「国家」を樹立するという驚くべき事態が起きたのだ。

参考:イスラム国はいかにして生まれたのか

「テロリストの友」と呼ばれた偏屈なジャーナリスト

トーデンヘーファーは裁判官からジャーナリストに転身した変り種で、「真実」を知るためには双方の主張に耳を傾けなければならない、ということを裁判官時代に思い知らされたという。検察の論告と弁護人の陳述を聞いたあとでは、被告についての印象がまるで変わってしまうのだ。

「どちらかが100%の正しさを持っていたことなどほとんどない。たいていの場合もう一方の側を正当化する論拠がある。最終的に下した決定がどこから見ても公正だったという感情を持てたことは稀である」と、トーデンヘーファーは述懐する。

ジャーナリストになってからもこの原則を忠実に守り、ソ連がアフガニスタンに侵攻したときは、ムジャーヒディーン(イスラーム戦士)とともに占領下のアフガニスタンに赴くと同時に、モスクワでソ連の参謀本部長と会見した。9.11によってターリバーン政権が崩壊すると、「アメリカの傀儡」といわれたハーミド・カルザイ大統領と会談する一方、ターリバーン指導者の主張も聞いたことで「ターリバーンのスポークスマン」「テロリストの友」などといわれた。

だがもっとも強く批判されたのは、シリアのバッシャール・アル=アサド大統領と会見し、シリア問題の平和的解決のためにアメリカとの関係をとりもとうとしたことだ。リベラルな欧米メディアのあいだではアサドは「残忍な殺人者」とされており、これまで寄稿していた日刊紙からすべての記事の掲載を拒否されただけでなく、「モサド(イスラエルの諜報機関)からカネをもらっている」「斬首だ、ドーフェン(愚かな)ヘーファーさん!」「お前を刺し殺してやる、この汚れたブタめ」などの中傷(というよりも殺害予告)を受けることになった。

これをジャーナリストの鑑と見なすか、偏屈と思うかはひとそれぞれだろうが、このような人物でなければ「イスラム国」を訪れてIS幹部や戦闘員に話を聞こうなどと考えないのもたしかだ。

といってもトーデンヘーファーは無鉄砲なジャーナリストではなく、取材にあたっては万全の準備を試みている、インターネットで「イスラム国」のジハード(聖戦)に参加したドイツ人を探したところ、アブー・カターダと名乗る生粋のドイツ人を見つけた。そこで、ISのメディア部門の幹部らしい彼を通じて、イスラム国の「カリフ国事務局」がISの領土を安全に旅することができる安全保証書を発行するよう交渉したのだ。

アブー・カターダがこの安全保証書を約束したことで、トーデンヘーファーは息子とともに「イスラム国」に向かうことになる。

イスラム国には少なからぬ白人の若者が参加していた

2014年12月6日、トーデンヘーファーはトルコのシリア国境近くの町ガズィアンテプで、迎えに来た白いミニバンに乗り込んだ。しばらくすると、背が高く青い目で白い肌の若い女性が車に乗ってきた。彼女はベルリン出身で、30代半ばくらいだった。

「イスラーム教に改宗し、メッカに巡礼しました。その後、公安機関によって厳しく観察されることになり、最後は6歳の子供を取り上げられてしまいました。メッカ巡礼以降、安住できなくなり、今はすべての期待をISにかけています。ドイツには絶対帰りたくありません」と彼女はいった。

「でも、それではお子さんを永久に失うことになりますよ」とトーデンヘーファーが困惑すると、「もうすべて失っています。これ以上失うものは何もありません」とのこたえが返ってきた。

トルコからシリアへの国境では、戦闘員の一人が鉄条網を通り抜けられるよう有刺鉄線を持ち上げていた。そこを越えると、数百メートル先の木々の後ろに5台の車が隠れて停まっていて、覆面をした5人の男たちが待っていた。「イスラム国」への潜入は、じつにあっけないものだった。

トーデンヘーファーはシリアのラッカでアブー・カターダと合流すると、「大きなマフラーで顔を覆ったイギリスのアクセントで話す運転手」とともに、イラク側のモースルを目指すことになる。

そのモースルでトーデンヘーファーは、金髪のフィンランド人とスウェーデン人と出会う。そのスウェーデン人は、モースルでの生活を「この世の天国、人生で最高の時」といっていた。

それまでも欧米諸国から「イスラム国」に多数の戦闘員が加わっていることは知られていたが、彼らはみな北アフリカなどからの移民出身者だと考えられていた。イスラームの家庭で育った若者が、なにかのきっかけで原理主義的なカルトと出会い、凶悪なテロリストに変貌するのだ。

だがトーデンヘーファーは、少なからぬ白人の若者(それに女性までも)が「イスラム国」にいることを確認した。キリスト教文化で育った若者がイスラームに改宗しISに加わっていることは、ヨーロッパにとって大きな衝撃だった。

彼らはなぜ、カルトに魅了されたのか。じつはトーデンヘーファーは、出発前にデュッセルドルフでアブー・カターダの母親と会っていた。彼の本名はクリスティアンという。

知識欲旺盛な子どもがISに参加するまで

母親の話によると、子どものときからクリスティアンは知識欲旺盛な子で、「死ぬってどういうこと?」などの質問をたくさんした。学力が高く、特別の才能をもった子どもが集まるエリート校に入学したが、すぐに退学になってふつうの学校に戻ることになる。校庭で生徒が上級生からさんざん殴られている場面にでくわし、割って入ってその上級生をはげしく殴ったからだという。

転校した学校では、校長がムスリムの旧友の携帯電話を投げ捨てたことに抗議して退学になる。授業中に携帯を使ったのはムスリムの少年だけではないのだから、彼がそのことで退学になるのなら、自分も同じように放り出されて当然だといったのだ。

20歳前後の頃、クリスティアンは初恋にやぶれた。ザビーネという女性と何年も同棲していたのだが、彼女から別れを告げられたのだ。クリスティアンは二昼夜母親のところで泣きつづけ、まったく立ち直れなかった。母親は、それを境にあらゆることが変わってしまったという。

クリスティアンは母親に頼んで、アラビア語のものも含めてコーランを数冊注文した。アラビア語でコーランを読めるようになるとモスクに通い、エジプトのアレクサンドリアに半年ほど留学した。帰国後は保険会社への就職を断り、ハードウェアとソフトウェアの販売を始めた。このビジネスでクリスティアンは「さまざまな財務上の違法行為」で訴えられたが、無実を主張してたいしたことにはならなかったという。

2011年にクリスティアンは、ムスリム同胞との会合に参加するためイギリスに行くが、入国の際にラップトップにジハードと爆弾製造の文書が保存されていることが発覚し、16カ月拘留の有罪判決を受けることになる。イギリスから国外追放されると、ドイツでは残りの拘留期間を猶予されて保護観察下に置かれるが、その間、引きこもりはますますひどくなって、いつまでも寝ていて、夜の会合に出かけていく以外はほとんどなにもしなくなった。

やがてシリアで戦争が始まり、ある日、クリスティアンはドイツから姿を消した。そしてアブー・カターダとなって「イスラム国」に姿を現わしたのだ。トーデンヘーファーが出会ったとき、彼は31歳だった。

こうした経歴を読んで、どのような人物を想像するだろうか。じつは『「イスラム国」の内部へ』には、アブー・カターダの写真が掲載されている。

ISの戦闘員は誰もが精悍で、AK47を抱えているが、アブー・カターダだけはまったく別だ。それは、戦闘服ではなくアラブの青い服を着ているからだけではない。「体重が150キロ以上あって、体の横幅と縦とがほとんど同じで、赤褐色の髭面だった」とアブー・カターダの第一印象をトーデンヘーファーは描写している。クリスティアンは、“魁夷”であると同時に“怪異”としかいいようのない容貌だったのだ。

IS支配下のモースルは首都バグダッドより恵まれていた

カルト集団ISに支配されたモースルの街はどのような様子だったのだろうか。トーデンヘーファーたちの行動はきわめて制約されていて、自由な取材はまったく許されなかったが、それでも何度か街を歩く機会を得ている。

まずは、日が落ちてからのモースルの街の描写だ。

外はもう暗くなっていた。煌々と明かりのついた大学道路に沿って歩く。その沿道はとても賑やかだった。道路沿いのほとんどの店が開いていて、クルミ、レーズン、ドライフルーツ、アイスクリーム、コーヒー、紅茶、その他種々雑多なものが販売されていた。綿あめの屋台もあった。この町は我々がイメージするテロ都市と必ずしも一致するものではない。

次は、ISが運営する病院(主に戦病者を治療し、ドイツ人の医師もいる)を取材したあとの昼のモースルだ。

私たちが歩いた商店街は人でいっぱいだった。FCバイエルンの赤いユニフォームを着ている若者を見かけた。私たちが彼を見かけてどうして喜んでいるのか、彼には最初分からなかったが、私たちがミュンヘンから来ていることを聞いてそれを理解した。ユニフォームの背中には背番号7とリベリの名前が書いてあった。ISのFCバイエルンサポーターだ!

私たちは2人のISの若い交通警察と話をした。一人は24歳で、もう一人は15歳になったばかり。年上の巡査が自分たちの任務を説明してくれた。彼は、「交通警察は、ちゃんとした仕事をするから、評判がよくて人気もあります」と言った。私が、「任務は?」と尋ねると、彼は「できる限り交通を整理することです。我々は人々を助けるためにここにいるのです」と答えた。

数メートル先にある魚屋のスタンドでは、数十匹の鯉が生きたまま売られていた。鯉が死なないように繰り返し水をかけていた。私はこの光景を見て、ジョージ・W・ブッシュによるイラク侵攻以降、イラク国民が背負わされている困窮と苦悩を思い浮かべた。魚を生きたまま持ち帰る客もいれば、内臓をすぐに取り出してもらう客もいた。

こうした描写からわかるのは、IS支配下の住民たちはごくふつうの日常生活を営んでおり、トーデンヘーファーの観察では、それは首都バグダッドの生活より恵まれているかもしれないということだ。

アブー・カターダの説明によると、このような暮らしが可能なのは、ISが石油の闇取引で得た利益を住民の福祉に充てているからだ。しかしこれは、ISがイラクやシリアで置かれた状況を考えれば当然ともいえる。

1980年代末のモースルの人口は約65万人だが、米軍侵攻後の2002年の調査では約170万人まで激増している。シーア派が主導権を握ったことで、報復や弾圧を恐れた各地のスンニ派住民が避難してきたのだ。

それに対してISは、7~8割が外国人で構成されている。少数の“よそ者”が安定した支配を行なうには、住民に食べ物と安全を与え、不満を抑える必要があった。トーデンヘーファーがモースルを訪れた2014年末の原油価格は1バレル=60ドル前後だったが、ISは1バレル=12ドルで闇で売っていたという。石油業者にとってはボロ儲けのチャンスで、多少のリスクは意に介さず殺到するだろう。こうやって現金収入を獲得することで、モースルの活気と喧騒が可能になったのだ。

当然のことながら、ひとびとの生活には制約もある。

たとえばタバコは禁止で、公の場での喫煙は30回の鞭打ち刑が科せられる(ただし、自宅での喫煙は見逃されている)。音楽も禁止されており、その理由は、「音楽はものによっては心情に影響を及ぼし、鬱病や悲哀を引き起こすという研究がある」からだという。

その一方で、教育の機会は与えられていて、たとえば(シリア側の)ラッカでは、女子学生はアサド支配地域の大学で勉強することも許されており、多くの女性がそれを利用している。官職に就いている女性もたくさんいるが、クルド人のような女性の戦闘員はいない。もっともISが運営する学校では、子どもたちに3つのことしか教えない。コーラン、法、戦闘だ。

さらにアブー・カターダによると、こうした「正しい」宗教生活に適応できない場合は出国も認められている。シリアからヨーロッパに向かう場合、出国の斡旋料金は少なくとも600米ドルだという。

1億500万人のシーア派を殺す

「イスラム国」を訪れたトーデンヘーファーたちは、金曜礼拝に遭遇する。

礼拝が始まる直前、すべての商店は扉を閉め、シャッターを下ろした。大きなモスクはひとで溢れ、モスクに入れないひとは上着と頭に被っているものを地面に置き、その上で祈りを捧げていた。

以下は、説教者が唱えた祈りだ。

ああ、アッラーよ、不信心者と無神論者と陰謀者を破壊せよ。
ああ、アッラーよ、アメリカを天と地から襲って破壊せよ。
ああ、アッラーよ、アメリカの戦闘機を破壊せよ。
ああ、アッラーよ、アメリカの軍艦を破壊せよ。
ああ、アッラーよ、アメリカを破壊するためにあなたに捧げられた戦闘員を助けよ。
ああ、アッラーよ、圧政者と無信心者を全員殺せ。
ああ、アッラーよ、不信心者を一人残らず殺せ。

トーデンヘーファーはアブー・カターダに、こうした過激で攻撃的な説教の意味を問う。

「イスラム国」では、キリスト教徒とユダヤ教徒はジズヤと呼ばれる人頭税ないし庇護税を払えば自分の宗教で定められた生き方ができる(ただし宣教は禁じられている)としたうえで、アブー・カターダはシーア派は背教者であるから、贖罪による(スンニ派への)改宗か死以外に道はないと述べる。

以下は、トーデンヘーファーとアブー・カターダの会話だ。

――もしイラクとイランのシーア派、世界中の1億5000万人のシーア派が改宗することを拒んだら、全員が殺されるということですか。

「その通り。これまでのように……」

――1億5000万人も?

「1億5000万、2億、5億人、数は関係ありません」

――ヨーロッパにいるすべてのイスラーム教徒が、あなたたちの信仰に改宗しないなら、全員が殺されるのですか。

「私たちの信仰に改宗しない者は、イスラーム教に改宗したとは言えません。邪道を守り通す者には当然、殺される以外の道はありません」

――殺されるのですか?

「間違いなく」

この異様なインタビューのあと、アブー・カターダは勝ち誇った面持ちで、賞賛の言葉を述べているまわりのIS戦闘員を見た。ドイツからやってきた「異形」の若者は、組織のなかでの自らの地位を守るためにも、誰よりも“狂信”を演じつづけなくてはらなかったのだ。

このインタビューと金曜礼拝を終えて、トーデンヘーファーは「カルトの国」から俗界に戻ることになる。

ちなみに、本書の最後で驚くべき“事実”が明かされる。

アブー・カターダとともにトーデンヘーファーたちに同行した「イギリスのアクセントで話す運転手」は、つねに目出し帽をかぶり、けっして素顔を明かさず、ことあるごとに取材をさえぎり激昂した。彼は瞼がたれさがって半分閉じたような目をして、極端に弓形の鷲鼻をしていた。

帰国後、トーデンヘーファーは日本人ジャーナリスト、後藤健二氏と湯川遥菜氏がISに殺害されるビデオを見て呆然となる。2人を斬首したのはジハーディ・ジョンと呼ばれるイギリス人だが、そのリズミカルで弾むようなしゃべり方、たいてい半分しか開いていない目、しつこく凝視する眼つき、ボディランゲージ――どれを見ても間違いなくあの「運転手」のものだったのだ……。

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