移民大国フランスの福祉と絶望

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2016年7月21日公開の「パリ同時多発テロから7カ月。 テロ現場の今と移民大国フランスの現状」に、『マネーポスト』2015年春号に寄稿した「過激派テロ組織ISISの戦士を生み出したフランスの「国内問題」」の一部を加えました。

zmotions/shutterstock

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フランス革命を祝う2016年7月14日、ニースの海岸で花火見物をしていた群集に大型トラックが突っ込み、2キロ近く暴走して84人が死亡、200人以上が負傷する大惨事が起きた。

犯人はチュニジア生まれでフランスの居住権を持つ31歳の男性で、ISのビデオを収集していたとされるが、近隣の住人の話では酒を飲み、豚肉のハムを食べ、女性と遊ぶことを好んだともいう。

これまでイスラームとは無縁の放蕩生活をしていた人物(大半が20代後半から30代半ばまでの男性)が、失業や離婚など人生の危機をきっかけに急速にイスラーム原理主義に傾倒し、テロリストに変貌するケースは、昨年11月のパリ同時多発テロ事件や今年3月のブリュッセル連続テロ事件の犯人にも見られた。これがカルトの持つ「魔力」だが、それによって犯罪予備軍の特定がきわめて難しくなっている。

社会の差別によるものか、本人に責任があるのかは別として、フランスには人生に絶望した移民の若者がたくさんいる。彼らのごく一部がある日突然「怪物」に変わるのだとしたら、市民社会はその現実をどのように受け入れればいいのだろうか。――これがヨーロッパ社会に突きつけられた重い問いだ。

フランス国民の3人に1人が「移民三世」

ヨーロッパが抱える「テロ」と「移民(難民)」についてはすでに多くが語られているが、はっきりしているのは、単純な解決策はどこにもないということだ。

そこでここでは、いくつかの事実を挙げるにとどめたい。

ヨーロッパのなかでもっとも早く人口が減少しはじめたフランスは移民の歴史が長く、最初はポルトガルやスペインなどラテン系諸国から、次いで旧植民地のマグレブ地方(北アフリカのアルジェリア、チュニジア、モロッコ)や西アフリカから製造業などの労働者として多くの移民を受け入れ、冷戦終焉後は東欧に加え中国などアジアからの移民も増えている。

その結果、フランスの人口に占める移民の割合はきわめて高い。「出世時に外国籍で、かつフランス国外で出生した者」という狭義の移民だけでも400万人と生産年齢人口の10%に達し、フランスで生まれた移民の子ども(自動的にフランスの市民権を与えられる)や孫たちまで加えるとその数は大幅に増え、「6000万人の国民の3人に1人が、すくなくとも祖父のうちの1人が外国人」という移民大国になった(正確な統計がないのは、市民権を持った者は統計上は「フランス人」として扱われ、移民2世や3世の実態がわかりにくいからだ)。

その規模を考えれば、フランスが「もっとも移民の統合に成功した国」のひとつであることは間違いない。一例としては、「あなたの娘が、ヨーロッパ系ではない外国の男性と結婚したいと言ったら、あなたはどうしますか?」という問いに54%が「何も問題はない」と答え、「ショックを受け、反対するだろう」と答えたのはわずか10%だった(ミュリエル・ジョリヴェ『移民と現代フランス フランスは「住めば都」か 』 鳥取絹子訳/集英社新書)。

初期にフランスに移民したスペイン系、ポルトガル系がほぼ完全にフランス社会に統合されたことで、マグレブ地方からやってきたムスリムの移民も時間がたてば同じように統合されるだろうと、当初は楽観的に考えられてきた。

ゲットー化する「郊外」

東京の高島平や多摩ニュータウン、大阪の千里ニュータウンのように、フランス郊外の団地も「モダン」の象徴として誕生した(というよりも、日本の団地がフランスの都市計画を模範としていた)。だがその後の歴史は、日本とフランスではかなり異なるものになった(ジャック・ドンズロ『都市が壊れるとき 郊外の危機に対応できるのはどのような政治か』宇城輝人訳/人文書院)。

戦後の復興が進み、1960年代から70年代にかけて経済成長の時代を迎えると、“庶民の憧れ”だった高層の大型団地は日本でもフランスでも急速に陳腐化していった。

団地住民のなかで医師や弁護士など高収入の職を得たひとたちは、東京なら田園調布や自由が丘、パリならセーヌ左岸のカルチェ・ラタンなどの瀟洒なアパルトマンに引っ越していった。異なるのは、そのような資力のない大半の住民の行動だ。フランスでは彼らも「庭付き一戸建て」の夢を求め、団地を捨てて都心からさらに離れた新興住宅地に移住した。この現象を「外郊外化」という。

こうして郊外の大規模団地は、内と外に引き裂かれ、空洞化していった。その空隙を埋めたのがマグレブからの移民とその家族たちだ。

大規模団地を空室だらけにしておけば、家賃収入によって運営される住宅供給管理業者(日本でいうなら、かつての住宅公団)は破綻してしまう。これは大きな政治問題になるから、政府はアパートの建設費用を住宅手当に振り替えて、低所得者層を団地に誘致した。

だがこうした政策は、団地の価値を維持したいと考える不動産業者には大問題だった。移民が住みはじめると白人たちが逃げ出し、物件価格が大きく下落してしまうのだ。

そのため彼らは、当然のことながら、経済合理的な行動をとることに決めた。もっとも辺鄙な場所にある建物に移民を集め、“被害”を最小限に抑えようとしたのだ。このようにして、「同化」を国是とするフランスに移民のゲットー(隔離居住区)が次々と生まれていった。

フランスの郊外問題が決定的に悪化したきっかけは、1993年に「移民ゼロ」を掲げて移民法と国籍法が改正されたことだった。

それまでマグレブからの外国人労働者の多くは、資金を貯めたら家族のいる故国に帰ろうと考える出稼ぎだった。だが改正された法律では、移民への国籍付与の道が開かれた一方で、不法移民の追放や家族の呼び寄せの厳格化が定められていた。

これによって妻や子どもたちと離れ離れになるのではないかと恐慌を来たしたマグレブ出身者の多くは、法律が施行される前に故国から家族を呼び寄せようとした。結果としてフランスの移民社会はふくれあがり、それが郊外暴動の多発へとつながっていく。

郊外問題の解決策が事態をさらに悪化させた

90年代に入る頃には、“モダニズム”の象徴だった大規模団地がまったくの失敗だったことが明らかになった。そこは貧しい移民が「捨て置かれた」場所、いわば社会のゴミ捨て場と化していた。

こうして、荒れ果てた団地を蘇らせる「社会的混合」が華々しく掲げられるようになった。

郊外で暴動が頻発するのは、国是である「同化」に反して移民が「隔離」されているからだ。ならば白人の中流層と貧しい移民を混住させることで両者の交流を促し、「同化」を後押しすればいい――理屈のうえではたしかにそのとおりかもしれないが、具体的にはどうするのだろうか。

日本の高級官僚よりもさらにエリート意識の強いフランスの官僚が考えたのは、郊外の自治体に対し、住宅総件数のすくなくとも20%の社会住宅(移民など低所得者層が住む公営住宅)の供給を義務づけることだった。91年制定の都市基本法や95年制定の都市連帯再建法では、この規定に違反して基準を満たせない自治体には罰金が科せられることになっていた。

だが実際に法律が施行されてみると、この野心的な試みほとんど効果がないことが明らかになった。

住宅件数の2割を超える移民がやってくれば、どのような高級住宅地でも地価の暴落は避けられない。それを考えれば、住民たちは喜んで罰金を払うだろう。

こうした「経済合理性」を考えると、罰金の額は地価の下落を上回る巨額のものにする必要がある。だがそのような過剰な懲罰は市民の権利への重大な侵犯として激しい反発を招くから、政治的に不可能だ。地方議員のほとんどはこの試みに反対し、中央の政治家も及び腰になって、自治体の「義務」はたちまちなし崩しになってしまった。

賢明な官僚たちはムチだけでなくアメも用意しており、基準を上回った自治体には補助金が支払われることになっていた。それを見て、すでに移民が十分に多く、これ以上増えても地価に影響する心配のない自治体はこぞって社会住宅を建設しようとした。その結果、当初の法の目的とはまったく逆に、移民の集住と隔離をより強めることになった。

次にフランス政府は、都市振興協定(96年)という新しい試みに乗り出した。これは発想を180度転換して、移民たちの集住地区に民間物件よりも家賃が安く居住面積の広いアパートを建設することで、子どものいる若い中産階級を惹きつけようとする政策だった。

しかしすぐに、この試みもほとんど効果がないことがわかった。子どもの教育などを考えれば、多少家賃を下げたくらいでは中流層は移民地区に引っ越そうとは思わないのだ。

2000年になると、郊外問題の「最終解決」として、都市大規模事業プログラムや都市再建事業プログラムが実施された。これは社会問題の元凶となっている大規模団地を物理的に取り壊し、その代わりに中流階級向けの建売住宅を建設するというものだった。

この露骨な外科治療によって、再開発された郊外は見事に生まれ変わった。だが新しくできた建売住宅に低所得者層が住めるわけもなく、彼らは郊外のあちこちに拡散していった。「最終解決」の効果は、大規模団地で育まれた移民たちの大きなコミュニティを破壊し、それを都市の周辺にまんべんなくばらまくことだった。

註:パリ五輪に合わせて公開された映画『バティモン5 望まれざる者』は、パリ郊外(バンリュー)出身のラジ・リ監督が、大規模団地を取り壊そうする市長と、それに抵抗する移民出身者との衝突を描いている。

25歳のすべてのフランス人に最低所得を支給

移民出身者の貧困に対して、フランス政府を手をこまねいていたわけではない。

1988年、社会党のミッテラン政権は「参入最低所得(RMI)」を導入した。これは「25歳以上のすべてのフランス人を対象として、世帯収入が最低所得(日本円に換算して、単身世帯で月額約6万円)に満たない場合、その差額を支給する制度で、以下のように説明される。

給付を受ける者は県との「参入契約」に署名し、職業活動もしくは社会活動(コミュニティ活動、ボランティアなど)に従事する義務を負う。一方県の参入委員会は、アソシエーション、企業などの協力によって、受給者に参入機会を保障する義務を負う。この政策の特徴は、個人と公的機関との「契約」にもとづき、公権力がすべての個人に「参入への権利」という新たな社会権を保障する、という点にあった(田中拓道「フランス福祉レジームと移民レジーム」中野裕二他編著『排外主義を問いなおす フランスにおける排除・差別・参加』〈勁草書房〉所収)。

この参入最低所得制度は、2008年に右派のサルコジ政権のもとで、受給者に就労活動を義務づけるとともに、就労によって得た所得を上乗せする「活動連帯所得(RSA)」に統合された。RSAの基礎給付と活動給付を合わせた受給者は2013年で210万世帯(440万人)にのぼり、単純計算ではあるが人口の7.3%、15歳以上65歳未満の生産年齢人口では10%を超えている。

フランスの貧困対策は、なんらかの理由により生活するのに十分な所得を得られない25歳以上の国民すべてを救済の対象にする、きわめて寛大なものだ。受給者の多くは都市郊外に住むマグレブ系移民(およびその子どもたち)とされるが、これも移民ごとの統計がとられていないため正確な数字はわからない。

典型的な受給者は、高校を中退し、さまざまな職に就いたり辞めたりしながら20代半ばを迎え、学歴と職歴から就職活動で採用される見込みがなくなって働く気力を失ってしまう、というケースだ。彼らの多くは25歳を迎えるとRSAを申請し、家賃が払えないため親元で暮らすようになる。

社会からドロップアウトし、福祉で生きていくほかなくなった彼らを苦しめるのは、実は「(白人の)市民社会の差別」ではない。アラブ系の名前による就職差別があることは間違いないが、この時点で彼らは主流派白人との接点をほぼ失っており、その生活圏は同郷の移民たちが暮らす郊外の大規模団地にかぎられているのだ。

RSAの受給者は、移民たちのコミュニティのなかで「負け犬」のレッテルを貼られることになる。移民コミュニティでも商店や中小企業などさまざま経済活動が営まれているが、福祉の世話にならなければ生きていけない者を誰も雇おうとは思わないし、自分の娘がそういう落ちこぼれとつきあうことも許さないだろう。

このようにして、25歳にしてその後の50年以上の人生がすべて見通せてしまうという残酷な状況が生まれる。フランスの福祉は日本よりずっと充実しているが、平等で寛容な社会であればあるほど、それでも自立できない者はより徹底して排除されるのだ。

郊外少年マリクがテロリストになるとき

『郊外少年マリク』(中島さおり訳/集英社)は、パリ郊外の団地で生まれ育ったマリクという少年の5歳から26歳までをユーモアを交えた軽やかな筆致で描いた小説で、アルジェリア系移民2世としてバンリューに生まれた作者マブルーク・ラシュディの体験をもとにしている。

ものごころついたときから、マリクの人生はたたかいの連続だった。小学校では身を守るために相手を叩きのめし、必要なものは万引きでしか手に入らず、楽しみは草サッカーだけだった。中学のときは問題児で、なんとか高校を卒業し21歳で消費者金融のコールセンターで働き出したものの、「経済的理由」で3カ月でクビになった。そのあとはずっと無職のままで、25歳でRMI(社会参入最低保証)の給付を受けることになる。

そんなある日、親友の1人がドラッグのやり過ぎで死んだ。マリクはその葬式で久々にかつての悪ガキ仲間と会ったが、なかにはドラッグで顔が変わり、20歳は老けて見える者もいた。「他の連中はどこにいるんだ?」とマリクが聞くと、彼は墓地を指差して、「半分はもうあっち側」とこたえた。

そんな仲間たちのなかでも、団地を抜け出した成功者が2人いた。

マリクは団地でも学校でも最高のサッカープレイヤーだったが、中学に上がる頃には真面目に練習しようと思わなくなっていた。マリクがいつも馬鹿にしていたサムはサッカーに打ち込み、いまはプロ選手として活躍していた。

もう1人はユダヤ人のサロモンで、マリクたちからその出自を理由にずっといじめられてきた。大学を出てエリートビジネスマンになったサロモンは、久しぶりに会ったマリクに、「お前たちが俺をうざユダ扱いしてくれたから、ここから抜け出すことができたんだ」といった。

マリクの人生は挫折つづきで、仕事も失い、ガールフレンドにも愛想をつかされ、これから先、生きていてもいまよりよくなる望みはどこにもない。5歳からの20年間を振り返ってみれば、なにもかもが必然で、どこにも出口はなかったように思える。

本書の最後で、マリクはサロモンから「うちの会社のサッカーチームのコーチになってみないか」と誘われる。「マリク、おまえは最低の馬鹿じゃない。おまえには切り札がいっぱいあるんだ」という幼馴染の激励が、この物語のわずかな救いになっている。

だが現実には、20代で灰色の人生の遠い先まで見てしまったマリクの同類たちは、まったく別の誘いを受けている。生活保護受給者からアマチュアのサッカーチームの雇われコーチになるよりも、「神」の名の下に武器をとってたたかうことをマリクが選んだとしても、なんの不思議もない。

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