ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。
今回は2020年5月5日公開の「「傲慢なエリート」の典型であるマクロンはなぜ39歳でフランス大統領になることができたのか?」です(一部改変)。
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2020年4月24日に行なわれたフランス大統領選の決選投票で、現職のエマニュエル・マクロンが国民連合のマリーヌ・ルペンを下して再選を決めた。とはいえ、「圧倒的に有利」とされたマクロンの得票率は59%で、ロシアのウクライナ侵攻でプーチンとの親しい関係が批判されたルペンは前回(2017年)から7ポイント伸ばした41%を獲得した。投票率は過去2番目に低い72%で、有権者の関心が低いというよりも、「ネオリベ」と「極右」では選択のしようがないと棄権した者も多かったのだろう。
2018年に始まった「黄色いベスト(ジレジョーヌ)運動」は、燃料価格の上昇(税率の引き上げ)への抗議行動だが、それがコロナ禍で中断されるまで1年以上続いたのは、「傲慢なエリート」の典型と見なされたマクロンへの反発が大きかったようだ。実際、マクロンの次のような発言は強い批判を浴びた。
彼ら失業者は自分でどんどん動けばいいのだ。道を渡るだけで仕事は見つかるのだ。小さな企業を自分で起ち上げればいいのだ。望めばなんでもできるはずだ。
生活難に苦しむ人々の中には、よくやっている人たちもいますが、ふざけた人たちもいます。
そもそもこんなマクロンがなぜ、2017年に弱冠39歳で大統領になれたのか? それが知りたくて、日本人にはあまり馴染みのないフランスの教育制度とマクロンの経歴を調べてみた。
フランスはエリート主義の社会
フランスで中央集権化が進んだのは絶対王政期で、革命(1789年)によって「中央」にいるはずの王や貴族階級が一層されたことで官僚機構だけが残った。共和国は、官僚制によって統治する以外になくなった。
早くも1794年には、革命を主導した国民公会(ジャコバン派)によって、技術者を養成する「理工科学校(エコール・ポリテクニーク)」と、リセ(高校)の教授の養成を目的とする「高等師範学校(エコール・ノルマル)」が設立された。
この両校は現在でもフランスの高等教育機関の頂点にあり、理工科学校の成績トップから11番目までの最優秀者は「技師」、25番目までは「土木技師」という革命当時のままの称号を与えられ、超エリートとして行政機関に採用される。一方、高等師範学校で「教授資格(アグレガシオン)」を取得した者は「アグレジェ」と呼ばれ、フランスにおける「(文系)知的エリート」の象徴とされている。
フランスの教育制度を国家の統制下で整備したのはナポレオンで、1802年には国立のリセを創設して古典学中心の教育を復活させ、08年には「業績」と「平等」の原理に基づく選抜制度として「バカロレア」が発足した。これは中国の「科挙」に範をとったもので、家柄ではなく試験の結果(学力)を重視した教育制度はヨーロッパでは画期的だった。
フランスは小学校5年制、中学校(コレージュ)4年制で、中学卒業時に普通高校と職業系高校に振り分けられる。日本との大きなちがいは、生徒が進学先を決めるのではなく、各校に設けられた「評議会」で決定されることだ。国立のリセは無償だからで、本人が普通高校を希望しても、評議会で職業高校と決められてしまうとその決定を覆すのは難しいという。
全生徒のおよそ6割が普通高校に進み、3年生(最終年)で論述と口頭のバカロレアを受験する。これは「大学入学資格試験」といわれるが、正しくは高校の卒業試験で、バカロレアに合格しないと高校を卒業できない(留年して翌年もういちど挑戦することになる)。
日本とのもうひとつの大きなちがいは、大学(ユニベルシテ)が国立で授業料無料であることと、バカロレア合格者はどの大学でも自由に入学(登録)できることだ。だったらソルボンヌなどの名門大学に入ればいいではないかと思うが、そのぶん卒業が難しく、8割以上が大学卒業資格を得られないという。
登録自由のユニベルシテに加えて、「グランゼコール」という「入学試験のある大学」がある。グランゼコールは200校あまりあるが、試験の難易度によって厳密に序列化されていて、理工科大学と高等師範学校のほか、行政官を養成する「パリ政治学院(シアンスポ)」がエリートの登竜門とされている。
ユニベルシテに進むならバカロレアにさえ合格すればいいが、グランゼコールを目指す場合は、バカロレア取得後に「グランゼコール準備級(CPGE)」に入らなければならない。これは大学の教育課程(1~2年生)に相当するが、そのための教育施設があるわけではなく、一部のリセ(高校)に併設された「特進コース」のようなものだ(準備級に進むのは普通高校の10%程度とされる)。この準備級を終えて、はじめてグランゼコールの入学試験を受けることができる。
ドゴールが設立した「国立行政学院(ENA)」は官僚養成のための大学院大学で、グランゼコールの成績優秀者が進学し(その多くはシアンスポ卒業生)、上位の優秀者のみがエリート官僚への道である「大官僚団」の一員になれる。ENA卒業生は「エナルク」と呼ばれ、そのなかで最上位の1番から3番ぐらいまでが財務監査総局、次の4人ぐらいが国務院、その次の4人ぐらいが会計検査委に採用され、法案作成作業などの実務に従事する。
国立のエリート養成機関であるENAは授業料無料であるばかりか、在学中は給料が支払われる。その代わり、卒業後10年間は公務員として働く義務を負い、その後は大企業の社長や副社長として「天下り」する。このエナルクによる支配は「エナルシー(エナ帝国)」と呼ばれる。
このようにフランスで「エリート」になるためには、きびしい選抜を勝ち抜いて同世代のトップ数十人に入らなければならない。逆にいえば、いったんエリートの地位を得てしまえば、死ぬまでずっとエリートのままだ。公的な社会的地位でいえば、それは20代前半で決まってしまい「再チャレンジ」の道はない(ENAはエリート主義の象徴として批判され、2022年1月に新設の「国立公務学院」に統合された)。
マクロンは「パリ政治学院(シアンスポ)」から「国立行政学院(ENA)」に進み、財務監査総局に採用された超エリートだった。だからこそ、30代で政治経験が乏しくても大統領を目指す資格があると見なされたのだ。
16歳で24歳年上の既婚女性と恋に落ちる
エマニュエル・マクロンはフランス北部の地方都市アミアン(ソンム県)で1977年、神経学者の父と医師である母の長男として生まれた(第一子は死産)。弟と妹の三人きょうだいで、両親は1999年に別居、2010年に離婚している。
ジャーナリスト、アンヌ・フルダ(パリ政治学院卒)の『エマニュエル・マクロン フランス大統領に上りつめた完璧な青年』(加藤かおり訳/プレジデント社)によると、マクロンは子どものときから神童として知られ、5歳のときに文字が読め、物覚えがあまりによいので母親は記憶異常を疑ったほどだという。幼少期から青年時代までのその軌跡は、控えめにいっても「ふつう」とはかなり異なっている。
子ども時代のマクロンに大きな影響を与えたのは、祖母のマネットだった。第一次世界大戦の最中に生まれ(1916年生)、貧しい家庭に育ったマネットは、高校卒業後に通信教育で文学を学んで教員免許を取得、中学校校長として引退するまで教鞭をとった。娘夫婦の近所で老後を送っていたマネットは、この「尋常ならざる孫」と特別な絆を結ぶことになる。
小学校(アミン音楽学校)の頃のマクロンは、友だちと遊ぶよりも、マネットの家で二人で過ごすことを好んだ。マネットはこの孫に文法や歴史、地理を教えるだけでなく、モリエールやラシーヌなどの古典を朗読させた(ジッドやカミュも好んで読んだ)。学校でも同世代の子どもより教師と仲がよく、授業のあとは歴史の教師と熱心に話し込んだという。両親は無神論者だが、マクロンは12歳の時に自分の意思でローマ・カトリックの洗礼を受けている。
この祖母との絆は、中学・高校時代はもちろん、2013年に97歳で彼女が亡くなるまで続いた。マクロンは財務監査官のあと、ロチルド(ロスチャイルド)銀行の投資銀行家になるが、そのときも毎日欠かさず祖母に電話し、ときに1時間ちかくに及ぶこともあった。この習慣は大統領府の副事務総長を務めていたときも続き、マネットは死の床につく直前まで、この最愛の孫(うっかり「私の子」ということもあった)と深い交流を続けた。
ここまでは「おばあさん思いの孫」という美談だが、困惑するのは、マクロンが「祖母を思い出さない日は、そのまなざしを探さない日は一日もない」と自著に書く一方で、実の父母への言及がほとんどないことだ。そのことで、とりわけ母親のフランソワーズはずっと苦しんできた。息子と険悪な関係になっているわけではないものの、まるで自分たちの存在がなくなってしまったかのようなのだ。
よく知られているように、マクロンは16歳のとき、高校の演劇クラブを指導していたブリジッド・オジエールという女性教師と恋に落ちる。ブリジッドは24歳年上で、当時39歳だった。マカロンで有名な老舗菓子店を営む名家の出身で、銀行家の夫と3人の子どもがおり、長女のローランスは高校でマクロンの同級生だった。
当然、この禁断の恋はマクロン家に大きな混乱をもたらしたが、だからといって息子を勘当したり、二人の仲を裂こうとしてパリの高校に転校させたわけではないと両親はいう(高校3年でグランゼコール準備級のある学校に移ることはマクロン自身が希望した)。
「私たちは普通の親と同じようにごく平凡に子育てをした」と、父のジャン=ミシェルは数少ないインタビューでこたえている。「メディアがつくり出した話は不愉快で、あまりにも事実をねじ曲げ、単純化している」
実の両親がこのように“弁解”しなくてはらないのは、息子がいつの間にか自分たちを置き去りにして、この年上の妻と別の「家族」をつくりあげてしまったからだ。
マクロンはブリジッドと結婚すると決めたときに、自分の子どもをもつことをあきらめている。24歳という年齢差やこの決断はやはり「ふつう」ではないので、「マクロンは同性愛者ではないか」との根強い噂があるという。もちろんほんとうのことは本人たちにしかわからないが、もしそうであれば、ブリジッドはなにもかも捨てて教え子との「愛」を選ぶことはなかったのではないか。
マクロンは父母だけではなく、のちに医師になった実の弟や妹とも疎遠になっているという。その代わり、ブリジッドの長女ローランス(高校の同級生)はマクロンの熱心な支持者の一人で、弁護士になった次女のティファニーも一時期、マクロンの選挙運動本部で働いていた。妻のブリジッド、選挙活動を手伝ってくれる義理の子どもたちと孫たちが、彼にとっての「家族」なのだ(7人いるブリジッドの孫は、この若い祖父を“ダディ”と呼んでいるという)。
「性的な要素に欠けたドンファン」
マクロンは知的な年上の女性(祖母のマネットや教師のブリジッド)だけでなく、権力をもつ年上の男性にも魅了された。それは同時に、フランスの政財界の大物たちがこの「完璧な青年」の虜になったということでもあった。
マクロンに権力の扉を開いたのは、元レジスタンス闘士で、戦後、スーパーマーケット業界で財をなした「進歩的左翼」の実業家アンリ・エルマンで、ENA時代のマクロンに昼食会で出会ったとたんに夢中になった。エルマンはこの「理想の息子」にアパルトマンを購入する資金を貸し、ミシェル・ロカール元首相をはじめとする左派(社会党)の大物たちを紹介し、ブリジットとの結婚式では新郎の証人の一人になり、さらには大統領選に打って出るように背中を押した。
高校生の頃のマクロンの夢は小説家になることで、文系知識人の最高峰である高等師範学校を受験したものの2年つづけて落第し、「ブリジットと結婚するために」行政官を養成するパリ政治学院に入学した。同時にパリ第10大学の哲学コースにも登録して、そこで高名な哲学者ポール・リクールと「父子のようだ」といわれる関係を結んだ。
著名な知識人のジャック・アタリは、2007年にマクロンを経済自由化に関する「フランス成長解放委員会(通称アタリ委員会)」の報告者補佐に抜擢し、社会党のフランソワ・オランドを紹介した。12年にオランドが大統領になると、マクロンは35歳で大統領府副事務総長としてオランドの側近になり、14年にはジスカール・デスタン以来最年少で経済・産業・デジタル大臣に就任した。だが支持率低迷でオランドが再選を断念すると、この“恩人”をさっさと見限り、16年4月に政治団体「アン・マルシュ!(前進!)」(その後「共和国前進(LREM)」と改称)を結成し、大統領への道を歩むことになる。
マクロンは次々と年長の権力者を魅了し、その多くを冷酷に切り捨て、踏み台にしながら権力の頂点へと駆け上がっていくが、それをアンヌ・フルダは「性的な要素に欠けたドンファン」と評している。「相手を魅了して手に入れるという行為を、女性を次々とたらし込む性的なものとしてではなく、自分はすごいのだという自信を確認し続ける手段として捉えているドンファン」だというのだ。
マクロンの権力ネットワーク
マクロンの権力ネットワークのなかでも、(主にマクロンを批判する側からみて)もっとも重要な3人がベルナール・アルノー、グザヴィエ・ニール、ミミ・マルシャンだ。
アルノーはエコール・ポリテクニークを卒業したエリートで、ルイ・ヴィトンやクリスチャン・ディオールなどの高級ブランドを次々と買収して「フランス・ファッション界の帝王」「ファッションの法王」などと呼ばれるようになった大富豪だ。その個人資産は約2000億ドル(約30兆円)で、イーロン・マスクやジェフ・ベゾスなどシリコンバレーの大物と肩を並べる唯一のフランス人でもある。
グザヴィエ・ニール(準備級に進んだがグランゼコールを受験できず、ユニベルシテで学んだ)はIT実業家で、ベルナール・アルノーの娘デルフィーヌと事実婚の関係にある。
ニールは高級紙のル・モンドをはじめとして複数の新聞・出版グループの共同経営者・大株主としても知られるが、これは投資というよりも「自分に不利なことを書かせないために、裁判よりずっと簡単な方法」だからだという。このように考えるのはニールだけでなく、「今日のフランスでは、10人の富める者が活字メディアの90%を所有している」とされる。ニールは2004年、自身が株主である複数のセックスショップ(売春斡旋組織ともいわれる)の資金の不正使用の疑いで1カ月拘留され、執行猶予付きの懲役2年の判決が出されている。
ミミ(ミシェル)・マルシャンは「セレブ雑誌界の“影の女王”」と呼ばれる女性で、セレブを対象としたフォトエージェンシーを経営し、「ミミは巷に出回っている写真を選別する。都合の悪い写真や迷惑な写真があれば鮮やかな手並みで問題を解決し、必要と判断すればやらせの盗撮を行ったりもする」(アンヌ・フルダ)とされる、パパラッチ(盗撮カメラマン)の元締めのような存在だ。
パリの社交界の演出家でもあるミミは、マクロン夫妻のPRを担当し、ブリジッドの親友となり、彼女を理想のファースト・レディに仕立て上げる役目を担った。ブリジッドのファッションをルイ・ヴィトンで統一したことで、フランス大統領夫人はLVMHモエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン(ベルナール・アルノーのファッション帝国)にとって「理想の広告塔」になった。
あるジャーナリストによれば、ミミ・マルシャンは「500キログラムの大麻を載せたトラックを運転していた”刑務所に服役した元麻薬密売人”」で、グザヴィエ・ニールが拘留されていたのと同時期に刑務所に収監されていた。2人は同じ女性弁護士に依頼していて、その縁で知り合ったという。
その後、ニールはマクロンを将来の大統領としてバックアップするようになり、自らが所有するメディアを使って大々的にこの年の差婚のカップルを売り出した。その演出をしたのがミミで、ルイ・ヴィトンの取締役でもあるデルフィーヌ・アルノーと、父親のベルナールがその背後に控えている。すくなくともジャーナリストで弁護士でもあるホアン・ブランコは、このような「陰謀論」を主張している。
純化したエリート社会の閉塞感と絶望
ホアン・ブランコはポルトガル人の父(高名な映画プロデユーサー)とスペイン人の母(精神分析医)のあいだに1989年に生まれ、パリで育ち、パリ政治学院、高等師範学校、ソルボンヌ大学などで法律、政治学、文学などを学んで弁護士資格も取得したエリートだ。『さらば偽造された大統領 マクロンとフランスの特権ブルジョワジー』(杉村昌昭、出岡良彦、川端聡子訳/岩波書店)は、そんなブランコによるフランスのエリート社会への批判として話題になった(ブランコはWikiLeaks創設者ジュリアン・アサンジの国際弁護団の一員にもなった)。
ブランコは小学校まで公立学校に通っていたが、母親の勧めでパリ左岸の私立学校エコール・アルザシエンヌに転校する。そこは、「パリの文化的知識人の後継者を再生産し育て上げる場所」で、生徒は著名人や上流階級の子弟ばかりだった。「移民」出身のブランコは、成績は優秀だったものの、そんな雰囲気に馴染めなかったようだ。
パリの有名校での日々を、「足がかりを持たない者にとっては過酷な場所」だったとブランコは回想する。以下の記述は、日本の「お坊ちゃん、お嬢さん学校」でもまったく同じだろう。
(小学校から入学した)一番乗りの子どもたちは、在校期間の長さによってヒエラルキーが構成される学校では王子さまのような存在であり、(中学=コレージュが始まる)第六年級から入学した同期生、その他個別のあとから入ってきて一歩一歩追いつかなければならない者たちの上に立ち、幼年期から恵まれた位置を占める。そのため、小さい頃からの関係や仲間に関して積み重なった情報を利用して、生徒の中心的グループに入ることができる。
何人かいる「アウトサイダー」は、たいていは非常に優秀な成績のおかげで入学できた生徒か、外部から才能がある生徒を引き込むために作られた音楽科クラスの生徒であるが、ほとんどの場合、最も仲の良い中心グループが指揮して爪はじきにした結果である。服装、名前、訛り、その他のちょっとした仕草で社会的、文化的、経済的に異なる出自がわかってしまう生徒には、露骨に仲間外れの仕打ちが向けられる。
ガブリエル・アタルはマクロンから国民教育・青少年大臣付きの青少年担当副大臣に任命され、2018年、29歳で(第五共和制では)最年少の閣僚入りを果たした。アタルはブランコにとって、中学・高校とグランゼコール(パリ政治学院)の同級生で、「王子さま」の典型だった。
なかば私怨も入っているのだろうが、家柄がよく裕福というだけで(だからこそ私立学校からグランゼコールを目指せる)、なんの社会経験もない20代の若者(青二才)が権力の中枢の座を占め、「パンタクール(丈の短いズボン)に白のシャツで、素足のそばにロゼワインのグラスを置いて、セーヌ河畔で自信ありげにカメラに向かってポーズをとる」ようなことはとうてい容認できないとブランコは憤る。そして、マクロン政権のエリート主義に抗議する「黄色いベスト運動」を支援し、フランス社会の「秘密結社」のネットワークを暴く本を書くことになる。
ブランコがなぜエリートたちの交友関係を知っているかというと、自らも24歳のときにグザヴィエ・ニールにランチに招かれたエリート予備軍だったからだ。その日のことをブランコは、「スケジュールは詰まっていた。大使から権力者まで、会うのに忙しかった。『ル・モンド』編集長ナタリー・ヌゲレドともその夜に会うことになっていた」と書く。自分自身も、当時はイェール大学の講師でなんの実績もなかったにもかかわらず。
マクロンへの批判としては、左派政党「不服従のフランス」の国民議会議員でジャーナリストのフランソワ・リュファンによる『裏切りの大統領マクロンへ』(飛幡祐規訳/新潮社)も翻訳されている。リュファンはフランスの“見捨てられたひとたち”と「黄色いベスト運動」に深く共感しているが、マクロンと同郷で同じカトリックの名門私立高校を卒業している。
エリート主義が貫徹したフランスでは、エリートを批判するのもエリートになるほかはない。「純化した知識社会」では、学歴のない者の主張など誰も聞こうとはしない。エリートでなければ、「エリート社会」に異議を唱えることすらできないのだ。
フランスで頻発する街頭の抗議行動や、「極右」や「極左」の政党が支持を伸ばす背景には、純化したエリート社会への閉塞感と絶望があるのだろう。
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