「事実は小説なり奇なり」という事件のひとつです。
警備会社で働いていた70歳の女性は、職場の男性の「ババア」という言葉が自分に向けられたものだと思い、年齢のせいで不当な扱いを受けていると感じます。
その頃女性は、ネットで「就籍」という制度を知りました。なんらかの事情で出生届が出されず、無戸籍になっているケースを救済するためのもので、家庭裁判所の許可を得て新たに戸籍をつくることができます。
そこで女性は、自分より24歳も若い46歳の妹の戸籍をつくり、その架空の妹になりすませば、「年齢に関係なく、気持ちよく、長く仕事ができる」と思いつきました。ここからの女性の行動力は、驚嘆すべきものあります。
まず、東京都内の無料法律相談所を訪れ、「妹の戸籍がないことに気づいたので作ってあげたい」と相談します。この話を信じた弁護士は、新たな戸籍を発行するための申立書を作成し、家裁に郵送します。
東京家裁で開かれた家事審判では、女性は「化粧をして普段より明るめの服装」をして妹になりすまし、姉である自分と一人二役をこなします。さらには夫の協力も得て、体調不良を理由に姉としては姿を見せられないときは、扮装した自分を夫に「妻の妹」だと説明させました。裁判所はこの「三文芝居」を見破れず、戸籍の発行を認めてしまいます。
架空の妹の戸籍を手に入れた女性は、住民票やマイナンバーカード、健康保険証などを次々と入手し、別の警備会社に就職し、給与の振込口座も新たに開設しました。これで完全な別人になり、タイムマシンを使わずに24歳も若返ることができたのです。
発覚のきっかけは、通勤のために妹の名義で運転免許証を取得しようとして、運転免許試験場で替え玉受験を疑われことでした。きょうだいや友人が本人になりすまして運転免許を取得しようとすることがあるからでしょうが、事情聴取した警察官も、まさか戸籍に記載された妹が実在しないとは思わなかったでしょう。
有印私文書偽造・同行使などの罪に問われた女性は、東京地裁の公判で、「言葉を選ばずにいうと、興味本位でやったことが大変なことになり、驚いている」と語りました。裁判官は「身分証明書の根幹を揺るがす悪質な犯行」だとして、懲役3年執行猶予5年(求刑懲役3年)の判決を言い渡しました。
この奇妙な事件でわかったのは、簡単に別人になれる戸籍制度の不備です。そもそも親が出生届を出さないと無戸籍になってしまうのが問題なのだから、病院で出産した場合はその記録に基づいて自動的にマイナンバーを発行し、親の情報と紐づけるようにすれば解決します。戸籍制度があるのはもはや(実質的には)日本だけで、世界の国々はこうした簡易な手続きで市民権を付与して、なんの支障もなく社会を運営しているのです。
ちなみにこの女性は、46歳の架空の妹として新たに就職した警備会社で、「任せてもらえる仕事が増え(本当の)自分が働くより仕事の幅が広がった」と感じたそうです。「年齢ではなく能力で判断してほしい」という主張は正当なものですが、そのための手段があまりに荒唐無稽だったようです。
参考:「偽戸籍作った女、猶予判決」朝日新聞2024年5月29日
「戸籍偽造事件 架空の妹演じ「24歳若返り」日本経済新聞2024年6月9日
『週刊プレイボーイ』2024年6月24日発売号 禁・無断転載