ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。
今回は2016年3月16日公開の「日本とはまったくちがう歴史認識 フランスでは植民地支配は肯定的に評価する!?」です(一部改変)。
rudall30/Shutterstock
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2015年1月にパリの風刺雑誌シャルリー・エブドの編集部を襲撃したのはアルジェリア系フランス人の兄弟だった。だがフランスの人類学者エマニュエル・トッドは、『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』(堀茂樹訳/文春新書)のなかで「移民」や「イスラム」について論じるものの、実行犯の出自についてはいっさい言及していない。
参考:「エマニュル・トッドの家族人類学はどこまで正しいのか?」
もちろんこれには理由がある。ある社会のなかでマイノリティが差別されているとして、マイノリティの一人が起こした犯罪について過度に出自を強調すれば、多数派による暴力的な行動を誘発しかねない。歴史を振り返れば、アメリカの黒人差別やヨーロッパのユダヤ人差別はもちろん、日本においても在日朝鮮韓国人や被差別部落出身者を対象にこうした事態が繰り返し起きてきた。だからこそメディアは、テロリストの出身国など具体的な属性に言及せずに「移民」問題を論じることになるのだろう。
だがフランスにおける一連のテロを見れば、そこに一貫した傾向があることは否定しがたい。
シャルリー・エブド襲撃事件に呼応してパリ郊外のユダヤ食品店に立てこもり、客や従業員4人が死亡した事件では、犯人は西アフリカのマリ系フランス人だった。世界を震撼させた2015年11月のパリ同時多発テロ事件では、首謀者はIS(イスラム国)メンバーのモロッコ系ベルギー人で、バタクラン劇場を襲撃したのはアルジェリア系ベルギー人やフランス人、スタッド・ド・フランス(国立競技場)付近の自爆犯はシリアから難民にまぎれて渡航したとされる。ここに挙げた国名――アルジェリア、マリ、モロッコ、シリアはすべてフランスの旧植民地だ。
だが“差別への配慮”によって、彼らはすべて「移民」「ムスリム」という一般名詞に還元されてしまう。それによって隠されるものとはなにか。それは、フランスの移民問題が「植民地問題」でもあるという事実だ。
日本の植民地支配がもっとも過酷だった?
フランスにおける植民地経済史の大家ジャック・マルセイユは2005年2月に来日、講演した。近年の経済史では、植民地支配は必ずしも本国に経済的利潤をもたらしたわけではなく、近代の植民地経営はほとんど本国の持ち出しであったというのが定説になっている。
日本での講演でも「フランスは植民地を搾取したのではなく、植民地の赤字を埋めた」との自説を開陳したあと、マルセイユは、旧宗主国はおしなべて植民地から感謝されるべきであり、「日本も韓国から感謝してもらってはどうか」と述べた――。
この驚くべき発言はフランス植民地史を専門とする平野千果子氏の『フランス植民地主義と歴史認識』(岩波書店)に出てくるが、マルセイユは右翼の歴史修正主義者の類ではなくパリ第1大学教授というれっきとしたアカデミズムのメンバーであり、彼の講演を聴いた日本の歴史家たちのあいだでもとりたてて奇異な発言とは受け止められていないようだ。
平野氏は、近現代の植民地研究には「旧植民地支配国のなかで、日本の支配がもっとも過酷であった」とのステレオタイプがあるという。こうした見解は、「真摯に日本の過去の過ちを問いただそうとする“アジアに寄り添う「良心的」立場”のひとたち」に顕著だが、このことが逆に、ヨーロッパ諸国の植民地支配が日本より「紳士的」だったという思い込みにつながっている。
植民地支配の残虐さを比較することが歴史学の目的ではないにもかかわらず、「日本の支配が最も過酷であったことが研究の前提となっている状況」を批判して平野氏は次のように述べる。
日本が最も非道であったという前提に立つならば、たとえばフランスに植民地化された人たちは日本の支配を受けるよりましだったという、別の無意味な前提にもつながりかねない。それはフランスの支配を受けた人びとの苦しみを軽んじることにもなるのではないか。
もちろんこの指摘は、日本の植民地支配を免責するためのものではない。だがここから、ジャック・マルセイユの発言の背景が見えてくる。
日本の“リベラル派”が(正義感と欧米崇拝から)「日本の植民地支配の残虐性」を強調することは、西欧の保守派にとってきわめて好都合だった。「日本人は文化程度が劣っているから植民地経営も野蛮で残酷だったのであり、西欧諸国の文化的な植民地経営とはまったく別だ」という自己正当化に使えたからだ。だが近年になってヨーロッパ諸国でも近現代史の見直しが進み、イギリスやフランスの植民地支配の実態が批判されるようになってきた。
マルセイユのような“まっとうな”歴史家は、「日本=悪、西欧=善」という二分法自体が人種差別的な発想だということは当然わかっている。だがここで、「日本の植民地経営が残虐だったようにフランスも残虐だった」とは考えない。逆に、「フランスが旧植民地国から感謝されて当然なように、日本も韓国から感謝されるべきだ」という理屈になるのだ。このように、過去の「植民地問題」におけるフランスと日本の歴史認識にはとてつもない距離がある。このことを話の前提としてまず押さえておきたい。
世界初の”奴隷解放”の理想と現実
ここではフランスの特異な歴史認識を象徴する出来事として2005年の「引き揚げ者への国民の感謝と国民的支援に関する法(以下、引揚者法)」をめぐる騒動を取り上げたいのだが、その前にフランスとアリジェリアとの1世紀におよぶ支配と抵抗の歴史を概説しておく必要がある。ここでいう「引揚者」とは、1962年のアルジェリア独立にともなって“故国”を追われた「アルジェリアのフランス人」のことだからだ。
同じく平野千果子氏の『フランス植民地主義の歴史 奴隷制廃止から植民地帝国の崩壊まで』(人文書院)によれば、フランスでは「奴隷制」と「植民地主義」はまったく異なるものとして扱われている。それを象徴するのが人道主義者として知られた文豪ヴィクトル・ユーゴだ。
フランスが奴隷貿易を開始したのは絶対王政期で、17世紀前半にはサン=ドマング(ハイチ)などカリブの植民地のサトウキビ・プランテーションから莫大な利益がもたらされた。だが1789年にフランス革命が起こると、革命政府は5年後の1794年にサン=ドマングの奴隷制廃止を宣言する。
このことが「フランスは世界に先駆けて奴隷を解放した」とする根拠になるのだが、平野氏によると事情はかなり異なる。
フランス革命で王政を倒したあと、新政権は「革命の輸出」を警戒するヨーロッパ諸王国から次々と宣戦を布告される。これがサン=ドマングをめぐって革命政府に深刻な矛盾を突きつけた。
プランター(サトウキビ・プランテーション経営者)は王党派で、彼らはイギリスと結んで革命政府に対抗しようとした。一方、黒人奴隷は解放を求めて島の東部を支配していたスペインに近づいた(カリブ海のイスパニョーラ島はフランスとスペインで東西に分割され、東部をスペイン領の現ドミニカ共和国、西部がフランス領の現ハイチ)。サン=ドマングのフランス革命軍は、イギリスとスペインを同時に敵に回す危険にさらされたのだ。
このうち革命政府にとってより脅威だったのは、反革命派のプランターだった。「カリブの女王」と呼ばれたサン=ドマングがイギリスの手に落ちるようなことになれば、革命そのものが破綻しかねない。革命政府には奴隷制を廃止して奴隷たちをフランス側に取り戻し、反革命派と対抗する以外に道はなかったのだ。
“奴隷解放”が便宜的なものでしかなかったことは、権力を掌握したナポレオンがたちまち奴隷制を復活させ、1801年に2万の大軍をサン=ドマングに派遣したことからも明らかだ。ところがこの派遣軍は、士気旺盛な奴隷勢力の前に大敗を喫してしまう。こうしてフランスはサン=ドマングを諦めざるをえなくなり、七月王政時代の1836年、プランターへの補償と引き換えにハイチ独立を認めることになった。
“奴隷解放”をめぐるこうした経緯は、ルイ・ナポレオンによる第二帝政を批判してフランスを離れていたヴィクトル・ユーゴなど(フランス革命の理念を擁護する)共和派にとってきわめて都合がよかった。彼らの“歴史認識”では奴隷制を廃止したのは共和派で、王党派など革命を否定する勢力がそれを覆した。イギリスが奴隷貿易を廃止したのは1807年、英領植民地で奴隷制が廃止されたのが1833年なのだから、「人種差別撤廃」のさきがけとしての栄光はフランスの共和主義にこそ与えられるべきなのだ。
ところがこの時期、フランスによる北アフリカへの侵略が着々と進められていた。ナポレオンによるエジプト遠征は失敗に終わったものの、フランス軍がアルジェを占領したのは1830年、アルジェリアに3県が設置されて植民地化が完了したのが1848年で、この年、二月革命によって第二共和政が成立している。だが共和政政府は植民地を解放するのではなく、逆にアフリカへの侵略を拡大していく。
奴隷制を人道に反するとして弾劾したユーゴは、この植民地化政策を熱烈に擁護する。こうした政治的立場は彼だけのものではなく、当時の知識人には当然とされていたらしい。『アメリカの民主政治』で知られる政治思想家アレクシ・ド・トクヴィルも同様に植民地政策を強く支持していた。
奴隷制に反対した共和派(リベラル)はなぜ、植民地主義者になったのか。その謎を解くキーワードが「文明化」だ。
フランス革命は「自由・平等・友愛」の“普遍”の原理を人類にもたらした。普遍というのは、「時代や地域を超えていついかなるときも適用される」ということだ。奴隷制は革命の理念に反するからこそ否定されなくてはならないが、それはフランス国内にとどまらない。当時のアフリカでは奴隷制の風習が根強く残っており、こうした前近代的・反人道的な悪習も正すべきなのはいうまでもない。フランス(共和政政府)こそが、人道主義の文明の光を「暗黒大陸」にもたらす責務を担っているのだ。――こうして、「奴隷解放が植民地化につながる」という奇妙な逆説が成立することになる。
「アルジェリアは“フランス”だが、アルジェリア人は“フランス人”ではない」
フランスの植民地はマルチニークなどカリブ海諸島、北アフリカ(アルジェリア、チュニジア、モロッコ)、サハラ以南の仏領西アフリカ・仏領赤道アフリカ、インドシナ(ベトナム、カンボジア、ラオス)などに大別され、第一次大戦の戦勝国として旧ドイツ領を併合したことで戦間期に大英帝国に匹敵する「フランス植民地共和国」を形成した。それぞれの地域によって植民地化の経緯や事情が異なるため一概に論じることはできないが、そのなかでもアルジェリアは別格だった。
第二次世界大戦後、民族自決の流れのなかで、フランスもまた植民地支配の見直しを迫られることになる。だがそのときもアルジェリアは「植民地」ではなかった。なぜならそこは、フランスの一部だったのだから。
フランスの植民地経営は、フランス人の大規模な入植をともなうものではなく、「原住民」を“文明化”してフランスに従属させることを目的としていた。これはフランスが、西欧諸国のなかでは唯一19世紀に人口の増加が止まり、自国の貧困層を海外の植民地に“輸出”する必要がなかったからだ。
だが地中海をまたぐアルジェリアだけは、フランスの「生命線」として、フランスに「同化」することが当然とされた。この同化はアルジェリア人を“フランス化”するのではなく、フランス人(白人)がアルジェリアに入植することで達成されることになっていた。
そのためフランス政府はアルジェリアの土地を没収し、それを無償供与することで入植者を募った。だが実際にはフランス人だけでは応募を満たせず、イタリアやスペインなどからの入植者も受け入れた。彼らはやがてアルジェリア社会の主流層と融合し、フランス語を話す「フランス人」になっていく(アルベール・カミュは1913年にフランス領アルジェリアに生まれているが、父親はフランス人、母親はスペイン人だった)。
次にフランス化したのは、アルジェリアに住むユダヤ人だった。「白人」人口を増やしたいフランス政府が彼らに積極的に市民権を与えて懐柔しようとしたためだが、ドイツ占領期のヴィシー政府によってその市民権は剥奪されることになる。
アルジェリアのフランス人(白人)は、「ピエ・ノワール(黒い靴)」と呼ばれた(最初にこの地を訪れた白人が黒の革靴をはいていたからだといわれるが、これ以外にも諸説ある)。アルジェリア独立戦争が始まった1954年時点で、1000万の人口のうち100万人(10%)がピエ・ノワールで、そのうち79%が現地生まれだった。彼ら「フランス人」にとっては、アルジェリアが唯一の“故国”だった。
フランス政府は同化政策によって一部のアルジェリア人にも市民権を与えたが、高等教育を受けて完璧なフランス語を話すだけでなく、イスラームを捨てて世俗化することが条件とされたためその数は多くはなかった。
カトリック教徒でも「フランス人」でいられるのだから、棄教を帰化の条件とするのは理不尽だ。フランスには、当初からアルジェリア人に無条件で市民権を与えるつもりなどなかった。フランス革命の敵は王党派と旧態依然たるカトリック(教会)で、「ライシテ(非宗教性)」が共和主義の理念になったのだが、それを植民地に適用することで、「アルジェリアは“フランス”だが、アルジェリア人は“フランス人”ではない」という都合のいい差別政策が可能になったのだ。
だがそれでも「フランス化」したアルジェリア人はいたし、補充兵としてフランス軍に徴用されるなどしてフランス側でアルジェリア独立戦争を戦ったひとたちもいた。彼らはアルキと呼ばれている(フランス軍のアルジェリア人補充兵「アルカ」からきている)。
アルジェリアとの「汚い戦争」が膠着状態に陥り戦死者・戦傷者が増えたことでフランス第四共和政は崩壊し、“英雄”ドゴールが保守派によって担ぎ出された。ドゴールは当初、連邦制による植民地の維持を考えていたが、民族自決の潮流に抗するのは不可能と見ると一転してアルジェリアとの講和を目指すことになる。
こうしてアルジェリアは1962年に独立を果たすのだが、その後、難民の流入を恐れたフランス政府がアルジェリア人の本国への渡航を禁じたことで、アルキの多くがアルジェリア民族解放戦線(FNL)によって裏切り者として処刑された。それでもアルキの一部はフランス軍兵士などの手引きによってフランスに移住したが、彼らの存在は長らくフランス社会のタブーとされ、フランス軍の駐屯地や過疎地の住宅に「隔離」されて暮らしてきた。
アルキについての統計記録はほとんどないが、戦後フランスに逃れたのが5万人で、現在、その子孫40万人が国内に暮らしているとされている。アルジェリアに置き去りにされたアルキは15万人程度で、FNLによる処刑の規模は3万人から15万人まで諸説ある(15万人説によるとアルジェリアのアルキは根絶やしにされたことになる)。こちらはアルジェリア現代史の暗黒面で、FNLが政権を担っている以上、客観的な調査は不可能だろう。
アルジェリア独立戦争におけるもうひとつの暗部は戦争末期の1961年に結成されたOAS(秘密軍事組織)で、彼らはアルジェリア独立の容認に猛反発し、フランス国内で講和派の政治家を標的としたテロを繰り返し、公職追放や拘禁刑、死刑に処せられる者もいた(フレデリック・フォーサイスの傑作『ジャッカルの日』では、OASに雇われたプロの殺し屋がドゴール暗殺を企てる)。だがアルジェリア独立後、国論が二分することをおそれたフランス政府はなし崩し的に彼らへの恩赦を連発して「戦争責任」の議論を封じた。
このようにフランスにおける「植民地(アルジェリア)問題」とは、日本のような「かつての植民地に対する謝罪と賠償」ではなく、ピエ・ノワールやアルキなど引揚者への補償や名誉回復、OASへの恩赦を議論することだった。なぜなら彼らは「フランス」に暮らしていた「フランス人」で、フランス政府がアルジェリア(FNL)との講和で一方的に「国土」を放棄したために安住の地を失うことになったのだから。
植民地支配に対して「肯定的な役割」を与える
失意のピエ・ノワールに最初に手を差し伸べた政治勢力は左派だった。アルジェリアとの講和を進めたのがドゴールの共和派だったためで、「敵の敵は味方」の論理で1966年には社会党を中心にOASの元メンバーの復権を求める法案が提出された。ドゴールが69年に引退すると共和派もアルジェリア問題で宥和政策に転じ、左派以上に寛大な補償を認めていく。こうしてピエ・ノワールは、保守派から左派までフランス政界で隠然たるちからを行使するようになった。先に述べた2005年「引揚者法」は、ピエ・ノワールからの「歴史の見直し」の一環として実現したものだ。
引揚者法は第1条で、「アルジェリアの県、モロッコ、チュニジア、インドシナ、さらにかつてフランスの主権下にあった領土において、フランスがなし遂げた仕事に参加したフランス人に国民は感謝を表明する」としている。このような法律を日本が韓国、台湾、満州などからの引揚者に対して制定することを考えれば驚き以外のなにものでもないが、さらなる驚愕は第4条だ。
第4条1項では、「大学などの研究において、とりわけ北アフリカにフランスが存在したことについてしかるべき位置を与える」と定め、さらに第2項では、(高校以下の)学校教育において「海外領土、なかでも北アフリカにフランスが存在したことの肯定的な役割」を認める、と明記したのだ。
周知のように歴史教科書問題では、大日本帝国時代の現代史をどのように記述すべきか、「侵略」の定義などをめぐってはげしく争われた。それに対してフランスでは、植民地主義の「肯定的な役割」を学校教育で教えるよう法制化しようとし、保守派のシラク政権が提出したこの法案は、左派政党からもさしたる異論が出ずに議会であっさり可決されている。唯一の批判らしきものは、上院で共産党議員が第4条に関して、「自身も含め、各人にはそれぞれの歴史的事実があるのであり、議論自体はきわめて正当であるとする一方で、この条項の「新植民地的かつ修正主義的な文言」には深く衝撃を受けた」と述べたことだけだという。
日本はずっと、「中国や韓国から繰り返し歴史認識を批判されるのは、過去の反省と謝罪の気持ちが足りないからだ」といわれてきた。私はこうした主張がすべて不当だとは思わないが、だからといって「欧米を見習え」というのは明らかにおかしい。
近現代史の歴史家のあいだではすでに常識になっていることのようだが、ヨーロッパ諸国の「歴史認識」は日本とはかけ離れている。もし日本がフランスを「見習え」ば、「韓国・台湾の植民地化や満州国建国にも“肯定的な役割”がある」と学校で教えるべきだ、という法律をつくることになるだろう。“進んだ”欧米諸国と比較して日本の戦争責任を論じるひとたちは、この事実を知っているのだろうか。
次回は、(私たちからみて)驚天動地のこの法案がフランス社会でなぜ受け入れられたのかを考えてみたい。
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