エマニュル・トッドの家族人類学はどこまで正しいのか?

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2016年3月3日公開の「「家族人類学」的には最善のはずのフランスで 深刻な移民問題が起きている矛盾」です(一部改変)。

HJBC/Shutterstock

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前回、フランスの人類学者エマニュエル・トッドの『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』(堀茂樹/文春新書)を紹介したが、実は予定していたことの半分くらいしか書けなかった。トッドの主張は彼の「家族人類学」を前提としないと理解できないのだが、その説明に思いのほか手間取ったのだ。そこで忘れないうちに、残りの私見も述べておきたい。

参考:「「わたしはシャルリ」のデモを、エマニュエル・トッドの家族社会学から考える」

トッドは、ひとびとの価値観はどのような家族制度に育ったのかに強く影響されるという。人類の主要な家族制度は次の4つだ。

(1) 直系家族。父親の権威に従い、長子のみが結婚後も家に残りすべての財産を相続する。ヨーロッパのドイツ語圏のほか、アジアでは日本、韓国に分布。

(2) 共同体家族。父親の権威に従うが、兄弟が平等に相続し大家族を形成する。外婚制共同体家族(嫁を一族の外から探す)は中国、ロシア、東ヨーロッパなど旧共産圏に分布。内婚制共同体家族(イトコ婚など一族の内部で縁組する)は北アフリカや中東などアラブ/イスラーム圏に分布。

(3) 平等主義核家族。成人すると子ども全員が家を出て独立した家庭を構え、財産は兄弟(姉妹)のあいだで平等に相続する。ヨーロッパではパリ盆地やイベリア半島、イタリア西北部・南部に分布し、植民地時代に中南米に拡大した「ラテン系核家族」。

(4) 絶対核家族。成人した子どもが独立するのは同じだが、財産は遺言によって不平等に相続される。イングランドやオランダ、デンマークなどに分布し、植民地時代に北米やオーストラリアに拡大した「アングロサクソン型核家族」。

ほとんど国は「一地域一家族制度」だが、トッドによれば、フランスは世界でも特殊な地域で、この4つの家族制度がすべて存在するという。とりわけパリと地中海沿岸(ニースやマルセイユ)の平等主義核家族と、ピレネー山脈に近い南部の直系家族の対立が中世以来のフランスの歴史をつくってきた。それに加えて近年は北アフリカからの移民(内婚制共同体家族)が存在感を増し、この3つの家族制度の混在とグローバル化によってフランスの古きよき共和主義は崩壊しつつある、というのがトッドの診断だ。

「家族人類学」には反証可能なエビデンスがない

トッドの家族人類学はきわめて刺激的なもので、「マルクス主義以降の最も巨視的な世界像革命」と呼ばれたりもするが、アカデミズムのなかで正当な扱いを受けているとはいえない。その理由のひとつは、反証可能なエビデンス(証拠)を提示できていないからだろう。

家族制度が価値観を規定するというトッドの理論では、共同体家族や平等主義核家族で育てば「社会は平等であるべきだ」と考えるようになり、直系家族や絶対核家族に生まれれば「社会に格差があるのが当たり前だ」と思う。この仮説が正しいかどうかを検証するのはそれほど難しくないだろう。

社会心理学ではひとびとの価値観の偏りを調べるためのさまざまな実験が考案されている。代表的なのは最後通牒ゲームで、2人1組で分配者と受領者になる。分配者は賞金(たとえば1000円)を受領者と分け合うが、いくら渡すかは自由に決められ、受領者に交渉の余地はない。ただし受領者は分配者の提案を拒絶することができ、その場合賞金は没収される。

このとき2人が「合理的経済人」なら、分配者は999円を自分のものにし、受領者には1円を渡すだろう。受領者は、この提案を拒絶すればなにももらえないのだから、分配者からの1円を受け取って取引は成立するはずだ。

だがすぐにわかるように、現実にはこのようなことは起こらない。分配者が提示する金額があまりに少ないと、受領者はそれを理不尽と感じて提案を拒絶し、分配者を罰しようとするからだ。

分配者もそのことを知っているから、受領者が受け入れ可能な金額を提示しようとする。その金額は300円だったり400円だったりし、ときに500円のこともある。折半なら受領者は確実に取引に応じるから、利益が最小になる代わりに賞金没収のリスクもゼロになるのだ。

これはもっとも単純な経済ゲームだが、ここから分配者や受領者の「正義感覚」を知ることができる。「社会は平等であるべきだ」と考えるなら、分配者は折半に近い金額を提案するだろうし、受領者はは不平等な提案を正義に反すると拒絶し、自分も相手も1円も受け取れない「平等」を選ぶだろう。逆に分配者と受領者がともに不平等=格差が当然と思っていれば、6:4や7:3など分配者に有利な比率で取引が成立するはずだ。

トッドによると、フランスには代表的な4つの家族制度がすべて揃っているという。だとすればそれぞれの地域出身の学生(および北アフリカなどからの移民)を集めてこの経済ゲームをやってみて、地域ごとに明らかな(統計的に有意な)ちがいがあるかどうかを調べてみればいい。家族制度によって取引成立の金額が異なるのなら、「家族人類学」の正しさの有力な証明になるだろう。

こうした実験を行なうのはさほど難しくはないし(被験者は地方出身の学生でいい)、その結果を他の研究者が別の方法で再現することもできる(たとえば直系家族(不平等)の日本人と、共同体家族(平等)の中国人では、最後通牒ゲームで分配する金額に差がでるはずだ)。だがトッドはこうした手法で自説を補強することには興味がないらしく、この魅力的な仮説は「科学」なのか「疑似科学」なのか判別できないままだ。

フランス型の同化がもっともすぐれた移民政策

エマニュエル・トッドは『移民の運命 同化か隔離か』(東松秀雄、石崎晴己訳/藤原書店)で欧米諸国(アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス)が移民をどのように扱っているかを比較検討している。この大著をあえて要約するなら、「それぞれの国は社会の基盤をなす家族制度に合ったやり方でしか移民を受け入れることができない」ということになる。

絶対核家族のイギリスは社会の根底に「不平等(格差)」があるから、白人のあいだで強固な階級社会をつくりだした。大英帝国が植民地を拡大するにつれてイギリス社会に移民が流入したが、彼らはアングロサクソンと同化することができず、周縁部に隔離されることになった。

そのイギリスの家族制度を“輸入”したアメリカでは、社会の基盤にある不平等主義と、独立宣言で謳いあげた「自由と平等」に整合性を持たせるという難題を抱え込んだ。これを解決したのが黒人の存在で、彼らを差別・隔離することで、プロテスタントかカトリック化を問わずヨーロッパ系白人のあいだでの「平等」が実現した。

ドイツは日本と同じ直系家族で、社会の基盤には血統(血の権利)がある。これがヒトラーの扇動によって社会全体がホロコースト(アーリア人種の純血)へと雪崩を打った理由だ。

戦後ドイツは、東欧(旧ユーゴスラヴィア)からの移民の同化に成功したものの、トルコ移民は社会の主流から隔離されてゲットーをつくった。トッドは、外見的にはギリシア人などと区別のつかないトルコ人を排除する理由は宗教(イスラーム)以外になく、ドイツにおけるトルコ人はアメリカにおける黒人と同じで、彼らの存在が、ゲルマン民族か東欧経過を問わずドイツ社会におけるヨーロッパ系白人の平等を促進したとする。

それに対してフランスは、中央部(パリ盆地)の平等主義が移民の同化を促し、フランス人(白人)と移民の婚姻率はイギリスやドイツに比べて際立って高い。だがフランス南部には不平等を社会の基盤とする直系家族の集団がおり、両者の対立から生じる普遍主義と民族主義の緊張が現代フランスの政治状況を規定している、とされる。

4つの代表的な社会(国家)の家族制度と移民の運命を詳細に検討したうえでトッドは、移民の隔離が社会を不安定化させることにしかならない以上、フランス型の同化以外に道はないと断言する。『移民の運命』は、「あらゆる出自の移民は、フランスが彼らの子供たちを完全なフランス人にしようとしていると知れば、少なくとも安堵し、喜ぶことであろう」と結ばれている。

この本が書かれたのが1994年だから、『シャルリとは誰か?』は、それから20年たってヨーロッパ(とりわけフランス)における移民の運命がどのように変わったのかを検証したものともいえる。

トッドが予言したように、移民と同化するのではなく、差異を認めて共生しようとするアメリカ、イギリス、ドイツの「多文化主義」は頓挫しているように見える。不平等主義においては、共生は隔離にほかならないのだから、これは当然のことだ。

だがそれ以上に、同化政策のフランスで暴動やテロなど大きな問題が起きている。なぜ最善の道を歩んでいたはずのフランスが移民問題で深刻な困難を抱えることになったのか。これがトッドに課せられた問いだろう。

シリアなどから膨大な数の難民たちがヨーロッパに押し寄せているが、彼らの目的地はドイツであり、北欧諸国だ。それにも増して皮肉なのは、ドーバー海峡に面したカレーにイギリスを目指す難民たちの巨大なキャンプが出来ていることだろう。

イギリスでは彼らは「隔離」され、社会の主流に受け入れられることはない。それにもかかわらず、かつてフランスの植民地だったシリアから逃れてきた難民たちは、「完全なフランス人」になることになんの興味も示さずに、「理論的」にはより劣った移民政策を採る国々を目指しているのだ……。

ユーロを否定すれば極右に近づく

トッドによれば、「シャルリ」とは、ムハンマドを冒涜する権利だけでなく、“義務”すら負っていると考えるフランス人(白人)のことだ。『シャルリ・エブド』襲撃事件直後には10人に1人が「私はシャルリ」の標語を掲げて街頭に出たことを考えれば、いまやほとんどすべてのフランス人がシャルリになってしまった。

なぜこのような驚くべき事態が起きたのか。これについてトッドは、二つの理由をあげている。

ひとつはユーロ導入によって「グローバル資本主義」が経済を破壊し、若年層を中心に失業率が上がったこと。不況と雇用不安は労働者層を移民排斥に向かわせると同時に、社会的にもっとも弱い立場にあるムスリムの若者たちから生計の道を奪い、彼らをイスラーム原理主義に追いやることになった。

もうひとつは高齢化によって、有権者の多数派が「平等」よりも福祉を求めるようになったこと。彼らは自分たちの安楽な生活を守ることを優先し、苦境に置かれた若者や移民のことなど考えようとはしない。

だがこうした説明は、それまでの華麗な論理からすると肩透かしを食った感は否めない。格差の拡大や高齢化はどこでも(日本でも)起きていることで、フランス特有の問題ではないからだ。

トッドは、統一通貨ユーロをグローバル資本主義の“新しい神”だとして否定する。だがユーロ創設時の議論を振り返れば明らかなように、財政基盤のない統一通貨の構造的な欠陥を指摘したのはミルトン・フリードマンら「ネオリベ」の経済学者で、その警告を無視してユーロ導入に突き進んだのは、ドイツに“最強通貨マルク”を放棄させることが国益に適うと判断したフランスの政治家・官僚・国民だ。

たしかにギリシアのような破綻寸前の国家は、ユーロから離脱して通貨を大幅に切り下げることで市場での競争力を回復できるかもしれない。だがフランスがユーロから離脱すればユーロは解体し、ドイツもマルクに戻ることになるだろう。ユーロのくびきから逃れることでドイツ経済がますます強くなれば(その可能性も高い)、フランスとドイツの「経済格差」はより広がることになる。

ユーロ導入時には、旧東ドイツとの統合に苦しむドイツとフランスの国力は拮抗していた。“ドイツ1強”になったのは、グローバル資本主義の陰謀というよりは、フランスの経済制度や企業の経営戦略、労働者の働き方に問題があったからだろう。だがトッドは、『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる 日本人への警告』(堀茂樹訳/文春新書)などでドイツの「帝国化」をはげしく批判するだけで、なぜ20年のうちに彼我でこれほど大きな差がついたのかについてはいっさい言及しない。――こうした議論のスタイルは、「アメリカ帝国主義」の陰謀を批判し、日本的経営や日本的雇用の低い生産性を無視する一部の論者と瓜二つだ。

フランスにおいてユーロ離脱を主張するもっとも強力な政治勢力は“極右政党”の国民戦線(FN)だ。それ以外の国でも、EUからの脱退やユーロ離脱を求めるのは「反移民」の右翼政党と相場が決まっている。それに対して高学歴・高所得層はEUとユーロを支持しているのだから、トッドがフランスのユーロ離脱を本気で実現しようとすれば極右と組むほかはない。

極右と極左は、「市場原理(グローバリズム)の否定」ということで共通している。その結果両者の政治的主張は近似してしまうのだが、トッドにその自覚があるかどうかはよくわからない。

「ムハンマドを冒涜する自由」を批判する自由

トッドは、フランスにおいて経済格差がイスラーム原理主義のテロリストを産む理由は「ライシテ(非宗教性)」を絶対化する「ネオ共和主義」だという。

ライシテは、フランスの共和主義の根幹にある政教分離の原則のことだ

立憲(議会)君主制は君主のいる民主政、共和制は君主のいない(人民主権の)民主政のことだが、フランスの「共和主義」は日本人にはわかりにくい概念で、フランス革命の理念(自由・平等・友愛)に立脚した保守主義をいう。これがなぜ「保守」なのかというと、「フランスの偉大さは革命の理念の普遍性にこそある」と考えるからで、第二次世界大戦中に対独レジスタンスを率い、戦後は大統領として第五共和制を開始したシャルル・ド・ゴールがその象徴だ。

こうした事情はアメリカも同じで、独立戦争の理念(自主と自由)を掲げるのが保守派で、「共和党」を名乗っている。フランスでも2015年5月、前大統領ニコラ・サルコジは中道右派の国民運動連合を「共和党」に改称した。それに対して進歩と改革を求めるのがリベラルで、アメリカでは民主党、フランスでは社会党になる。

ところがフランスは、アメリカとは若干事情が異なる。周知のようにアメリカはインディアン(アメリカ原住民)の土地につくられた人口国家で、「歴史」の1ページ目は独立戦争から始まる。

それに対してフランスは、革命の前にも長い歴史がある。5世紀のフランク王国(あるいは前9世紀のケルト人の移住)まで遡って「国民の歴史」を書くこともできるわけで、このエスニシティ(民族性)をフランス固有の伝統とする保守主義も当然成立するだろう。この政治的立場を担うのが“極右”とされる国民戦線だ。

フランスでは長らく革命の理念の普遍性こそが「フランス」だとされ、エスニシティに拠った政治的主張は偏狭な「反ユダヤ主義」として忌避されてきた。だが国民国家は国家と国民(民族)を一体化させる仕組みだから、理念的な普遍主義(フランスこそが世界だ)ではどうしても無理が生じる。この矛盾が移民問題を契機に噴出して、国民戦線(民族主義)、共和党(共和主義)、社会党(リベラル)が鼎立することになったのだ。

いずれにせよ、フランスでは革命の理念こそが「国家の品格」の根幹だと考えられている。共和主義からすれば、公立学校でヒジャブ(ベール)を着用するのは「信仰の自由」ではなく、「フランス」を否定する行為なのだ。

トッドもまた(オールド)共和主義者としてライシテを擁護し、ヒジャブを法で禁じるのは当然だと述べる。ヒジャブが女性差別につながるからで、フランス社会に同化するためにはイスラームは女性の権利を完全に認めるところまで世俗化しなければならないのだ。

トッドはさらに、「ムハンマドを冒涜する表現の自由」も擁護する。だがそれと同時に、「ムハンマドを冒涜する自由」を批判する自由もまた擁護されなくてはならない。これはもちろんトッド自身のことで、「シャルリ(デモ参加者)はムハンマドを冒涜することを“義務”としている」と述べたことで、(本人がいうには)フランス社会におけるいっさいの表現の自由を奪われた。

割礼を禁じるのは宗教への差別なのか

それでは、ネオ共和主義の「ライシテの絶対化」とはなんだろう。実はこれは、トッドの本を読んでもよくわからない。そこに出てくるのは、ドイツにおいて男子の割礼(陰茎の包皮の切除)が傷害罪で起訴されたことと、『シャルリ』襲撃事件のあと、フランスのテレビ番組でムスリムの出演者が、ムハンマドを風刺する表現の自由を認めるように出演者たちから強要された、というエピソードくらいなのだ。

クリトリスを切除する女子の割礼が先進諸国で違法とされるのは、本人の意思を無視して、身体に回復不能の損傷を負わせるからだ。それに対して男子の割礼は衛生上有用で、さしたる不都合はないのかもしれない。だがたとえそうだとしても、親が宗教的な理由で一方的に包皮を切除するのではなく、子どもが成人後に自らの意思で選択すればいいだけのことではないだろうか。私はこれを本人の自己決定権を尊重する穏当な世俗主義だと思うのだが、トッドによればライシテを絶対化した許しがたい暴挙なのだ。

前回述べたように、これはヨーロッパにおけるリベラル化の潮流(権利革命)のなかで考えた方がすっきり理解できる。「子どもの身体的インテグリティ(身体を完全なかたちで保存すること)の権利」を決議するよう欧州評議会に求めたドイツ社会民主党の議員は、自分を「子どもの権利を擁護する戦士」と見なしているとトッドは批判する。かつては多文化主義(異なる文化の尊重)の名の下に許容されていたものが、リベラルのハードルが上がったことで、「残酷で許しがたい因習」へと変わったのだ(ちなみにこの決議案は、賛成78票、反対13票、棄権15票で欧州議会で可決された)。

トッドが割礼についてこだわるのは、それがイスラームだけでなくユダヤ教の慣習でもあるからだ(EUの決議に対してイスラエルが抗議したのはそのためだ)。ライシテの絶対化はイスラームだけでなくユダヤ教をも標的にしており、シャルリの悪意はいずれ反ユダヤ主義に変質していくとトッドは考えているようだ。トッド自身がユダヤ人だが、その危機感は次の一節にもあらわれている。

実地調査によれば、割礼を施された者も、施されていない者も同様に自分の状態に満足していて、何の不満も抱いていない。したがって、ほかでもないドイツが、100万人のユダヤ人の子供を皆殺しにしてからまだせいぜい70年しか経たないのに、その国内にいる他のユダヤ人の子供たちの身体的インテグリティに関して、何の後ろめたさもなしに判定者のような態度をとるというのはどういうことなのだろうか。唖然とするほかない。

そしてドイツ人のことを、「やや特殊な国民で、もちろん本質的に反ユダヤ主義やイスラム恐怖症だということではないが、少なくとも分裂症だとはいえるだろう」と、かなり微妙な表現で批判するのだ。

だがここで、トッドはかなり混乱しているようだ。ライシテはフランス共和主義の原理なのに、なぜそれがドイツ批判になるか、正直、この論理をそのまま受け入れるのは難しい。

移民から見捨てられるトッドの夢

トッドはヨーロッパの将来について、いまでも最善の道はフランス型の「同化」しかないと考えている。フランス人(白人)とムスリムの移民が対立しているように見えたとしても、今後、移民との混血がつづいていけば、アラブ(内婚的共同家族)の平等主義がパリ盆地などの平等主義核家族を補強して、フランスはより自由で平等な国になるだろうとの展望を語る。

パリはおそらく、いろいろな困難にもかかわらず、やはりいつの日にか地球上の驚異の一つとなるだろう。世界中のすべての民族の出身者らが融合する街、ホモ・サピエンスが地球上のいたるところへ分散したときに分かれて、以後10万年以上分かれていた表現型(フェノタイプ)の数々がついに混ぜ合わされ、かき混ぜられ、再組成されて、あらゆる人種意識から解放された一つの人類に再構成される。そんな新たなエルサレムになるのかもしれない。

これがトッドの描くユートピアだが、その実現は遠い先の出来事だ。「それまでの道のりは、私が20年前に想像していたより遙かに混沌として」いることをトッドは認め、「私の世代が約束の地を見ることがないだろうことは、すでに確実である」と本書を終えている。

だがそれにも増して落胆すべきことは、当の移民たちが、トッドの夢見る「新たなエルサレム」になんの魅力も感じていないことではないだろうか。

グローバル化によってひとびとの移動が自由になり、何百世代、何千世代と絶てば、混血によって人種や国民、国家という枠組は不用になるだろう。あるいはその前に、人類が絶滅しているかもしれないが。

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